白山騒動と平家物語の作者

  

平家の物語の中に、白山騒動という後白河法皇と白山平泉寺との所領を巡る紛争を取り扱った個所がある。源平合戦と直接関係のないこの事件に多くの紙面を割き、しかも白山側からの一方的な主張のみ詳細に述べられていることにこれまでも多くの人が首を傾げてきた。

その理由は、平家物語の作者がこの騒動の渦中にいた当事者であり、白山側の人間として、彼等の主張を代弁する立場にいたからだと私は推測している。

白山騒動とは、1176年に北陸の小さな山寺で起きた小競り合い(鵜川合戦)を発端に、白山全体の宗教勢力を巻き込み、寺領と国領(後白河法皇領)の争奪戦に発展していった事件である。その解決は遅々として進まず、衆徒三千人が要求貫徹の為に、北陸の白山平泉寺から御輿を奉じて都へ向かい、御所へ強訴するに至ったのである。

白山騒動は平家物語には巻一のおよそ半分を占めて、<平泉寺を以って山門に付けられる事>、<願立><御輿振り><山王効験の事><師高流罪>、等全部で十章を立てて克明にその間の経緯を辿っている。双方が譲らず有効な解決手段もみつからず、先が見えない状況が続いていたが、一年後に突然勃発した鹿ケ谷の変で終結することになった。

鹿ケ谷の変とは、後白河法皇と近臣達が鹿の谷の俊寛の別荘に集まって平家討伐計画を練っていたが、それが味方の密告により平家に発覚して法皇の近臣達が殺されたり、あるいは遠島送りとなった事件である。

白山騒動と鹿ケ谷の変の二つの事件は本来全く無関係だが、白山事件の一方の当事者であった西光が平家に捕えられて即日首をはねられたことで、紛争相手が突然この世からいなくなったのである。

  白山側は加賀の国司である師高や目代師経と、その父で、後白河法皇の御蔵預かり(財政責任者)であった西光の処罰を求めていたが、後白河法皇にとっては、自領を手放す事は考えられず、忠実な近臣の処罰等はもっての外で、当然白山側の要求をのむわけにはいかなかったのである。両者の主張は平行線をたどり、膠着状況のままで推移していた。ところが突然起きた鹿ケ谷の変により捕えられた西光が、即日平家によって殺害されるという意外な展開で白山事件は幕を閉じることになった。

平家物語の作者は、清盛に対して「武士の糟糠、平家の塵芥」と痛烈に批判している。捕らわれた西光も同様に清盛に向かって一歩も譲ることなく、自分達の立場の正当性を主張し、確固たる態度で臨んでいた。両者は、清盛に対しては同じ考えの持ち主だったはずだが、平家物語では西光に対して一方的に批判を繰り返し、彼の死後も憎しみの情が消えることはない。

白山騒動で白山側の先頭に立った覚明と後白河法皇の財政担当者の西光との交渉の過程で生まれた確執は深く、冷静さを欠いた表現も、作者が白山の衆徒と本山と仰いだ比叡山との板挟みに苦しんだ結果ではないかと考えている。


 平家物語の作者について

 これまでも信濃地方では、覚明が平家物語の作者である可能性が指摘されることもあった。ところが一般的には平家物語は複数の貴族の日記を参考にして、行長という下級貴族によって書かれたという定説が長年支持されてきた。

  平家物語の文中には数点の覚明の文書(南都牒状や、北陸転戦中に寺社に奉納した願文、それに入京を前にして比叡山に送った山門諜状等)が確認されていることから、研究者の間では覚明は自作の文書の提供者の一人という位置づけがされている。

私は覚明とその父である海野幸親が平家物語の作者であると考えてきた。しかも覚明は単なる物語の執筆者ではなく、源平合戦の準備段階から北陸と関わりを持ち、戦いが始まると自らも義仲軍に参陣して戦い、その経験を踏まえて最後に平家物語を書き残したのである。

