【日 時】 | 1995年3月4日〜3月11日 |
【期 間】 | 10日 |
【地 域】 | イタリア |
【ルート】 |
成田→フランクフルト→ミラノ→ローマ==シエナ==フローレンス== ベネチア==ミラノ→成田 |
【メンバー 】 | 二人 |
ツアーは女性の現地添乗員がずっと付き添い、各地に着くと当地の案内者が案内するという形態をとっていた。添乗員も当地の案内者も色々な事をよく知っておりそれぞれプロフェッショナルであるという印象を持った。
ほぼ1週間ずっと添乗員が付き添った形の旅行は初めての経験であった。レンタカーで個人的に廻る旅は、目的地探し・宿探しに苦労するものだが、その心配のないツアーは全くの「殿様気分」の旅であった。移動中のバスの中でも添乗員の方から、様々な説明を頂いて興味に尽きるところはなかった。反面、苦労があってこそ「旅」といえるのではないかという思いにもなった。
- 【3月 4日(土)】成田〜ローマ(レオナルドダビンチ空港)
夕方着成田→フランクフルト→ミラノ→ローマと飛行機を乗り継ぎレオナルドダビンチ空港に夕方到着する。ミラノでは雪のアルプスが望まれた。バスでボルゲーゼ公園近くのホテルへ。
- 【3月 5日(日)】ローマ、市内観光(コロッセオ、トレビ、ミケランジェロの丘(市庁舎)、アーモンドの花、自由行動(テルミナ駅、地下鉄、カラカラ浴場、アッテカ街道、墓)
朝起きてみると、雨上がりであった。街路樹のピンクの花が桜に見える。アーモンドの花であった。近くのポポロ広場を散策する。
市内観光:バスで男性の案内者による。矢継ぎ早の説明についていかれない。革命広場、コロッセオ、トレビ、市庁舎などなど。真実の口で写真をとる。
自由行動:トレビの泉の近くの地下鉄の駅から、テルミナ駅で乗り換えカラカラ浴場のある近くまで行く。地下鉄は東西2本のみ。遺跡の街で地下施設を作るのは大変のようである。
カラカラ浴場は時間切れであった。そこからカタコンベを見に行くため歩いてアッテカ街道を進む。街道は石柱を一つ一つ埋め込んだ石畳であった。マラソンのアベベ・ミヒラはこの道をはだしで走った。ローマを囲む城壁を抜ける。マイルストーンと思われる石標がある。カタコンベとはローマ時代のお墓のことで、幾層にもなっていた。説明者はアジア系の人でテープレコードを使って説明していた。
帰りは地下鉄をテルミナ駅で降りてホテルまで歩いて散策。学生時代この駅で友人と出会ったが、その記憶はない。パンテオン、ラボォーナ広場、スペイン広場などを通ってホテルまで帰る。
- 【3月 6日(月)】ローマ〜フローレンス バス
朝、昨日と同じ男性の案内者によりバチカンを案内される。高速道路。インターチェンジで一服し初めて添乗員の女性と話す。進行方向に山上都市が幾つか望まれる。シエナの広場は雨であった。昼食はワインとスパゲッティ。お菓子。
- 【3月 7日(火)】フローレンス
朝、ウフィッツ美術館に並ぶ。館内は写真撮影しても良いことを、退館する時に知る。あわてて戻りヴィーナスの誕生などを写す。ここでの女性の案内者も詳しかった。ドーモや天国の門の案内やメジチ家などについて詳しく紹介してくれた。ミケランジェロの丘までバスで行き、アルノ川に掛かるベッキオ橋など遠望する。自由行動でドーモの上に登りフローレンスの街を眺める。レオナルドダビンチ作のダンテ像のある美術館を訪れる。フェルガモ店訪問。川を渡ったピッティ宮殿、オリーブの木。
- 【3月 8日(水)】フローレンス〜ベネチア 宿
モータボートで宿まで。広場までモータボート。オペラのようなカンツォーネを聞きながらゴンドラでベネチアを案内される。広場夕方、歩いて宿まで返る。
- 【3月 9日(木)】ベネチア〜ミラノ
ドーモ。オペラハウス。マーラーの手。イタリアとして独立してからそんなに時間が経っていない。ミモザの花。
- 【3月10日(金)】ミラノ〜成田
ミラノ駅でお土産を買ってホテルに向かう。駅前を歩いていると、老女(?)と子供3人(男の子一人と女の子二人)が、私の方へ向かって飛びついてきた。女の子2人と老女はワアワアーと叫んでいるだけであったが、男の子はコートのポケットの中に手を入れてきた。振りほどこうと回転しても、ポケットの中を探ろうと暫くしがみついていた。ポケットの脇をしめ、やっとのことで振りほどくと、暫く佇んでいた。通りかかった通行人など、何事が起こったかという顔つきであった。家内も私にふりかかった事になすすべもなく眺めている だけであった。見様によっては、私が小さな子供をいじめていると、とられても仕方のない光景だったかもしれない。この様な事に出会ったのは初めてであったが、イタリアではこの様な手口の「ジプシーの追いはぎ」があることが、案内書などに注意書きされていた。
ホームページにもどる