今はその付近に、琵琶湖の水量を調節するための南郷洗い堰と呼ばれる水門がある。琵琶湖には4百余りの川が注いでいるが、流れ出る川はこの瀬田川1本で、その後宇治川、淀川と呼び名を変え大阪湾へ注ぐのである。
 供御の瀬(くごのせ)は昔は川幅が広く、水が浅かったので歩いて渡れたそうで、古来度々戦場になったらしい。対岸は現在、千町(せんちょう)という地名で呼ばれている。 「戦場」が転じて、千町となったという。(今住んでいる人はほとんどその由来を知らない)                     
 供御の瀬では義仲軍は方等三郎義弘が300騎で固めていたが、多数の敵を防ぎきれず、この戦いで大将の方等三郎は戦死した。彼は近江源氏山本義経の二男であり、近江源氏も最後まで義仲と行動を共にしたようだ。

 範頼軍は供御の瀬を渡った後、伽藍山の裾野の石山を通り、兼平の陣地、毘沙門堂に向かって攻め寄せて来た。東軍の範頼軍は6万と書かれている。人数は額面通りには受け取れないが、数において圧倒的に多い東軍は7グループに分かれ、第一陣が攻撃し終わると退いて二陣と交代し、そして第三陣と次々と波状攻撃を仕掛けてくる。兼平の軍は500騎と少ないので、休む間もなく戦っていたようだ。        

 私は30年余り前からこの近辺に居住しているが、迂闊にもここが義仲の最後の戦いの場であるとは最近まで知らなかった。この辺りの山の中の道路は不自然に寸断されていて、視界に入るごく近い場所に行くにも、わざわざ湖岸に向かって一旦下り、また山手に上がるという迂回路を通らねばならなかった。ところが、数年前に切れ切れに残されていた旧道が一本に繋がり、逢坂山を経て京都に行くにも便利になった。

 つまり、一旦消えた古代の道が数百年後に復活したことになる。この道路沿いが830年前の義仲軍と鎌倉軍の戦闘の場所だったのだった。「灯台元暗し」と言うのか、25年前から義仲について調べているにも関わらず、いつも通る徒歩圏内に義仲や兼平の塚があり、我が家の近くが義仲の最後の合戦の場であったことを最近まで全く知らなかったことに我ながら驚かされた。

 この場所から少し湖側へ下った国道一号線辺りまでが戦場だったらしい。国道に面した東レという会社の北門を入ったところに、一本の松が大切に保存されている。その松に兼平が鎧を脱いで掛け、昼食をとったと伝えられている。「腹がへっては戦が出来ぬ」はこのことが語源ではないと思うが・・・。その時、義仲が北陸へ一旦引き揚げるという報告が入った。となれば、これ以上敵が都へ入るのを阻止する意味がない。自分もその後を追おうと今井兼平は北へ向かって馬を進めて行き、二人は打出が浜で出会ったのだった。

 現在の鎧掛けの松は八代目で、まだ2メートル余りの若木だ。今は前面の国道を車が頻繁に行き来しているが、写真(図7)の松はその前に植えられた7代目で、大正15年に工場が建つ前の写真と思われる。あまり鮮明な画像ではないが、数百年前の辺りの雰囲気を少しわかっていただけるかと思う。先々代の松は明治38年に台風で倒れたが、大変大きく立派な松で、幹の途中に桜が寄生して花を咲かせる珍しい木だったそうだ。

 義仲の塚は、兼平の塚のあった墨黒谷から1キロ程離れた膳所の茶臼山にあった。合戦後50年たった文暦元年に、兼平の二男で出家した兼秀法師が供養のため現地に来て塚を整備し、仏果として木曽から持参した2本の信濃柿の苗木を、義仲と兼平の塚に植えたと伝えられている。ここに残された戒名が、「岸照道光大居士」で、信濃の川中島にある兼平山切勝寺(さいしょうじ)にあるのと同じなので、兼秀が信濃から持ち込んだ可能性が高いという。

