1829年、当時の名ヴァイオリニストであったパガニーニがワルシャワを訪れたとき、彼が作曲した「ヴァイオリンとピアノのための変奏曲」を聴いたショパンが、それに触発されて同じ主題によって書いたのがこの曲です。演奏時間は3分40秒です。
曲 の 紹 介
ショパン作曲「パガニーニの思い出」
MIDIデータ M. HatTarsakey
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ショパンの生涯
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ショパンは1810年3月1日にポーランドのワルシャワ郊外、ジェラゾヴァ・ヴォーラ村で生まれました。ショパンの生まれた家は元々スカルベク伯爵の大きな邸宅があった場所であり、周囲はあふれんばかりの樹木の緑に囲まれ、日差しがまばゆく照りつけるのどかな環境でした。ショパンは幼少時代をかなり平和に過ごしました。
ショパンの父ニコラはフランスの出身で、1802年から伯爵家の家庭教師として働いていました。そして、スカンベルク夫人の侍女をしていたユスティナと結婚します。このショパンの母ユスティナはピアノを弾くことができました。そのおかげでショパンは母の演奏するポーランド民謡などを聴いて育つことになります。
ショパンには3歳年上の姉ルドヴィカ、1歳年下の妹イザベラ、そして2歳年下の妹エミリアがいました。特に快活で芸術的な才能にも恵まれていたエミリアとは仲がよかったのですが、彼女は14歳という若さで病死してしまいます。
ショパンは始め母と姉からピアノを習いました。そして町の芸術家に習うようになり、やがて早熟なショパンは、ワルシャワ音楽院の院長であるジヴァヌィに教わることになります。ショパンは8歳の時に初めて曲を書き、10歳ごろからは作曲に強く関心を示すようになり、14歳の時にはポーランドを代表するピアニストとして知られることとなります。才能豊かなショパンでしたが、父ニコラは特別扱いせずに普通の学校に通わせました。
高等音楽学校に入ったショパンは、1826年に《マズルカ風ロンド》ヘ長調を作曲し、このころから生涯にわたって書かれる民族舞曲の下地ができあがっていくのでした。また、学校でオーケストレーションを学び、《ドン・ジョヴァンニの〈お手をどうぞ〉による変奏曲》変ロ長調という管弦楽つきの作品も書きます。これを見たシューマンが、「諸君、天才だ。帽子をとりたまえ。」という有名な言葉を残しています。
ショパンはこのように才能に恵まれ、幸福な少年、青年時代を過ごしました。そして、よき友達にも恵まれています。親友ティテュス・ヴォイチェホフスキはショパンの才能を高く評価していて、二人は何でも話し合える仲でした。ティテュスはショパンが後にウィーンに発つとき同地まで同行したほどでした。
1828年にはフンメルが、翌年にはパガニーニがワルシャワを訪れました。ピアノとヴァイオリンの演奏で当時を代表していた二人は、ショパンに強い影響をもたらしました。この後に書かれる作品にはフンメルの作風が顔をのぞかせ、この後に書き始めた練習曲にパガニーニの影響が見られるのも、いかにショパンが両者の演奏から強烈な感動を得たかがわかります。パガニーニもこの出会いを記念し、自分の手帳に「若いピアニスト、ショパン」と名前をメモしています。
19才のショパンの肖像
A.ミェロシェフスキ作(1829年)の復元
1800年代前半はポーランド国内は革命の気運が盛り上がり、政治情勢は不安定でした。その中でショパンの創作は続けられていきます。2曲のピアノ協奏曲もワルシャワ時代に生まれました。ピアノ協奏曲第1番はショパンがポーランドを去る直前に書かれたもので、彼の告別演奏会のときにショパンによって演奏されました。ピアノのパートが実に華麗で、すでに名人芸術的な技巧に満ちています。第2番の方はショパンの初恋の相手である、音楽院の声楽家の生徒コンスタンツィヤへの思慕から生まれました。この第2楽章には彼女に対する憧れと、自身の情熱が美しい旋律に込められています。ショパンは18歳のときにベルリンへ、19歳のときにウィーンへ演奏旅行に出かけていますが、ワルシャワでの正式なデビューはこれに遅れること1年、1830年3月に行われました。ウィーンでの成功とワルシャワでの華々しいデビューを飾ったショパンは、次第に成功への期待を抱き始めます。そして、ショパンはウィーン、ミラノ、パリへの演奏に出かける計画を立て、この年の11月2日、ウィーンに向かってティテュスともに旅立ちました。
