「 静電気の実験 」   
  
静電気の実験として左図のような装置を作成してみました。
同種の電気は反発しあい、異種の電気の間では引き合う。
この性質をしっかり理解することによって、様々な応用発展が考えられます。
そこで左図の装置について少し説明を加えます。
真ん中にアルミ箔で作った管をぶら下げてあります。
その両側にはA,Bの電極がありますが、Aはアースと接続されており、アルミ管がふれるとそこに帯電している電気は逃げるようになっています。
実験の手順
塩ビ管を紙でこすりマサツ電気を起こします。
帯電した塩ビ管をBの電極に近づけるとアルミ管はBに引き寄せられます。  ところがBにふれたとたんにアルミ管にBの電気が伝わり同種の電気となり反発します。
反発したアルミ管は左へ動きAにふれます。ところが触れたとたんに電気はアースに流れ再びBに引き寄せられます。
このことが繰り返し起こるので、アルミ管は電極の間を往復することになります。
この実験を体験した後で「フランクリンモーター」へとつないでいきます。
青少年のための科学の祭典では、フランクリンモーターをかなり改善し形も変えてみました。

小学生には動きだけを見てもらったらよいと思いますが、中学生には動くしくみなども理解して欲しいと思っています。

戯言
子供たちの身の回りでは職人さんの仕事を眺めたり、製品を作る過程などを眺める機会がほとんど無くなりました。
また、苦労しなくても安楽に生活ができるので生きるために考えたり努力する機会も少ないですね。  
自然に対する関心も薄くなってきたようです。   しかし、ダヴィンチが雨の降る様子を見てどこから落ちてくるのか突き止めるためにアルプスに登ったというような素朴な疑問、考え、観察があってもよいのではないかと思います。
自然を眺めても何の関心も示さない。 野原や浜辺に遊びに行っても遊び道具がなければ遊べない。 誰かに遊びを教えてもらわなければ遊べない。
そんな子供が多くなってきたのではないでしょうか。
何もかも便利になり、学習も容易になってきたように思います。  しかし、社会に出れば子供時代の生活体験とずいぶん異なることを実感するのではないでしょうか。
学習においても子供中心にすすめられる傾向が強いように思いますが、子供がもっている興味関心、知識を基にすすめれば活発に活動し、意欲も見られますがそれだけでよいのでしょうか。
困難にぶっつかり、壁にぶっつかり挫折したり、自ら乗り越える体験も必要ではないでしょうか。
教育のなかでは、教育課程、学習過程が重視されるべきだと思いますが、小中学校の理科では科学教育の基本理念が軽視されているように思えてなりません。  
指導要領の改訂で中学校の電気抵抗の記号が再三変わったり、小学生が理解できそうもない部品を使って興味だけを重視したような太陽電池遊びなど科学的思考を軽視したような内容がかなり目立ちます。 実験について言うならば知識の検証をしたり、問いかけるような実験もありますが結論が重視されています。 教材には順次性があり、基礎基本の段階では学習の段階、過程をはっきりと示しそこから発展を考えるべきだと考えます。
基礎基本を育みそこから展開し発展させていくのが本来の姿ではないでしょうか。  
従来の学習は、教師指導型の詰め込みだと批判される指導者もいますが、昔の良心的な理科教師は子供たちの自主的な学習を進め豊かな発想を展開するために努力しました。 今の子供たちがどれだけ学習を発展し発想を展開できているか考えると誠に残念でなりません。
学力=ペーパーテストの成績、知的理解の重視 ? 子供主体の学習活動は、基礎基本の学習があってこそ真の意味で進展すると思います。
安易に情報データが得られるのはありがたいですが、知的理解だけが一人歩きしてるような場面もあります。
第一余裕が無く、知的理解記憶にかなり重点がおかれています。  
ペーパーテスト重視 ?  子供らしい発想、疑問、質問が吹き出してくるような学習はできないのか? 
学習の過程では全部結論づけて結果を出すことに重点を置く必要もないのではないでしょうか。
学力をペーパーテストだけで計るならば、試行錯誤しながら考える実験観察などできません。 検証実験だけになる。