 その後、茶臼山にあった義仲の塚は近江守護職の佐々木氏によって義仲寺に移された。また、膳所藩主本多公によって別保(湖側に下った場所)に兼平寺が建てられたが、今はない。墨黒谷の兼平の墓は農業用の溜池を作るため、江戸後期に現在のJR石山駅裏に移された。江戸時代になると湖に近い平坦な場所に東海道が通り、そこがメイン道路となってからは、山手の東山道にある墨黒谷や茶臼山は訪れる人も少なく、墓は寂しい状態で放置されていので、多くの人が参拝しやすい現在の義仲寺に移された。

 今年(2012年)は、戦闘の50年後に今井兼平の孫の兼秀法師によって義仲の塚と兼平の墓が整備されてから奇しくも777年に当たることになる。そして近江守護の本田公によって義仲は今の義仲寺に、膳所藩主本多公によって兼平の墓は石山へ移されるまでの約六百年の間、我が家の近くに葬られていたことになる。毎日のように傍を通るが、その度に手を合わせている。実際には車を運転しているので心の中で・・・。実は移転の際、600年もの長い年月が経過しているため墓の場所が正確に特定できなかったとの説もあり、実はまだ我が家の近くに埋葬されたままかも・・・と考えたりもする。

 墨黒谷という名は昔使われていた地名で、今の住人は殆ど知らないと思う。
平安時代に編纂された後拾遺集という歌集に、「粟津野の 墨黒のすすき つのぐめば・・・」と歌われているので、粟津野の墨黒谷は、当時の街道筋にあり、良く知られていた地名と考えられる。

 その薄は葉及び茎の所々に血潮が飛び流れたような赤い色が現れる、と古書に書かれている。図8の写真では、手前に見える薄は冬枯れで茶色一色であるが、確かに秋の始めに見ると、緑の茎や葉の一部が赤くなっているのを確認できた(図9)。普通の薄の間に今も混在して生えていた。ここが度々戦場となり、戦士達の血潮で茎や葉が赤く染まったと、戦闘で命をおとした人を悼んで云い伝えられたのだと思う。

 古い地元の資料にも、「粟津が原は毘沙門堂を中心に石山寺の裏手から茶臼山までの山手を言う」と書かれているので、粟津は湖に近い場所ではなく、現在三ツ池と呼ばれている、名神高速添いの山手を粟津が原、または粟津野と称したことはほぼ間違いないと思われる。                      (2012年「史学義仲」第13号)



     参考文献  「粟津膳所地区の古代史話」       昭和47年
           「粟津の松風」             昭和59年
           「今井四郎兼平」(兼平公800年祭記念)  昭和48年
                以上いずれも著者は竹内将人

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 石山から膳所の山手に位置する園山(麓に兼平の墓があった)と茶臼山(義仲が亡くなったと思われる場所)には古墳があり、古墳時代から存在していたことは明らかだ。761年創建と伝えられている石山寺は、紫式部が源氏物語の構想を練った場所として知られており、源氏物語が執筆された千年前には当然存在していたはずである。打出が浜に近い膳所神社にも古墳が残されている。

 しかし、現在粟津の浜と呼ばれる地域(粟津から石山に至る京阪電車の線路から湖岸までの地域)は時代が下った江戸時代でも人家の殆どない寂しい原野だったらしい。とすれば源平合戦当時には、その辺りは水面下で湖岸は今よりぐっと山手寄りにえぐられた地形だった可能性がある。この周辺には何本もの川が琵琶湖に流れ込んでいるので、長年の間に土砂が堆積して現在のような平地になったとも考えられる。また何らかの地殻の変動が起きた可能性もある。      