しかし、ウィーンは以前訪れた夏とは違い、貴族たちが有名なピアニストとともに別荘へと出かけており、冬になるまで演奏の場がありませんでした。その上11月29日にはロシアの占領に対するポーランド人の蜂起という事件があり、ティテュスだけはすぐにも帰国しました。
幸せなワルシャワ時代とパリ時代にはさまれたウィーン滞在の8カ月は、ショパンの「魔の時代」とか「無為の時代」などと言われています。作曲も滞りがちで、スケルツォ第1番とバラード第1番を手がけたものの、完成はパリに持ち越されます。
1831年9月、パリの北の地区にあるポアソニエール通りに部屋を借りたショパンは、ワルシャワで知り合ったラジヴィーウ公爵やデルフィナ・ポトツカ夫人らと再開し、ピアノの大家カルクブレンナーとも知り合いました。パリ・デビューはその年の12月25日にサル・プレイエルで行われました。この演奏会にはリストやメンデルスゾーンらも姿を見せ、交友が広がりました。その後、ショパンはラジヴィーウ公爵からロスチャイルド家に紹介され、子女の音楽教師として迎えられることになりました。ショパンはこうして上流社会とのつながりを深めていきます。ショパンは召使を従え、馬車に乗り、その華奢な容姿が人気を博し社交界の花形となっていきました。ベルリオーズやハイネらとも親しくなりました。
23才のショパン
P.R.ヴィニュロンの素描に基づくリトグラフ
1833年Mゴットフリート・エンゲルマン作
作品に目を向けると、練習曲が多く書かれています。この時期は小品が多く、1835年に書かれた《アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ》が特に光っています。
ショパンはこの時期にメカニズムが急速な進歩を遂げたフランスの代表的なピアノ会社、エラールとプレイエルの両ホールでリサイタルを行いました。ショパンはオペラもオーケストラ作品も作らず、ひたすらピアノ曲を作り続け、ピアノの発達とともに歩みました。
その夏は久しぶりにボヘミアの湯治場カルロヴィ・ヴァリで両親と会い、幸福なときを過すことができました。しかし、これがふたりに会う最後となりました。
この帰り道、彼はドレスデンでポーランド貴族のヴォジンスキ家のマリアに心を奪われます。パリに戻ってからも手紙をやり取りし結婚の約束までしましたが、ショパンの健康上の理由からか、ついにこの愛は破局を迎えてしまいます。ショパンは手紙の束に「わが悲しみ」と書きます。
ショパンは祖国ポーランドや他国の民族舞曲のさまざまな様式を作品に取り入れ、これらの舞曲を芸術音楽にまで高めました。マズルカ、ポロネーズ、ワルツ、タランテラ、ボレロ、エコセーズなど、多彩な舞曲がショパンの手によって新鮮な色彩を与えられています。
マズルカは、ポーランドのマゾフシェ地方に由来する、輪になって踊る民族舞踊とそれに伴う歌です。3拍子で速く、2拍目または3拍目にしばしば鋭いアクセントが付きます。付点リズムを多用したマズルカはその感覚を把握するのが難しく、ポーランド人以外の演奏家が弾くと跳ねるような感じが失われ、重たくなってしまう場合があります。ショパン・コンクールには特別に「マズルカ賞」というものが設けられ、全参加者の中から最も優れたマズルカを演奏した人に賞が与えられます。それほどポーランド人にとっても、ショパンにとってもマズルカは大切な意味合いを持っています。ショパンは51曲のマズルカを残しました。
ポロネーズも、同じくポーランドの国民的舞曲で、速度は中庸で、祝祭的な雰囲気を持ちます。3拍子で、明確な動機の繰り返しや3連符の使用などが特徴です。これもショパン・コンクールに賞が設けられています。ショパンは《幻想ポロネーズ》をはじめ《軍隊》《英雄》《別れ》など16曲を書いています。
ワルツは、ウィンナワルツに代表されるような速いものが多いのですが、本来速度は中庸で、4分の3拍子の優雅な舞曲です。ショパンのワルツでは《子犬のワルツ》《華麗なる大ワルツ》などが有名です。
タランテラは、ナポリの舞曲です。速いテンポの動きの激しいもので、8分の6拍子や8分の3拍子でできています。ショパンは1841年夏、ロッシーニのタランテラに触発されてタランテラ変イ長調を書きました。
ボレロは、スペインの3拍子の舞曲です。ショパンの《序奏とボレロ》はスペイン的なところもありますが、低音部のリズムはポロネーズ風です。