先日、NHKスペシャルシリーズ番組で学校が変わると言うことで学力の問題が取り上げられましたが、驚きました。
大勢の先生たちを招いての研修会で理科の授業公開の場面が出ました。
速さを取り上げていましたが 速さの「は」距離の「き」時間の「じ」を組み合わせた形を丸暗記させ、結果を出す技だけを教えている。
速さを考えたり、なぜ「速さ」が必要なのかを無視したペーパーテストの結果だけを重視する授業。  科学的思考などまったくない。
教育評論家はその成果を評価する。   学力(知的理解)が上がれば、管理者は喜ぶ、よい先生、よい学校と評価している。
別の学校では、教育長の指示で学力(ペーパーテストの結果)を向上させなければならないといわれている。
習熟度別や少人数学級編成などどんな方法を使ってもよい、ただし学校も株式会社と一緒で結果を出さなければ意味がないと言ってる。 長期の展望するような時間はない。 すぐに結果を出さなければ意味がないと言っている。
東京の日比谷高校のようすにも吃驚した。  東大の合格率が下がって何とかしなければならない。  学力(ペーパーテスト)向上させるために予備校へ5人もの先生が研修に行っている。  模擬授業もあったがすごく立派な指導をされているなと感心した。しかし、予備校の先生はもっと入試に結びつくような問題も入れたらとか言うようなことを助言していた。 昔からの伝統ある学校で学園として恵まれた環境だったはずだが予備校化していくのは残念でならない。   学校は、知的な内容の習得だけが目標ではないはずだ。 学習の過程、学校生活、環境すべてを含めて独特の雰囲気も創り醸し出していたと思う。
学習は、一つの答えをすぐに出すことだけでなくopen end 的にすすめて発想の展開発展を喚起することも大切だと考える。
例えば、電流と磁気に関する学習では「エールステッドの実験」から出発することによってそこからの発展は大きく期待できると思う。
昔、磁界と電流の学習をしている中学生が「ボートの下の海水に電流を流し、強力な磁界を作ったら海水が力の作用を受けて動き出す」のではないか」
と考えた生徒がいました。 フレミングの法則を丸暗記するだけでなく学習を楽しむ余裕があったですね。
コマの性質を考えたりしている時に船に固定すれば揺れない船ができるのではないかと生徒の考えが発展したりしました。
戦後の生活単元学習(プラグマティズム) 教材を精選した系統学習、学習過程(探求過程)を重視した理科の現代化など変化してきましたがそれなりの理由、フィロソフィーがあり十分納得した上で取り組まれてきました。 
古いと言われるだろうと思いますが、現在の社会状況への対応だけにとらわれず教育の原点を見直しては如何でしょうか。
一つの発見から大きく発展していく事例は案外古典物理にも沢山含まれているようです。
高度な内容を理解させるために子供が理解できないような機器、薬品を使うよりも子供たちが理解できる装置やしくみからスタートして発展させることが大切です。   科学サイエンスと技術テクノロジーの教育は異なるはずです。  

実験は 単純化し 変化は大きく見せる事も大切。
そして、自然との関わりの中で物事を科学的に考えること。
地球の自転について学習しても今自分がどちらにどれくらいの速さで動いているのかわからない。  考えようともしない。
月が真上に出ているのに海水は引き潮になっている事について疑問を持たない。  質問もない。  どうでもよい。 関係ない。
科学的好奇心を喚起すれば必ず疑問がでてそこから学習のスタートできると思う。
今年、中学校で授業する機会がありましたが生徒の中で「テストの成績はよくなかったけど理科が好きになりました。これから頑張ります」と言われた時に教師としてこれ以上嬉しいことはないと感動しました。   ペーパーテストオンリーの学力、予備校化していく学校は寂しいですね。
長々と愚痴めいたことを書いてしまいましたが読んで頂いた方があれば深く感謝いたします。    理科嫌いは是非無くしたい。

 ・科学技術を享受して生活するからには科学的知識と正しいことを判断できる力がなければ大変な過ちを犯すことになる。

 ・一過性の興味関心で終わることなく発想の展開発展を期待できるような学習を進めるべきだと思う。