 古代の勢多(瀬田)の唐橋は、現在の橋よりも80メートル下流に架けられていたことが、橋脚跡が発見されて明らかになった。橋の対岸の東側には瀬田の国府があり、9百メートル四方の広大な遺跡が発見されている。国府から勢多の唐橋へ向かう途中には、勢多の駅家(堂の上遺蹟)の痕跡が今も残っていて、重要な交通の拠点であったことを示している。古代の唐橋を渡ってその延長上の旧道を登った小高い丘に現在は清嵐小学校があるが、近年この辺りで国分寺跡が発掘された。今も国分という地名で呼ばれているこの地に、瀬田の唐橋を渡って京の都にも通じるメイン道路が通じていたと考えられる。

 兼平は瀬田の唐橋の橋板を外して、漁船も自分達の陣地側である西岸に集めて敵軍が渡るのを阻止し、国府の近くの毘沙門堂(現石山高校付近)に陣を構えていた。範頼軍は仕方なく田上山を迂回して、瀬田川を約七キロ下った供御の瀬(現在の南郷付近)を徒渉したという。

            粟津ガ原での義仲最後の戦い

                                                   大津市 西川早苗
 

 古来、武将は、死を賭けた自分の最後の戦いの様子を家臣や兄弟に託し故郷の家族に伝えてきた。義仲の場合は巴がその役割を担ったことになっている。

 私も長年、大津に住んでおり、以前から義仲の大津での最後の戦いの真相を調べたいと考えてきたが、地元に有効な資料がなく、ずっと手つかずの状態だった。たまたま昨年の夏に、郷土史家竹内将人さんの御遺族の方から著作をお借りして拝見する機会があった。昭和48年から58年に発行された三冊の薄い小冊子であるが、大変貴重な研究が凝縮されている。発行されてすでにかなりの年月がたち、今は御遺族の手元にも一冊しか残っていないとのことである。

 そこに参考文献として挙げられている資料を調べようとしたが、さらに古いものなので地元の図書館でも見つけることができなかった。しかし、このまま貴重な研究が埋もれてしまうのは残念なので、本誌を通じて皆さまに知って頂きたい思い、御紹介させて頂く次第である。

 竹内氏は元軍人で海軍大学を卒業後、東大工学部に進み、飛行機や船の設計を学ばれ、後に戦艦大和の設計にも加わられた。終戦後は、御本人の意思で仕事には就かず、ずっと郷土歴史家として過ごされたという。義仲や兼平については長年こころを込めて関わって来られた。

 平家物語の「木曽最後」の章には、倶梨伽羅峠や他の北陸戦に比べて粟津での最後の戦いについては詳しく記述されていない。むしろ義仲や兼平や巴達との感動的な人間ドラマが表現されていて、国語の教科書にはこの部分が平家物語のハイライトとして最も多く採用されているという。(ちなみに、二番目が「祇園精舎の鐘の音・・・」の冒頭部分)

  私も教科書でこの部分に始めて接し心動かされ、平家物語を読むきっかけとなった。なにしろ大津には、そのものズバリの舞台があり、映像のようにイメージが再現出来たわけである。私が中・高校生の頃は、湖の周囲に現在のようにホテルやマンション等の高い建物もなく、波が浜に打ち寄せ、山と湖と空の世界であり、源平合戦当時の状況にかなり近い状況だったと思う。

 義経の鎌倉軍が宇治から京へ攻め上ってきたので、義仲一行は都を放棄し、都と近江の国との境界である逢坂の関からまっすぐ湖側へ下り、程なく琵琶湖岸に到達した。今は浜大津という港がある辺りと思われる。彼等はそこを左折し湖岸に沿って馬を走らせ、北陸に向う予定だった。北上すれば60キロ余で越前の国へ到達するはずだ。一旦北陸に退き体制を立て直して捲土重来を期していたのである。

 「義仲は北陸に後白河法皇を同道するらしい」という噂は以前から都で囁かれていた。実際、後白河法皇を乗せる為に輿を担ぐ力者を二十人確保していたのであったが、都へ入京した義経に先を越され、法皇を連れ出すことは叶わなかった。実現すれば北陸政権は後白河法皇を擁し、都には後鳥羽帝、西海には平家が伴った安徳帝と、日本は三分割されることになる。このような状況の元で鎌倉軍が都へ入れば、北陸の義仲と西海の平家に挟み打ちされ、動きが取れなくなる可能性が高く、そのため頼朝は後白河法皇の要請にも関わらず、都への進撃を躊躇したのだろう。

