今西錦司
概要
「わしは好きなことしかせん」。今西錦司は口をへの字に曲げ、よくそういった。
京大の教授になったとき、すでに57歳。登山と探検に人れ込みすぎたためだった。
前人未到の領域にしか興味を示さなかった。生態学を始め、学間の世界で次々と新しい地平を切り開く。やがて日本の霊長類学のレールを敷き、世界最高のレベルに育てあげた。
そのきっかけは偶然だった。宮崎県の都井岬でウマの群れを探していた彼の前に、サルの群れが現れたのだ。
本文
敗戦から3年の1948年(昭和23年)春、宮崎県の都井岬。今西は腰にふかしイモを入れた弁当を下げ、尾根に沿ってウマを探しで歩いていた。と、前方の茂みがざわざわと揺れ、ニホンザルの一群が現れた4、50頭はいる。群れの中に、一目でボスと分かるでかいのが一頭いた。態度も動作も人間にそっくりだ。心の中で今西は叫んだ。「ウマどころやない。こりゃ、すぐにサルをやらにゃあかん」今西錦司46歳、京大理学部の講師だった。
人間社会の成り立ちを野生動物の社会から探ろう。戦後、今西が手がけた最初の仕事だった。今西はそれをウマでやろうとした。当時まだ学生で、調査を手伝っていた川村俊蔵(75)=現・京大名誉教授=は、「今西さんの意気込みは大変なものでした」と振り返る。しかしサルとの遭遇で、日本の霊長類学の方向は決まった。実は都井岬のほかに、野生ウマ観察の候補地がもう一つあった。北海道の日高だ。今西は迷っていた。ある日たまたま手にした雑誌に、日向灘を背に岬で草をはむ群れが紹介されでいた。彼はフィールドを都井岬と決めた。川村はいう。「もしあのとき今西さんが北海道に行っていたら日本の霊長類学は10年は遅れていたでしょう。北海道にサルはいませんから」その年の秋、今西は川村と大学に入ったばかりの伊谷純一郎(73)=現・京大名誉教授=を連れて、再び都井岬を訪れた。今度は川村と伊谷が群れと会う。夕々尾根にいた二人の目の前に、百頭近いサルの集団が現れた。鳴き交わしながら尾根を渡っていく。「ガ、ガ、ガ」「クン、クン」「クイー、クイー、クイー」・…。十種類近い昔声を間き分けた伊谷は「意思を伝えあっているのだ」と直感した。
その夜、山あいの宿屋で報告会を兼ねた酒盛りが始まった。ふだん無愛想な今西が上きげんで「やっぱりサルやな」と断を下した。焼酎を飲みながら今西の講義が始まる。「動物というでも無名の集団やない。それぞれに個牲があり、複雑な社会関係があるんや」当時、こんなことをいう生物学者はいなかった。人間以外の生き物に「社会」があるなどと、だれも思っていなかったのだ。その社会を「個体識別」という、ウマの調査で初めて用いた手法で観察しようというのである。 これも今西の独創だった。群れの一頭一頭の特徴を見分けて名前を付け、長期にわたってその行動を記録していくというやり方だ。「双眼鏡とノートと鉛筆があればええ」と、今西は何度もいった。
今西はやがでヒマラヤ踏査の先発隊長としての仕事に追われ、伊谷らがサルの調査を引き継ぐ。主なフィールドは、都井岬から近い幸島と、大分県別府市の高崎山だった。五二年、個体識別に成功した。伊谷はサルの特徴にしたがって「アカキン」「カミナリ」「ヒヨシマル」などと命名し、ノートを手に朝から双眼鏡をのぞく日が続いた。「一頭一頭を見分けた上で観察すると、確かにそれ以煎とはまったく違う世界が見えてくるんです」縄張りや上下関係があり、それによって秩序が保たれでいること。互いにコミユニケーションを取りあい、文化があること、などだ。これらの発見で、日本の霊長類学は世界の最先端に立った。ある日、今西はほそりという。「いずれアフリカの大型類人猿をやらないかんな」
今西は1902年(明治35年)、京都・西陣の大織元「錦屋」の長男としで生まれた。小さいころは昆虫採集に熱中した。中学で始めた登山は、生涯を通じての生きがいとなる。学生時代、日本アルプスの未踏峰を次々に踏破し、登山家としで有名になった。31歳で理学部の講師になるが、学内のレールに乗る気はなく、15年問も無給講師のままだった。そんな彼の周りに、若き俊秀が多く集まっできた。生態学の梅棹忠夫(78)、吉良竜夫(79)、地理学の川喜田二郎(79)、植物学の中尾佐助(故人)、霊長類学の川村や伊谷、河合雅雄(75)…。
今西の家では連日、酒、議論、そして取っ組み合い。今西は乱闘にも強く、決め技は大苅りだった。44年、内モンゴルの張家口に設立された西北研究所の所長に迎えられる。研究員の一人に梅樟忠夫がいた。「研究所での勤務が終わると毎日、タ方から宴会でした」遠くりょう線の上に万里の長城が連なり、その斜面でヒツジの群れが草を食べでいる。梅棹たちが宿舎のテラスにいすを並べると、豚肉の野菜いためをさかなに、パイカルで酒盛りが始まった。「いつも激しい議論になった。今西さんは<自然そのものから学ベ>というてはりましたな」