  次に源平合戦の数年前に起こった白山騒動と平家物語の作者と考えている覚明の関わりについて述べていきたい。


白山事件に対する他の論文 

源平合戦の本筋から外れ、時期も異なる白山騒動が唐突に平家物語に挿入され、あのリアルさと熱意を持って語られている理由は何であろうかと、これまで多くの研究者によって、度々疑問が提示されてきた。

梶原正昭氏は『平家物語の一考察―鹿の谷と白山事件』において次のように記述しておられる。

『第一に、白山事件の本質は荘園所領をめぐる院の庁対山門の紛争であったらしいが、平家物語におけるその描き方は公平さを欠き、著しく衆徒らに同情的で、その反対勢力である院側近である西光らに激しい敵意を示している。

第二に平家物語の鹿の谷の陰謀の叙述態度はきわめて批判的で、往々露骨な反感すら見せているが、これは陰謀の立役者である西光法師以下の人々が、院の近臣として白山紛争で衆徒らと対立する立場にあったことと関係があると思われ、その敵意の反映と考えられること。

第三に以上の結論として、鹿の谷陰謀の叙述への白山紛争の描写の混入は、一見挿入的で構成上の破綻の如く見えるが、作者の心情においては相互に関連する重大な意味をもつ出来事であり、むしろ意識的に構成されたものと考えるべきものである』と述べられている。

作者は白山騒動に関しては、明らかに冷静さを欠いて声高に自己主張を繰り返しており、淡々と事実を述べている他の部分とは対照的である。私は、それは作者の考えや心情というよりは、作者がその事件の渦中にいたことを如実に示していると思うのである。

また佐々木八郎氏は、自著平家物語講説で『平家物語が鹿の谷の章と西光披斬の間に数章を挿入しているが、これらは全く本筋の物語から逸れた傍系的記事であり、この介在が説話の一貫性を遮り興味殺ぐこと夥しい果たして原本に収載されていたかも疑問で、後に編み込まれたものかとも想像される。よって本講説においては、かかる傍系記事は省略することにした』と述べられていて、自著にこの部分は掲載されていない。

梶原正昭氏は、白山紛争で衆徒らと対立する院の近臣に対する敵意の反映と考えられ、佐々木八郎氏はこの部分は後から組み込まれた傍系記事で原本にはなかったと解釈されたわけである。両氏とも代表的な平家物語の研究者であり、解釈は正反対であるが、それぞれにこの部分が、平家物語に大きく取り上げられている事実に注目し、疑問を呈しておられる。


白山騒動とは

 平家物語の巻一から巻三にかけて、四部本では<北面の沙汰><湯河原合戦><平泉寺を以って山門に付けられる事><御輿振><山王効験の事><法住寺殿へ行幸の事><時忠山門へ上卿に立つ事><師高流罪>と、多くの章を設けて白山騒動の約一年間の流れが克明に綴られている。北陸の白山一帯の寺が団結して寺領の確保の為に中央と対決した所領争いについて、刻々と変わる状況がリアルタイムで表現されている。

この部分は、諸本によってかなり表現が違っていて、岩波書店刊の古典文学大系や新潮日本古典集成の平家物語では、事件の経過が流れに沿って簡潔にまとめられているものの、行間からは四部本程の息づかいは感じられない。

白山騒動は、安元二年(1176年)に後白河法皇の寵臣だった西光の子の師高が加賀の守に任命され、実際にはその弟の師経が目代として現地に赴任したことに始まる。

 事件はそれから間もない安元二年八月に起きた。その場所は、温泉寺(四部合戦状平家物語)や湧泉寺(延慶本・屋代本)、鵜川という山寺(源平盛衰記)と日時や場所は諸本により異なるが、いずれも白山周辺に実在していた寺である。