エコセーズは、18世紀後半にイギリスとフランスに現れました。快適なテンポの4分の2拍子です。ショパンの《3つのエコセーズ》は舞曲を意識しないで自由で華やかな曲です。
26才のショパン
マリヤ・ヴォジニスカ(1819~96)が
1836年に描いた肖像画
ショパンとジョルジュ・サンドは1826年の晩秋に初めて出会います。サンドは男装の麗人と称される貴族の血を引く作家で、祖父から相続したノアンの広大な邸宅を夏の別荘にしていました。ショパンは当時マリアに夢中だったため、サンドの印象は薄かったようですが、サンドの方は年下の繊細な表情を持つピアニストに強く引かれ、ノアンの家へ再三招待をしています。1837年にショパンがついにノアンの下を訪れ、翌年の夏にはすでに二人の仲は知れ渡り、格好のスキャンダルにまで発展していました。この煩わしさから、11月の地中海のマジョルカ島へと旅立つことになります。
ショパンの健康もこの頃から徐々に優れなくなってきたため、療養も兼ねていましたが、この頃の島は雨季の真っ最中で、ショパンの持病の結核が現れ始めます。
「椰子やサボテン、オリーブ、オレンジなどの樹木に囲まれ、海は瑠璃色。1日中太陽があって、まるで町全体がアフリカの情趣をただよわせている。」
始めはこんな手紙を書いていたショパンでしたが、体調がすぐれなくなると借りていたソン・ヴァン荘も追い出され、ヴァルデモサの僧院に身を寄せなければならなくなります。ここでショパンは有名な《24の前奏曲》第15番《雨だれ》、バラード第2番、スケルツォ第3番、ポロネーズ第4番を書きました。
パリに戻ったショパンとサンドはノアンに落ち着き、ショパンは安定した生活の中で創作を再開します。これからいよいよ円熟期の作品ピアノ・ソナタ第2番、第3番スケルツォ第3番、第4番、夜想曲作品48、そして多くのマズルカやポロネーズが誕生してきます。
そんな時姉ルドヴィカがサンドの招きでショパンを訪ねてきます。ショパンは14年ぶりの逢瀬で「気が狂いそうなほど(手紙より)」の喜びを味わいます。
1845年以降はいわゆる完成期です。ショパンの創作は異様な高まりを見せていきます。
ショパンとサンドの周りには、多くの友達たちが集まってきました。画家、詩人、音楽家、彫刻家、版画家たちがやってきては芸術論をたたかわせました。中でも画家のドラクロワとは親しくなりました。ドラクロワは二人が一緒にいるスケッチをしましたが、後にこれは何らかの理由で切り離され、ショパンの肖像画は現在ルーブル美術館に残されています。
28才のショパン
ドラクロワ作
ショパンとサンドの別れには、サンドの娘祖藍綬の結婚話が絡んできます。そこにはサンドの新しい恋人の出現が加わり、破局は決定的となりました。ショパンは以前から住んでいたスクワール・ドルレアン9番地の家に住みます。健康状態が優れなかったショパンは、それでも生活のためにピアノを教えたり、ロンドンに演奏旅行に出かけたりしました。晩年の名作《舟歌》《幻想ポロネーズ》からチェロ・ソナタなどが生まれていく一方で、もはやショパンはベッドから起き上がれない状態にまでなっていきます。
この頃にはショパンを救うために、母や友人たち、ショパンの弟子であるスコットランドの貴族出身の女性、スラーリングなどから援助がありました。再びルドヴィカがパリにやってきたのは1849年8月のことでした。そして医者の勧めにより、春から住んでいた郊外のシャイヨーからヴァンドーム広場の家に移り住むことになりました。
ショパンは親友ティテュスに会いたかったのですが、彼には出国の許可が下りず、結局会うことができませんでした。
ポトツカ夫人が瀕死のショパンの側で美しい歌声を聞かせていたと言われていますが、この真相は明らかではありません。ショパンは10月17日、とうとう息を引き取りました。39歳でした。葬儀はヴァンドーム広場のすぐ近く、マドレーヌ寺院で行われ、ショパンのピアノ・ソナタ第2番の第3楽章《葬送行進曲》と、彼の希望だったモーツァルトのレクィエムが演奏されました。
遺体はペール・ラシェーズ墓地の一角に埋葬されています。後にショパンの心臓だけが故郷に帰り、ワルシャワの聖十字架教会の中央にある柱の壷に収められました。
ショパンの作品をこちらからお聴きください。
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