「 トチノキ 」の木陰に      
 
















 





















木陰に臥す者は
  枝を手折らず

    
韓詩外伝    
              「 トチノキ 」   樹齢20数年
                                                                                      
 「トチノキ」が好きだったので玄関脇に植えて20数年を経過したが未だに花を咲かせることはない。
聞くところでは樹齢30年で開花したとのことなのであとしばらくだと楽しみにしている。
今年の梅雨は雨があまり降らないまま過ぎていったが、すごい暑さだった。
そんなときにトチノキは大きな葉を広げて心地よい涼しさを贈ってくれた。
日光を遮り、光合成で空気を清浄化し、木陰の風もクーラーにない清涼感を運んでくれる。
夏の暑い日には大変助かりトチノキと共に暮らしている感じだった。
もし、この木がなければ日光はまともに照りつけ庭も家屋も急激に温度が上昇するだろう。
しかし、植物はトチノキに限らず「蒸散作用」によって自ら温度調節を行い、周囲の気温を下げてくれる。
小鳥たちも毎日緑陰を楽しむかのように集まってくる。
最も多いのは「ウグイス」で朝から身近でさえずりを聞くことができる。
他に雀、ホオジロ、ヒヨドリ、イソヒヨドリなどが遊びにやってくる。
「時鳥」は、近寄らないが遠くから呼びかけるように鳴き続けている。
植え付けたときは小指ほどの太さしかなかったトチノキだが、今では直径約18cmになり二階の屋根を越そうとするほど成長している。
トチノキにとっては高山の涼しい場所を好むと思うが、この木は我が家の蒸し暑い場所で頑張ってくれている。
 

戯言(たわごと)
 植物はすごいと思うことがある。
 先ず地球環境を支えているのは植物であり、生物の生命基盤を創り出す生産者でもある。
 動物は植物がつくりだすものによって生命を維持している。
 地球上生命体の中核的存在と言ってもよいだろう。
 植物は種が落ちて発芽するとその場所を生涯動くことができない。  
 どんなに厳しい環境であっても耐え、その場の条件に合わせて生き抜いていく。 
 また、お互いにすみかを分け合い他を侵害することも少ない。
 自分の生き方を他に押しつけるようなこともない。
 我々人間はともすると欲望によって突き進んだり、考えを押しつけようとするが、自然環境を考えると植物は最も正しい生き方をしているのではないだろうか。
 もう一つ考えることは、植物たちは成長段階でしっかりと自分を整えていることである。   
 決して成熟したときに体験するようなことを先走りしてやってしまうようなことはしない。
 各成長段階にあった暮らしを着実に実践している。
 「トチノキ」は30年ぐらい経過しないと花をつけることができない。
 花を咲かせ、種を身につけるための十分な能力を30年間の間に育んでいるのだろう。
 このような例は他の動植物たちでも見られる。
  私たちも各成長段階でしっかりと学び、体験することが必要なのではないだろうか。
 幼年期、青少年の時期に、成人の生活体験をさせたり、ゆとりや個人の自由意志を重視するだけでは何かが欠けていくように思う。
 青春の短い時代は、限られた時間にやらねばならないことがある。
 学習に於いても「教材の順次性」が無視されれば、「出会いの感動」や「理解の手法」を誤ることになる。
 幼児体験を軽んじて成長したり、修業無くして大人社会の職場体験するだけでは本物にはつながらないのではないだろうか。
 現代化されていく指導の中でブラックボックス的に展開されていくものをよく見かけることがある。
 つまり、原因と結果のみが理解され実践されれば認識できたかのように受け取られていく考えである。
 実験観察にしてもインターネットで調査研究することは大切だが、自分で時間をかけ、苦労して観察調査することとは異なるものである。
 生活や思考のなかでバーチャルの世界があまりに重視されているのではないだろうか?
 子供達には、もっと自然の姿、生き方を体得して欲しいと思うときがある。
 壁にぶっつかったり、失敗する体験も必要であると思う。  ゆとりや自由研究まで手順が示されていることにも疑問を感じる。
 自分に意志に反することであっても敢えてやらなければいけないこともあり、それに気づかずにいる場合があるのではないだろうか。    
 先日TVで宝塚音楽学校の教育を視聴したが、限られた時間、短い青春時代を精一杯頑張っている様子を見て感心した。
  先輩、指導者の指示で自分の能力の限りを尽くす態度、行為が素晴らしい。
 修業僧達も戒律に従って修業を続けるが、これが重要な体験期間であると思う。
  このような経過があって、真の理解、より豊かで高い思考、判断ができるのではないだろうか。
 幼児、青春時代を甘く過ごした人間にはない貴重なものが培われていると考えられる。
 「トチノキ」を眺めていると、花を付けるまで派手な姿も見せず環境に適応して自分を整えているように見える。
 哺乳動物は、平均すれば約15億回の鼓動で生涯を閉じると言われているが、その間の変容が重要である。
 鋼は、焼き入れ、焼き戻し、焼き鈍しなどができるが、生命体は時間の経過と共に変化していく。
 取り返しができない。
  木陰に佇みながら、植物たちが成長していく過程を観察するとさまざまな示唆を受けることが多いこの頃である。
  今回も愚痴めいたことを長々と書いてしまったが、お許しを願いたい。