四部本平家物語の湯河合戦(巻一)にはこの様に記されている。
『白山の末寺、府中近く 温泉寺(ウンセンジ)という山寺あり。湯河という所に出湯あり。目代、彼の湯にて馬の湯洗いしける程に、大衆咎めて、伊豆房浄智と云う者、馬の足を打ち折る。目代、(夜に再び)寄せて温泉寺の坊舎を焼き払ふに依って、(怒った僧達は)御輿を棒げ奉りて、上洛して山門に訴うる間、大衆起こりて、国司 師高・を流罪せられ、目代師経を禁獄せらるべきを奏聞せしを(後白河法皇の)御裁許遅かりしかば・・・』

この騒動で目代秘蔵の馬の脚が折られ、怒った目代一行は一旦引き揚げたが、夜になると再び国衙の兵を率いてやって来て、僧坊を残さず焼き打ちにしたのだった。

  寺を焼かれた僧達もこのまま黙ってはいなかった。白山の寺々に呼びかけ、結束して国庁を襲撃することになった。北陸各地から集結した三千人の僧兵達が加賀の国庁を取り巻いて、決戦は明日として、たき火を焚いて夜営をしていた。国庁を取り巻いた揺らめく火とその人数に恐れをなした目代は、闇にまぎれて夜のうちにこっそり舘を抜け出し、京に逃げ帰ってしまった。

白山の大衆が翌日攻め寄せると加賀の国庁はもぬけの殻だった。しかし白山側は目代を追い出したからと言って矛を収めることはなかった。否、覚明には、ここでやめるわけにはいかない事情があった。

彼はその後も白山の寺々に呼びかけて、徹底した目代の処罰と所領の確保を要求して一歩も譲らなかった。寺側がそれまで実効支配してものの、度々紛争を起こしていた荘園を正式に寺領と認めるように迫ったのである。当時日本の各地で頻繁に起こっていた所領争いと根源は同じである。

ところが問題の荘園は最高権力者の後白河法法皇の所領であり、紛争の直接の対決相手は、後白河法皇の財政責任者である西光だった。

白山側は有力者を相手に単独での対応は不可能と考えた。そこで、鳥羽天皇の時代に本山と末寺の関係を結んだ比叡山に、山門と白山は親子の関係だという書状を送って寺の経済的窮状を訴え、寺領の確保なくして寺の存続は不可能だと協力を求めたのである。

  比叡山側は白山の窮状に一応理解を示し、「安堵せよ」と答えたにも関わらず、実際にはなかなか協力に踏み切ろうとはしない。朝廷とは強い関わりを持つ比叡山は、法皇に遠慮して簡単に白山の肩を持つわけにはいかない事情があった。しかも問題の土地は、法的には後白河天皇の所領に属していた。

白山騒動の概要は、末寺でのトラブルが発端で本山の白山が乗り出し、更に総本山になる比叡山をも巻き込み、朝廷に白山の寺領であるとの自己の主張を認めさせようとした事件である。

 

騒動の渦中にいた覚明 

長い膠着状態を打開する為に、白山から寺の幹部六人が比叡山にやって来て直接交渉にあたった。屋代本や延慶本平家物語には白山騒動に関係した平泉寺の寺官(寺の幹部)として智釈、覚明(学明)法台坊、性智、学音、土佐という六人の名をあげている。

ここに覚明の名が記されているのに注目したい。彼が白山騒動に関わっていた証明でもある。学明と記された諸本もあり、必ずしも覚明ではないという意見もあるが、当時は、学と覚の字は区別なく両方使われていたようだ。神護寺の文覚も寺の記録では文学になっている。四部本にも文学と書かれているので、学明と覚明も同一人物と考えてもよいだろう。

白山の平泉寺の寺官六人が比叡山に出向いての粘り強い交渉にも関わらず、山門からは容易に協力の約束を得ることができず、諦めた寺官達はすごすごと北陸へ帰っていった。しかし期待して待っていた平泉寺の僧達は収まらない。「同意を得られるまで粘り強く交渉せよ」と再び彼等を比叡山へ追い返したのである。戻った六人は正月も山で越年し、三カ月間滞在して頑張ったが、やはり何の成果もあげることができなかった。

