カモシカ山行の由来



カモシカ山行とは
[長い距離を早く長時問歩く山行のことをいう]

[かもしか山行というは私が創案したといわれる山行で、夜ねむらないで歩くのがミソである。これは実のところ富士登山などにむかしからよく行われてきた登山様式であってとくに私が工夫したわけではないが、これを一般の山行に通用したのは確かに私である。それで私のペンネーム、加茂鹿之助を冠して、加茂鹿之助式夜行日帰り山行、略して「かもしか山行」または「かもしか行」というのだ]
「山と高原の旅」(中村謙著・1958年朋文堂)初版、1937年。以来版を重ねて二十有余 。

[兎角誤解されるんですが、マラソン式に速く歩くというのではないので、要は、我我は時間も(金も)ないからニ日なり、三日なり要して行く處を(夜をこめて)一日で歩くということです]
(中村談・『山と渓谷』1947年4月号・99号)

「加茂鹿之助」
鹿之助氏は戦前から戦後にかけて息長く『山と渓谷』誌などにガイド記事を寄せている。上信、上越、秩父、三浦半島など、主として中級山岳、低 山の案内記を軽快なタッチで書いているが、驚くほど広い範囲の山々に精通している。

1897(明治30)年高田市生まれ、東京外国語英語学校(現・東京外語大)卒。伊藤忠商店員、中学教師を経て1923(大正12)年から東京府立第一商業学校の教論になる。明治末から登山を始めて上信越を中心に活躍、たくさんのガイドブックを書き79年に亡くなつている。

1935年7月、上信・魚野川(初遡行?)、あるいは37年8月、鳥甲山北面釜川・エビリユウ沢下降(初踏破?)など、ハードな山行も成している。しかし彼の本領は、静かな知られざる登山コースを、普く世に紹介することにあった。

1931年、抵山趣味の山岳雑詰『山小屋』(朋文堂)が創刊され、紆余曲析はあったものの戦後まで続く。そして『山小屋』の読者クラブが一干人を超えた33年11月、山岳雑詰のファンクラブはそのまま「山小屋倶楽部」と称して登山団体となる。中村謙はその代表を長く勤め、名実ともに市民レベルのハイキング界、低山逍遥派のリーダーでした。

(『山と渓谷』1999年4月 遠藤甲太「登山史の落し物」より抜粋)


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