平成11年大学入試センター国語問題



森は、人間の生活、生産の場であると同時に、鳥や動物たちの棲息地でもある。鳥や動物たちは、自分たちに適した場所を探して森の中に棲む。それが、時に、人間の生活空間あるいは生産の場所と重なりあう場合がある。「ごんべえとからす」の話ではないが、鳥や動物たちの行動が、人間の生活と衝突する場所もしばしば生ずるのは事実である。
鳥や動物たちの行動については、まだまだ人間の知らない部分が多い。そのために鳥や動物たちの行動の結果に対して「受忍」したり、「歯止め」をかけたりするに当たって、きっちりとした一線を引くことが難しい。そのことが鳥獣害の処理をめぐって、人間社会の中でいろいろなトラブルを起こすインともなる。
鳥にしても、害虫を食べてくれる場合には人間は歓迎する。樹木に害を与えるリンシ目の昆虫の幼虫(毛虫)を好んで食べるのは、カッコウ、ツツドリ、ホトトギス等のトケン科の鳥であり、卵のうちに食べるのは、カラ類(シジュウカラ、エナガ等)の鳥である。これらの鳥は、樹木を虫害から守ってくれる益鳥であるから、人々はそれらを追い払うことはしない。
ある年の春に山へ行ったら、いつも道路沿いに満開の花をつけているソメイヨシノの花のつきが悪い。どうしたのか聞いてみると、ウソという鳥がきて、つぼみのうちにせっせとついばんでしまったとのことであった。ウソのおかげで花見が当て外れになったが、この程度のことなら「ほんとかな?」で、笑って済ませられる。
ところが鳥や動物たちは、人間にとって大切なものの「程度」などは知らない。その典型的な例が、ニホンカモシカによるヒノキ植栽木の「食害」である。
岐阜県では、高価なヒノキの幼木(青森や長野では、スギやカラマツであるのでヒノキほど値段が高くない)を食い荒らすというので、莫大な被害の実態が、林業に携わる人々によって訴えられている。カモシカによる造林木の「食害」について、どのような仕組みがみられるのかということは、今、専門家が集まって調査・分析を進めている最中である。その結果はともかくとして、事実、ヒノキの幼木の「食害」は相当な規模に達しているのは否定できない。
森に生きる人々が、自分たちの生活のために行った生産行為の結果が、同じ場所で生活している動物によって摘み取られてしまう。特に小規模な山主にとっては致命的な被害となる。
もちろん継続的に主軸を摘み取られない限り、幼木は再生力を持っているので、かわりの芽が立ち、上に伸びてはいく。しかし林業というのは、ただ木を大きくすればよいわけではなく、できるだけ「良い木」(曲がりがない、筋がない、目あいがきれい、色つやがよいか、というように外形的な質と、材質という内部的な質とが複合してできる)をつくって、高い評価で売れるようにもっていくことを目標としている。幼木のとき将来シュカンとなる部分をカモシカによって摘み取られたヒノキは、たとえ成長しても、伐採して製品化したときに、「良い木」にならないであろうといわれている。先に述べたような林業の目標が、大きく狂わせられるのである。
森に住み、鳥や動物たちと日常的に接し、同じ場所で生活してきた人々には、本来鳥獣に対する「敵対心」はない。これまで長い間森の中で、人と鳥獣は共存することができたのである。現にカモシカがいても、林業に対する被害を与えていない地域だってある。また多少の被害であれば、それが「林業の宿命」であると「受忍」することだってできる。森に住む人々はこれまでそのようにしてきた。林業は、自然災害や火災、虫害等によって、常に「危険」にさらされていることぐらいは、森に住む人々は百も承知である。
それでもカモシカによる「食害」は「受忍限界」を越え、森に生きる人々の訴えは強い。この問題をめぐって「自然保護」と「林業」が、相対立しているような局面を、私はしばしば経験する。
森に住み、林業に携わる人々が、今、カモシカをめぐる問題について訴えようとしていることは何であろうか。私がこれまで聞いてきたことをまとめれば、それは、次のようだ。