所領が増えれば寺の経済も潤沢になる。白山ではその結果を待つ間にどんどん期待が高まっていった。法皇に遠慮して白山と共同歩調をとることを躊躇する山門との狭間で、覚明をはじめとして白山の寺官達は相当な苦悩を味わったに違いない。その怒りと苦しみが字間から伝わってくる。

彼自身も、当初はこれほど交渉が紛糾するとは思わなかったのだろう。本来怖いものなしの天真爛漫な性格で、かなり大胆な人間であったことが、その行動や文書から推測できる。しかしこの時ばかりは困り切って、振り上げた拳を引っ込めるのに苦慮していたようである。

 

白山から御輿を担いで都へ強訴 

ついに白山側は実力行使にでた。なんと北陸の白山から神輿を担いで都へ入り、内裏へ強訴しようというのである。

1月31日に中宮三社の佐羅早松を出発した神輿は、敦賀に到着。更に深坂峠の急な坂道を越えて近江の国入った。眼下には琵琶湖が広がっている。神輿は塩津の浜から船で比叡山の麓にある坂本まで運ばれ、日吉大社に到着したのが3月27日。それから更に海抜848メートルの比叡山に担ぎあげて、4月13日には都に駆け降り、内裏へ向かったのである。

白山周辺には多くの寺が点在し、それぞれ大勢の僧を抱え寺の財政は逼迫していた。平安末期は貴族に限らず寺社も財政上の困難な問題を抱えていたらしい。ただ白山騒動の場合は紛争の相手が当時の最高権力者である後白河法皇だったことが解決を困難にした。

後白河法皇は本来鳥羽天皇の四男だったので皇位に就く可能性は低いと考えられ、受け継いだ所領も少なかった。しかし法皇としても強力に院政を遂行するには財政的な基盤の強化は譲れない立場にあった。

朝廷を向こうに回して単独で戦うのはむつかしいと考えた白山側が、本山の比叡山を巻き込んで対峙したことにより、問題は更に複雑化していく。

その頃、後白河法皇の御蔵預かりという財政を担う重要な役職にあったのが西光であった。彼は自分の息子の師高を加賀の国司に任命し、その弟の師経を目代として現地に赴任させ、後白河法皇の所領の管理者としたのである。

この土地を巡っては以前から白山との間で紛糾していた。西光は息子が現地に赴任するにあたり、「これまでのような軟弱な態度では相手に侮られる、地元の寺に対して強硬な姿勢で臨め」と指示した。その結果思わぬ白山側の反撃にあったのである。

どちらも一歩も譲らず長く膠着状態が続いたが、この事件が一気に解決したのは思いもよらない事件だった。


鹿ケ谷の変で白山騒動は解決 

白山騒動の直接の相手である西光の処罰を執拗に求める白山側の要求に、後白河法皇は応じる気配は全くなく紛糾し続けていたこの事件は、1177年の6月1日に起こった鹿ケ谷の変と交錯することで一気に終結したのである。

鹿ケ谷の変とは、後白河法皇と近臣達が東山の鹿ケ谷にある俊寛の山荘に集まって、平家討伐計画を練っていたが、その日初めて仲間に誘った源氏の多田蔵人行綱が、ずさんな計画の仲間に引きずり込まれることを恐れて、清盛に注進した事で露見して、近臣達が次々に平家に捕えられた事件である。

この事件で白山事件の当事者であった法皇の寵臣の西光も、鹿ケ谷の陰謀に加わった一人として平家に捕えられた。彼はなかなか剛毅な性格だったらしく、法皇の正統性を主張し、取り調べにあたった清盛を罵倒した為に、激怒した清盛の命でその日の内に残忍な方法で殺害された。平家に拘束されて、慌てて関連を否定した者もいる中で、西光は権力者の清盛に対して堂々と意見を述べた立派な人物との見方もできる。

