ヨーロッパ73


【日 時】1973年7月〜1973年8月
【期 間】1.5月
【地 域】ヨーロッパ
【ルート】 横浜〜ナホトカ==ハバロフスク→モスクワ==ワルシャワ==プラハ==
ヴィエナ(ウィーン)==ローマ==ナポリ(ベスヴィオス)==
インターラーケン(クライネシャイデック,アイガー・メンヒ・ユングフラオ)==パリ
==ケルン==ライン下り==ミュンヘン==ザルツブルグ==ヴィエナ(ウィーン)
→モスクワ→ハバロフスク==ナホトカ〜横浜
【メンバー 】単独


【初めての海外旅行】
学生時代初めての海外旅行である。この時代は固定相場制で1$=360円の時代である。丁度私達が旅行しているときニクソンショックがあり固定相場制から変動相場制に変わった時であった。日程的には前後するが同じ時期、ヨーロッパに行く友人がおり7月の何日かにローマのトレビの泉であう約束をして出かけた。当時、比較的安価で行けるコースといえばソ連のインツーリストが催す横浜〜ナホトカ〜ハバロフスク〜モスクワ〜ヨーロッパ各地というものであった。インツーリストの往復切符とユーレイルパスで何の計画もなく体当たり的にでかけたのであった。

以下、憶えている印象をかいつまんで記述する。

【横浜から出港】
正午頃横浜を出発する。日本人グループが多い。同室になった4人は、同じ世代の人。食事にでたボルシチが珍しい。朝方、津軽海峡を通過し午後5時頃ナホトカ着。船内で入国手続きをする。列車に乗り換える。向かいに行き先がモスクワの列車を見かける。列車はコンパートメントの寝台車で1パート4人の上下寝台。昼頃ハバロフスクに到着。飛行機に乗り換える。初めての飛行機である。機内食で記憶にあるのは、甘くて美味しかった琥珀色の飲料である。着陸時になり耳が圧迫を覚えるようになると、スチュワーデスがしきりにアメをだしてくれた。

【モスクワ】
夕方、モスクワ、シェレメチェボ空港。車に乗り換えウクライナホテルへ。日本人旅行者がみすぼらしく場違いに見えるほど立派に見えるホテルであった。翌日モスクワ観光をする。美しい女性ガイドの案内でクレムリンやドム百貨店、革命広場が案内された。広場からは河にかかる地下鉄の駅が印象的だった。地下鉄は1コペイカの貨幣を投入する方式で電車が走行しているところまでエスカレータでも少し時間がかかり、かなり深くのところを走っていた。電車はゴムタイヤを使用していた。

【モスクワからの列車旅】
翌日は日本人旅行者とも分かれそれぞれの目的地に向かう。深夜モスクワの駅からビエナ(ウィーン)行きの列車に乗り込む。日本人は私一人になり、緊張する。ウクライナの黒土地帯の平原をひたすら走り、ポーランドの国境駅に着く。ここで2時間ほど休憩とのこと。何事かと見ていたら、線路の幅が異なるようで列車の筐体をクレーンで持ち上げて移動させていた。国境地帯にかかると、まず出国側の憲兵が部屋に入り込んできて持ち物や、座席を取り外しその中まで点検していた。共産圏の国境の厳しさを感じる一幕であった。ポーランド〜チェコスロバキア〜エスターライヒ(オーストリア)の国境通過の際はいつもこの様な検閲があった。 ワルシャワで2時間ほど止まったので駅前を歩いてみる。モスクワで見た共産諸国の国威の象徴のような峰のような造りの建物が印象に残っている。ワルシャワからは私のコンパートメントの部屋に同世代のポーランド人が乗り込んできた。互いに言葉が分からず、ドイツ語とロシア語での辞書談になった。胡散臭い見回り係りの鉄道員も加わり、チャイ談義となった。自分の語学力のなさに失望する。

【ビエナ】
2日かけてビエナ(ウィーン)のエスト(東)駅につく。見回り係りの鉄道員から降り際にチップを1$ふんだくられる。現在なら、さあこれからという気分になるが、今まで予約された乗り物に乗ってきたところから行きなりほっぽりだされた気持ちになる。さしあたってのお金を交換する。宿探しの要領を得ず、ビエナ・ウニベルジテート(ウィーン大学)を訪ねる。幸にも、教会関係の宿泊所のような所を紹介してもらった。疲れを癒すため暫くここに滞在する。

【ビエナ==ローマ】
路面電車の乗り方にも慣れ、市内見学をする。ドナウ川の右岸の遊園地のプールで泳ぐ。 ベスト(西)駅から友との待ち合わせのローマに向かう列車に乗り込む。私のユーレイルパスは2等用である。途中から老夫婦が乗り込み"Wohin sie gehen?"と聞かれ、単語が分からず"Wohin?"と聞き返すと肯いていたので、"どこへ行くのか?"という意味だと悟り"Roma"と答える。また丘の上に古城が見えたので"ブンダーバル(Wunderbal?)"と言ったら喜んでくれた。座席は2人ずつ向かい合わせのコンパートメントである。列車はエスターライヒ(オーストリア)からスイスに入りイタリアを目指す。国境通過は車内でパスポートを提示するだけの簡単なものであった。共産圏の物々しさと緊張感に比べれば雲泥の差である。朝起きてみると乗客はイタリア人に変わっていた。軍人風の陽気な若い人達が色々なことを喋ってくる。彼らには軍役があり、日本に住んでいる私とは全く異なった環境にあることを知る。車窓の風景もオリーブ畑となり気温も格段に高くなる。