 有効な対策を打てなかった義仲は、もう戦いは自分の死で終わらせたいと思ったのだろうか、京の都から北陸の分岐点にあたる琵琶湖岸までの移動の間に彼の気持ちに変化があったようだ。
 家臣達にこう言った。
「よくここまで付いて来てくれた。もう充分だ。今後は故郷の家族の元へ帰って、岩にしがみついても生き抜いてくれ。私は兼平の戦っている瀬田へ行き、東軍と最後の戦いをして死のうと思う」そう言い残すと北陸には向かわず、右折し湖に沿って南へ向かったのだった。

 その頃、瀬田の唐橋に近い毘沙門堂に陣を敷いていた兼平は、鎌倉から来た源範頼軍との戦いに苦戦していた。しかし義仲が北陸へ一旦引き揚げるという報告を受けたので、もうここを死守して敵が都へ進入するのを防ぐ意味がないと思って、彼も北陸へ向って馬を進めていった。そして打ち出が浜で瀬田に向かっていた義仲と出合ったのだった。
 平家物語には、瀬田の唐橋を渡った鎌倉方の東軍と義仲軍は粟津ガ原で戦ったと書かれている。打ち出浜から数キロ南に瀬田の唐橋はあるが、その手前の琵琶湖岸に面した平坦な土地を現在は粟津と称している。近辺はいくつもの大工場が隣接して建っている広い平坦な土地で、ここが東軍との決戦場であったと私も長年信じてきた。    

 現在は殆ど痕跡も残っていないが、かつては近江八景の「粟津の晴嵐」で知られている風光明媚な場所でもある。江戸期に作られた浮世絵にも、戦闘が行われている向こう側に波が描かれ、対岸には三上山(近江富士)が描かれている。江戸時代の人も、多分ここが粟津の合戦の行われた場所だと認識してきたと思う。

 しかし、一つ納得できないことがあった。この場所から2キロ程山手の墨黒谷(すぎろだに)にかつて兼平の墓があったと伝えられていることである。(この墓は江戸時代後期に農業用の溜め池を作るため移設され、現在は兼平の墓はJR石山駅の裏手にある)
            
 墨黒谷は粟津の浜から7,80メートルの高低差のある山手に位置している。戦闘の混乱の中で、遺体を葬る為に約2キロ余の山道を、はたして移動出来たのだろうか。そのことにずっと疑問を感じていた。

 一方、竹内氏が示されている戦いのルートによると、戦いは須黒谷付近の山手の道路を移動しながら行われている。この辺りの道は通称駱駝坂と呼ばれており、駱駝の瘤のように大きな起伏がいくつも連なる足場の悪い山の斜面上にある。何百何千、或いは何万という兵士による騎馬戦がこのような狭い山中でおこなわれたとは考え難く、合戦には唐橋にも近く、広い平坦な粟津の浜のほうが自然なのだ。

 ところが、この山の中腹で行われたのはこの戦いだけではなかった。
671年に天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子との間で戦われた壬申の乱もほぼ同じルートで行われていた。
         
 これ以外にも、後鳥羽上皇と北条義時の承久の変、後醍醐天皇と足利尊氏の建武の戦いもこの場所で行われたという。
 図4は、壬申の乱における戦闘地を示した地図であるが、琵琶湖岸の唐橋を渡った北西一帯の広い平坦地では戦闘が行われていない。図5からは義仲と鎌倉勢の戦いの跡を知ることができるが、同様に山寄りののルートに沿って戦いが行われたようで、現在の湖岸に近い粟津と呼ばれている場所では戦闘が行われた形跡が無い。とすれば現在の粟津の浜は8百年以前には存在しなかったのではないかと思われる。つまり、この辺りの地形は現在とはかなり違っていた可能性がある。