ところが作者の覚明は、平家に捕えられた西光に対して同情の欠片もみせていないばかりか、筆舌を尽くして罵倒しているのである。この騒動の結果、殺害されたり遠島送りとなった法皇近臣に対しては、平家物語はその事実を淡々と述べるだけであるが、ただ一人白山騒動の当事者でもある西光に対しては激しい攻撃の矛先を向けている。

この時、西光の息子の加賀の国司師高、そして弟で現地に赴任していた目代の師経も鹿ケ谷の変のあおりで殺された。残酷な殺され方をした西光親子に、作者は平家物語で更に追い打ちをかける如く筆誅を加えている。

  解決の目途の立たなかった白山騒動も、相手が鹿ケ谷の変で殺害された事で一応の終結をみることになったようだ。覚明にとって納得いく解決方法でなかったとしても、白山と比叡山双方からの板挟みから解放されて秘かに胸を撫で下ろしたのではなかっただろうか。

ところが同時に新たな問題が浮上した。鹿ケ谷の変の際、平家に捕らわれた法皇の近臣の俊寛僧都、藤原成経、平判官康頼(中原康頼)の三人が薩摩から遙か南方の鬼界島へ流罪となった。この三人の内の一人である平判官康頼(中原康頼)は覚明の従兄に当たり、木曽義仲の養父中原兼遠の長男とみられる。

中原康頼の父は中原頼季という名の信濃権の守を務めた経歴を持つ人物であることは記録からも確認できる。ところがその後の彼の消息は一切都には残されていない。私は頼季は交易商人に転身して木曽に住んだ人物で、その後改名して中原兼遠と名乗ったと考えている。

四部本の「義仲の生い立ち」の章に、養父兼遠が平家に呼びだされて「源義仲を養育して、平家を滅ぼそうとしているのではないか」と尋問されたことが書かれている源平盛衰記等では、その時期を以仁王の乱が発覚した時と想定しているが、実際に兼遠が平家に呼ばれたのはその四年前の鹿ケ谷の変の時だと思うのである。

 兼遠は呼び出しに応じ六波羅に出向いた。そこで平家の嫡子宗盛の尋問を受けて、数々の申し開きをしたが認められず、神に誓う誓詞を書いてやっと許され、無事木曽へ戻って来たのであった。                (史学義仲・第六号「中原兼遠」参照)

鹿ケ谷の変で平家に平判官(中原)康頼が拘束された際に、「父の頼季(兼遠)が木曽で源氏の貴種を養育して平家倒そうとしている」という噂が平家の耳に入ったことで呼びだされたならば、兼遠は危険を承知で釈明に行かざるをえなかったであろう。息子の命がかかっているのである。

結局、長男の中原康頼は死罪とはならず、俊寛僧都や藤原成経と共に、薩摩から遙か南の孤島の鬼界島へ遠島となった。そしておよそ一年後に徳子懐妊の恩赦で成経と康頼の二人は都へ戻ることができた。この時、ただ一人俊寛僧都が島に残された悲劇は、歌舞伎や能等で演じられ、長く人びとの涙を誘うこととなった。

何故三人のうち二人だけが許されたのか、真実は謎とされているが、成経については、彼が清盛の異母兄の平教盛の娘婿だったため、義父が清盛に嘆願したことで帰還を許された経緯が平家物語にも書かれている。その上、成経は父の成親の縁罪で流されたので、彼自身の罪ではなかったという事情も考慮された。

ところが都には中原康頼を救出してくれるような有力者は誰も見当たらない。それなのに、彼は成経と一緒に恩赦の対象になって都へ戻ることができたのである。

 
卒塔婆流しで康頼を救い出す

 中原康頼が許されて都へ戻って来られたのは、従兄弟の覚明の謀が成功したからだと思われる。覚明による都の人々を巻き込んだ巧みな情報操作に、平家に対する反発を恐れた清盛も康頼の流罪を解き都へ戻さざるを得なかったのであろう。