今西はある日、「冬にモンゴルの横断調査をやろう」といいだした。外国人で零下20度の草原を歩いたものはいない。「だれも知らんからやるんや」未知の世界だけが今西の情熱をそそった。ウマとラクダでの草原行の半年間、彼はひたすら遊牧民とウマの群れを観察する。そして遊牧民が何百頭ものウマを正確に見分けていることに気がついた。「個体識別のヒントはモンゴルで得たのだと思う」と悔棹はいう。今西のカンは大自然に分け入るほどさえた。42年、旧満州の大興安嶺を縦断したときのことだ。梅樟たち若手は、頂上に近い樹林で、道を問違えたのではないかと不安になった。今西にそういうと「そんなら勝手に行け」と、別れで一人で歩いていってしまった。梅棹らが苦労して山頂にたどり着くと、すでに今西がそこに立っていた。「このくそおやじ、と腹の中で何度思ったことか。しかし学問でも探検でも、洞察力とリーダーシップは天性のものでした」
戦後、新しくできた教養部で動物学の教授にならないかと誘いがかかる。しかし今西は「次は人類学をやりたい」と断ってしまった。「いやなことは一切しませんでした」と、次女の河村皆子(60)はいう。無給講師のころ、「講義はいやだから給料はいらん」といい、確実な収入は貸家の家賃だけだった。「母が端切れでネクタイをつくっでどこかへ売りにいっでいたのを覚えでいます」皆子が横浜に住んだ十年間、父は一度も訪ねて来なかった。ところが77年、夫の転勤で北海道に引っ越すと、しげしげと姿を見せるようになる。山登りが目的だった。このころ今西は70歳代の半ばだったが、「死ぬまでに千五百の山に登る」と広言していた。登山そのものより、地図に自分が歩いた跡を赤線で引き、線が増えていくのを楽しんでいるようだった。晩年は地元の山岳会員に押し上げられるようにして登り、頂上で万歳三唱をした。東京湾の浦賀水道で水先案内のパイロットをしている長男の武奈太郎(68)はいう。「数をかせぐというか、父のあれはいやでしたね」
愛知県犬山市にある京大霊長類研究所。今西が設立に力を尽くし、67年に発足した施設だ。都井岬から始まった日本の霊長類研究が五十周年を連えた作秋、英国からジェーン・グドール博士(64)が研究所を訪れた。大型類人猿のシンポジウムに参加するためだった。彼女は霊長類学でただ一人今西をくやしがらせた研究者である。今西は60年、チンパンジー調査のため伊谷やらをタンザニアのタンガニーカ湖畔に派遣した。するとそこには、すでにテント生活をしながらチンパンジーを観察している女性がいた。それがグドールだった。仕方なく別の場所に基地をつくったが、もたもたしているうちに彼女は目ざましい成果をあげていく。チンパンジーは肉食をする。シロアリを食べるのに道具を使う…。彼女の独壇場だった。彼女は二度、今西と会っている。最初は63年、タンガニー力湖畔の彼女の基地だった。今西は一日中、山を歩き回り、日本製の赤ワインを飲んでいた。霊長類の進化に強い関心を持ぢ、意見を聞かれたことを覚えている。二度目は初来日した82年。グドールはいう。「シンボジウムで類人猿のフィルムを見ながら討論をしていたら、博士がすっと席を外した。するとフィルムも討論も中断してしまった」今西は大相撲千秋楽の結びの一番をテレビで見るために中座したのだった。グドールは、そうした今西に家父長的な面影を感じ、全体主義に通じるイメージを見たという。「しかし、彼こそは霊長類学の父でした。それだけは断言できます」
(文:川上義則)
霊長類学の今昔
ヒトはどんな道筋を通って現在の人類になったのか。その探究は今世紀、大きく進んだ。
アフリカを中心に化石から追跡する研究が進展する。文化人類学も大きく発展した。その一方で、霊長類の社会に足跡を見いだそうという努力も行われた。その先べんをつけたのが今西たちだった。
ニホンザル研究で世界のトップレベルに立った日本の霊長類学は、その後の半世紀でフィールドを世界に広げた。アフリカのゴリラやチンパンジー東南アジアのオランウータン、インドのハヌマンラングール、南米の新世界ザル・・・・
今西はその方法として、個体識別による行動観察を編み出した。しかし今、方法は大きく変わった。
集団遺伝学や分子生物学が進歩し、群れの中の父と子の関係をDNA判定で特定し、そこからサル社会の新しい問係を探り当てるなどの研究が盛んになっている。
生い立ち
- 1902 京都・西陣で生まれる
- 1931 京大学士山岳会結成
- 1942 北部大興安嶺を縦断
- 1944 西北研究所長としてモンゴルへ
- 1948 都井岬でサル群と遭遇
- 1958 アフリカで初のゴリラ調査
- 1967 京大霊長類研究所が発足
- 1979 文化勲章受章
- 1992 老衰で死去、90歳
参考資料
- 業績全般を知るには
「今西錦司金集」(14巻、講談社)
- 自然観、世界観を本人が語る
「生物の世界」(講談社文庫)
「私の履歴書」(日本経済新聞社)★
- ジャーナリストが見た
「評伝今西錦司」(本田靖春/講談社文庫)
- 霊長類学の今と昔
「日本動物記2/高崎山のサル」(伊谷純一朗/新思索社)
[ゴリラピグミーの森」(伊谷純一郎/岩波新書)★
「サル学の現在」(上下、立花隆/文春文庫)
- ★は版切れです。図書館などでお調べください
1999年6月27日 朝日新聞日曜版 20世紀の100人より
ホームページにもどる
_