「これまで国は、森林、林業に対して、一体何をしてきたか。特に山に住み、森の環境をつくり、守り続けてきた自分たちに、何をしてくれたか。それでも自分たちは、エイエイとして森をつくってきた。厳しい自然環境、過酷な労働条件にも耐えて、社会の需(もと)めるものを提供しようとしてきた。それは、耐えることの連続であった。それなのにこの国の経済発展の恩恵を受けること少なく、そればかりか林業をやっていくことさえ困難な状況に追い込まれてきたではないか。今またカモシカにさえ、一方的に耐えよというのか。自分たちの生活の見通しすらたてれない状態で、カモシカの生存の保証を自分たちだけに一方的に押しつけるのか。何故自分たちだけがいつも耐えなければならないのか」
森に住む人々は、鳥もいれば動物もいる中で生活していきたいのである。しかし、生活への不安は、できるだけ取り除かなければならない。動物のために生活を放棄することを、誰も認めてはくれない。
犬嫌いの人はいても、犬を憎悪する人はいまい。しかし、犬が「お犬様」になったとき、人々は犬を憎悪した。それは、犬に向けられたものではあっても、犬自体に向けられたものではなく、犬を「お犬様」にしたリフジンさへの憎悪であった。
今、カモシカを「お犬様」になぞらえる森に住む人々の言葉に、私は抑圧され続けてきた人々の「嘆き」を聞く思いがする。
カモシカによる「食害」を林業を行う上で「避け難い」災害として認めつつも、なおかつできる限り被害を軽くする方策を社会全体としてつくり上げることを要求する。森に住む人々の「正しい」意見を、「お犬様」に向ける憎悪に変質させないために、私たちは考え、行動しなければならないと思う。
「森の外」に住む人々は、これまでの森の産物--とりわけ自然的保護とか、風景とか、水とかの「公共財」で、直接貨幣価値で評価されていないもの--をどのような形で享受してきたであろうか。人々は森に接し、利用するに当たって、「森は無料」と思ってきたのではなかったか。森に源を発する水についてもまた、同様ではなかったか。自然に恵まれたこの国の人々にとって、自然はなんの苦もなく得られたものであったのであろう。自然をつくり、育て、維持している人々の存在を、一体どれだけの人が理解していたのであろうか。
都市で便利な生活を楽しみながら、山村に対しては、都市にもないものを求めようとする。それが、山村の「自主性」を尊重した上でなさせるなら、とりたてて問題とはならない。しかし、そのことを「社会的要請」という一種のボウリョクによって山村に押し付けるなら、たとえ「山村への理解」という装いをとっていたとしても、それは、都市の山村に対する優越という「信条体系」(一種の社会的な信仰ともいえる観念)を支える以外の意味は持ち得ない。
森に住む人々に、「森の外」の思考を強制してはならない。「森の外」からできることは、森に住む人々のつくったものに対する「正当な」評価である。それは、森の内と外との間に、対等の関係が成り立っていることを基盤にして、はじめて可能である。
ニホンカモシカの保存、森の環境の保全、水の確保といったことが、私たちの社会を成り立たせていく上で不可欠の「財物」であると考えるのなら、私たちの社会はそれらを持続して生産(保全)する主体、すなわち森に生きる人々の生活・生産の仕組みそのものをこそ、保ち続けなければならないのである。


(林 すすむ 「森の心 森の知恵」による))


ごんべえとからす・・・「権兵衛(ごんべえ)が種蒔きゃ、烏がほじくる。三度に一度は追わずばなるまい」という俗語からきた言葉
リンシ目・・・・・・・・・節足動物門昆虫の目(もく)の一つ。チョウやガの仲間。
ニホンカモシカ・・・・ウシ科の哺乳類。日本の特産種で本州以南の高山帯に住む。国の特別天然記念物。
「お犬様」・・・・・・・・将軍徳川綱吉の時代に発せられた、いわゆる「生類憐れみの令」を念頭に置いた言い方。

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