この部分が書かれている四部合戦状本の二巻は欠巻なので、他の諸本を参考に<卒塔婆流し>の部分を抜き出してみると『康頼に縁ある僧の、西国修行して迷いありきけるが、厳島へぞ参りける』と康頼の親族にあたる僧が、助け出す手段を模索しつつ西国へ修行の旅に出かけたことが書かれている。

  縁ある僧は、まず平家の信奉する厳島神社へ向った。そこで渚に浮かぶ卒塔婆を見つけたのである。卒塔婆の木片の裏面には『薩摩方 沖の小島にわれありと 親には告げよ八重の汐風』という康頼自作の歌が書かれていた。流罪になり遠い南方の孤島に送られた息子を心配している親に、今も生きていることを知らせる内容である。この歌は、康頼が着ていた小袖を破って書かれており、交易商人の手により実際に都の母の元へ届けられた。

当時すでに蝦夷から南方の小島を経て大陸まで向かう大商人もいたらしい。彼等三人の送られた鬼界島(別名硫黄島)で産出する硫黄が火薬として宋に輸出されていて、大陸と日本を結ぶ交易基地でもあったことから、当時は交易船が頻繁に往来していたらしい。

康頼の父の中原兼遠は同業者である交易商人に依頼して息子に生活物資を届けて、流人生活を支えていた可能性が考えられる。頼まれた商人が、確かに受け取ったという証拠がほしいと康頼に要求した際に、着ていた小袖を破ってこの歌を書いて手渡したのかもしれない。

厳島神社にやって来た覚明は、水際に漂っている卒塔婆を拾いあげて厳島の神人達に見せ「これは間違いなく鬼界島の流人が流した卒塔婆である。この厳島神社へ流れ着いたのは不思議なことだ」と披露した。覚明はそれを都へ持ち帰って、都中に噂を広めた。『都人は哀れがりて この歌を口ずさみ、涙を流さないものはいなかった』と<卒塔婆流し>には書かれている。

康頼には、力となる有力者もいなかったので、覚明は一般の人びとの同情を引きだすことで、救出に成功したのである。平家への批判も高まっている折、清盛も無視できず康頼を許したのだろう。

  勿論南海の孤島の鬼界島から卒塔婆が偶然厳島神社へ流れ着く奇跡は考えられない。しかも波に洗われたはずの文字の跡は鮮やかだったのである。縁ある僧が都から持参して渚に浮かべた卒塔婆と考えるのが順当であろう。

平家物語に書かれている「縁ある僧」を覚明と結び付ける説は、これまで皆無であった。しかし中原兼遠と海野幸親が兄弟であるとの信濃に伝えられる伝承を信じたならば、中原兼遠の息子の中原康頼と海野幸親の長男の覚明は従兄弟となり、縁ある僧を覚明とすれば辻褄が合うのである。


中原康頼(後白河近臣)と中原兼遠(木曽義仲の養父)

今様の上手として知られた中原康頼は、今様に目がなかった後白河法皇のお気に入りだったようだ。度々の熊野詣にもお供したので、随員の記録に中原康頼の名を見つけることができる。その記録には中原康頼(平判官康頼)は信濃権の守の中原頼季の長男であると記されている。しかも父の中原頼季が権の守だった時期は、中原兼遠が信濃の権の守の役職であった時期と符合する。

頼季は貴族を捨て街道の交差する木曽で交易商人になった時に、名も兼遠へ改名したのであろう。故に中原兼遠の名では、信濃の権の守であった記録は見つからなかったわけである。同時に頼季の名も、彼が木曽に移ったと思われる時期以後には都の記録からは一切消えてしまっている。