【ローマのテルミナ駅にて友との遭遇】
ローマのテルミナ駅に着き、荷物を手荷物預かり所に持っていく。ところが、トレビの泉で会う約束をしていた友人とここで会ってしまった。当時のヨーロッパの鉄道の旅は目的地まで夜行列車で行き、翌日の朝、駅の手荷物預かり所にスーツケースなどを預け、市内観光などを行い、一通り巡ってから駅に戻り宿を決めるというパターンを取る者が多かった。彼は私より数週間早く日本を発っていたので、旅行のハウツーをかなりマスターしているようであった。スウェーデンでは文通をしていた女性と会うことも出来たとのことであった。

【ローマ・ナポリにて】
いきなり会ってしまったが、まず約束のトレビの泉を目指そうということで、市内巡りを始めた。歴史の教科書にでてくる遺跡がいたるところにある。後ろ向きになってコインを泉に投げ込めば恋がかなうというトレビの泉の紹介であったが、何のためらいもなく泉に入ってコインを拾っている人がいて興醒めした。また日当たりが強く、ここで1日も待っていることは大変で、ここを待ち合わせの場所にしたのは不正解であった。近場のコロッセオやフォロロマーノなどを見た。バチカンへはまた出直しということで、駅に戻り、ローマオリンピックで使用した旧選手村のユースホステルに宿泊する。プールで水泳し疲れを癒す。夜は近くの競技場でサッカーの試合があり見物に出かける。チーム名などは判らないが、皆の熱狂ぶりは良く分かる。翌日バチカンを廻ったあと、彼とは別れナポリへ向かう。暑い暑いナポリは遺跡とべスビオス山と青い海が印象に残っている。

【スイスにて】
スイスのインターラーケンに着く。インターラーケンからラオターブルンネンまで入るがここからクライネシャイデックまでの登山電車は私の2等のユーレイルパスは利かないという。貧乏学生であった私は一ヶ月の一番安価なパスを選択していた。スイスの登山は今回の旅の目標のひとつであったが、仕方がなくここから歩き出す。クライネシャイデックまでは道はなだらかであったが、結構な距離があった。山麓に放牧された羊の首に鈴が吊るされており、その音色がのどかであったのが印象にのこっている。前峰のシルバーホルンを抱いたユングフラオが望まれるようになるが、ゆっくり登っていく登山列車が羨ましく思われた。クライネシャイデックに着くとアイガー・メンヒ・ユングフラウのベルナーオバーラントの三山が揃う。氷河からのものであろうか落石の音がひっきりなしに聞こえる。私は岩登りはやっていないので、アイガー北壁がどれほどのものが検討がつかなかった。雪の着いていない巨大な壁が一挙に山頂まで続いていた。ヨッホまで有り金を奮発して登山列車に乗ることも考えたが、今後のこともあり、ここは行けるところまで歩こうと考えメンヒを目指すことにした。途中、谷がありそこから岩場の一気の登りとなる。どれくらい登ったか忘れてしまったが、山小屋がありそこで泊まることにした。明日シルバーホルンに向かうグループがあり、朝早くから出かけるとのことで付いていくことにした。翌朝まだ暗いうちから彼らは支度を始めた。小屋の主人が私も叩き起こしてくれた。暗闇の中の出発となった。私はヘッドランプを準備していなかったので徐々に遅れだした。1時間ほど登ったところでこのままでは足手まといになることを悟り、引き返すことにした。小屋の主人に事の旨を話し山を下りることにした。

【パリ】
パリには7つ駅がありどの駅に着いたか定かに覚えていないが、南東の駅に着いた。宿は西のリュクサンブール駅から各駅の電車で4つ目ぐらいの駅のユースホステルを根城に3日ほど滞在してパリ見物を行った。何時どこをどのように訪ねたか忘れたが、一通りパリの街は廻ったと思う。ルーブル・凱旋門・モンマルトルの丘・サクレクール寺院・地下鉄・ベルサイユ宮殿・エッフェル塔等々である。一つ一つをジックリ見ていこうとすれば何日あっても足りない印象を持った。

【ドイツ】
ライン下り。コブレンツ〜マインツまでライン川の流れに任せて川下りをする。両岸に残る古城を船に揺られながら巡るものである。川はさすがにヨーロッパの大河で十分な水深と水量があり、大きな船も行き交っていた。同船した客は船上でローレライを歌いながらワインを飲んでいた。ここでは、ベルサイユ宮殿で行動をともにした早稲田の人と再会し日本語をたっぷり話す。ユーレイルパスでヨーロッパ巡りをする場合、自ずと選択するコースも似通ってくるのであろうか。この他、ドイツはケルンのドーム・デ・カテドラルやミュンヘンのビールが印象に残っている。

【サルツブルグ】
サルツブルグがモーツァルトの出生の地であることはそこに行って初めて知った。小さな街にもかかわらず、非常に賑わっていると思ったが、夏にはここで音楽祭があるとのことであった。要塞のようなお城の下の教会でのパイプオルガンの演奏が印象に残っている。

【帰路】
帰路はビエナ(ウィーン)=飛行機=>モスクワ(一泊)=飛行機=>ハバロフスク=列車=>ナホトカ=船=>横浜でモスクワからは往路と同じで旅のゆとりも生まれた。横浜についた時、海の匂いが臭いという印象が残っている。

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