幸運にも鬼界島から都へ戻った中原康頼は、その後政治の世界から身を引き、仏教説話である宝物集を書いたり、歌人として生きた。平家物語には「康頼には都に母しかいない」と書かれている諸本もあるが、後年、父の死を悼む歌が月詣和歌集に載せられている。月詣和歌集が発行された時期は兼遠の没した一年後のことになる。

中原兼遠の系図に長男の欄が空白のまま残されているのは、本来ならば康頼の名が書かれているはずだが、あえて空白にして残したような気がする。

 

白山騒動―鹿ケ谷の変―卒塔婆流し

  長い間紛糾して解決の目途が立たなかった白山事件は、突然起きた鹿ケ谷の変で実質上の終結をみた。それと同時に覚明にとって従兄弟の康頼が南海の孤島の鬼界島へ流罪となるという思わぬ事態をも招いたのであった。幸いにも無事に救いだすことができて胸を撫でおろしたであろう。

白山騒動と鹿ケ谷の変、それに卒塔婆流しは、覚明にとっては一連の連動した事件であり、どれも忘れることのできない肝を冷やす出来事だったはずである。覚明が平家作者であると考えれば、白山騒動が平家物語に取り入れられている事は少しも不自然ではないことが納得できるのである。

 覚明の経歴

覚明は都の学問の家である中原家の生まれで、「和漢朗詠集私注」や「白氏新楽府略意」等の注釈書を書いた当時の最高レベルの学者であった。覚明は自身の経歴を著書の「仏教伝来次第」の奥書に『近衛天皇の在位の昔、観学院をやめて出家し、北陸地方を修行して廻り、その後奈良にも住んだ』と述べている。

それまで学者を目指して勧学院に通っていた若者が、突然出家した理由は何であろうか。元来スケールの大きい人物だったので、役人にも学者にも収まらず、僧として自由に生きることを選んだとも解釈できるが別の理由の可能性も考えられる。

北陸勢がこぞって義仲軍に協力したのは、覚明が北陸を巡っていた際に、白山騒動に遭遇して、自から騒動に飛び込み、共に戦うことで彼等の心を掴んだ事とも無関係ではないだろう。

それから数年後、信濃で蜂起した義仲が北陸経由で都へ向う際に、覚明は祐筆兼作戦参謀として随行して実戦にも参加している。部隊が移動する間に白山平泉寺や埴生八幡には祐筆として戦勝を祈る願書を奉納しており、自分のことを文中で「文武両道の達者かな とぞ見えたりける」とさりげなく褒めることも忘れていない。

彼は北陸戦に参加して一部始終を目撃してきた故に、平家物語の中でも特に北陸での戦闘の模様は、まるで映像をみるが如くにリアルで躍動感に満ちている。反面、西海での平家(義経の陣)と鎌倉方の戦闘については、詳しく陣内のもめ事まで把握していているものの、何故か傍観者的な表現に終始している。

  一人の武将が両方の陣に加われるはずはなく、この部分は戦乱終了後に箱根山に滞在していた覚明が東国武士から聞いて書きとめた内容であり、北陸戦のような迫力と臨場感に欠けるのは否めない。

徒然草には平家物語の作者として行長と生仏の二人の名が記されている。盲目の僧、生仏は東国の生まれなので、戦闘の様子は、彼が東国の武士から聞き、それを行長に教えて書かせたと記されている。実際には西仏(覚明)が東国武士から聞いた話を元に書いたのであろう。彼は盲目ではなかったので、自ら筆をとったはずだが、終始黒子のように控えめな存在に徹していて、最後まで作者と名乗ることはなかった。
  晩年は信濃方面で法然や親鸞の教えを説く布教活動に従事したようである。



平家物語が生まれた経緯   

治承から寿永年間にわたった長い合戦もようやく終結を迎え、鎌倉に幕府ができると政権の中枢は京から鎌倉に移っていった。旧都は急速に寂れ、かつて行われた千人供養のような華やかな法要も行われなくなり、多くの僧侶達は仕事を失って路頭に迷う事となった。

彼等の生活を維持する為にも何らかの対策が必要と考えた宗教界の重鎮で何度も比叡山の座主を経験した慈鎮和尚の発案で、青蓮院に大懺法院が設けられた。そこで、僧達の失業対策の一環として編纂されたのが平家物語であるとの説が有力となっている。人びとの記憶に新しい源平合戦の物語をつくり、その話を仕事のない僧侶達に節をつけて覚えさせて、彼等を日本各地に派遣して語らせるという新しい宗教活動の一環だったと言われている。

その頃になると、仏教も権力者の為の宗教から庶民の為の宗教が求められ始め、法然が登場して弾圧を受けながらも民衆に享受されていった。平家物語も戦争の空しさを語るとともに、疲弊した人民の心を慰めたのであろう。

大懺法院起請の事には、たとえ身を山林に隠す事情があっても、説教や声明・音曲に秀でた才能のある者を積極的に扶持したと記されている。それはそのまま鎌倉を追われた覚明にあてはめることができる。

平家物語の作者については「史学義仲」七号『親子で書いた平家物語』で、海野庄の豪族の海野幸親とその長男の覚明の二人が作者であるとの説を述べさせて頂いた。徒然草には『信濃の前司行長と盲目の僧生仏』という二人の作者名が挙げられているが、二人をそれぞれ海野庄の豪族である信濃の守幸親とその長男である学僧西仏(覚明の最後の法名)に当てはめて導き出した内容である。

徒然草の226段に記された平家物語の作者は、当時伝えられていた伝承を吉田兼好が書きとめたものである。作者の手がかりとしては最も信用度が高いものだが、書かれた時期は合戦から百年以上経っていたことから、名前の若干の違いは伝承の変化の範囲内と解釈した。そこに書かれていたのは、作者は、楽府の朗詠の宴席で詩の一部を忘れた事を恥じて遁世したという内容である。海野幸親は都から来たという信濃の伝承と徒然草の記述とを突き合わせると、彼は、弟の兼遠を頼って木曽へ来て、その後海野家に入り海野姓を名乗ったのではないかと考えている。

  覚明は、源平合戦では木曽義仲軍に参陣していたが、合戦後はかなり早い時期から鎌倉に潜入して、箱根山の行実の別当房に居住して有能な唱導僧として活躍していた。

ところが、ある法要の席で導師を務めていた時に、「あの僧は木曽義仲の陣にいた覚明という者です」と注進する者がいたことから元の身分がばれた。その時『箱根山から出てはならぬ』という頼朝の禁足令がでて、即日京へ逃げ戻った。その途中に海野庄を通り、父と再会したと考える。

既に戦争が終了して十年の月日が経過していた。孫の幸氏も頼朝に仕えて、海野家を立派に守っている。元は京の貴族だった幸親は、海野家を孫に託して懐かしい故郷の京へ戻り、晩年は息子の覚明と共著で平家物語を書いたのだと考えている。

  大懺法院において宗教活動の一環として生まれた平家物語は、地方に派遣された僧達の語りによって全国津々浦々にまで広がっていった。字の読めない庶民も等しく享受したという点では、長期間にわたり日本で最も多くの人に親しまれた文学なのかもしれない。

覚明は、源平合戦に北陸での準備段階から関わり、戦中には祐筆兼作戦参謀として活躍し、戦後は箱根山に住み、繁栄する鎌倉の町を見下ろして何を考えていただろうか。その間東国武士とも親交を結んで、京へ戻ってからは物語の作者として源平合戦のすべてに関わることになった人物である。儒家の家に生まれ、勧学院に通って当初は学者を目指していたことから文筆能力は充分あり、作者としてこれ以上の適任者はいないだろう。

                                      (2018年9月「史学義仲」第18号)

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