要  約
 木曽義仲の養父として知られる中原兼遠の出自はよく判っていなかったが、都の貴族であった中原頼季なる人物が若い頃、信濃権の守として信濃に赴任し、後に木曽に土着して名を中原兼遠に改めた、と複数の記録から推定できる。鹿ケ谷の変で鬼界ケ島に流された平判官康頼は頼季の息子であることが判っているから、兼遠と康頼は親子であり、鹿ケ谷の変の頃、兼遠が身の危険を冒して平家の召喚に応じたのは息子である康頼の助命の為とも考えられる。信濃の守だった海野幸親は兼遠の実兄であり、義仲軍に参陣して北陸戦を共に戦った僧覚明は幸親の息子であるから、覚明と康頼は従兄弟である。配流先から家族に宛てた康頼の歌を書いた卒塔婆を縁ある僧(覚明と見られる)が厳島に漂着したと見せかけて世論を喚起し、康頼の恩赦を実現した平家物語の挿話「卒塔婆流し」は、平家作者が覚明であることを示唆している。

 

鬼界ケ島に流された平判官康頼と中原兼遠
                                      

 信濃の権の守中原兼遠は、同族の源義平に闇討ちで父を殺された2才の木曽義仲を引き取って育てた養父であり、木曽軍の武将であった今井兼平、樋口兼光兄弟等の実父でもある。歳の近い彼らは幼児期から実の兄弟のように育ったのであろう。「死ぬ時は一緒に」と、共に粟津ガ原で果てたくだりは平家物語の中の最も感動的な場面として多くの人々の心を捕らえてきた。

 

 この中原兼遠については多くは分っていない。彼等は敗者であり、身を隠さなければならなかったためか文献も残っていない。ただ、木曽地方にはその痕跡と伝承が多く伝えられてきた。彼は信濃の権の守であったとされているが、それを証明する文書も見つからず、謎の多い人物である。義仲を引き取ったのを契機に信濃の豪族達と協力し、山深い信濃を鎌倉のように新しい日本の中心地にする夢を実現するため、着々と準備を進めていたと思われる。

 

 兼遠には今井兼平、樋口兼光、兼好、落合兼行等の息子がいたといわれているが、私は中原兼遠には都にもう1人母親の違う息子がいたのではないかと考えている。彼の名は中原康頼。『宝物集』の作者としても知られている。

  

 康頼は12、3才頃から後白河法皇の御所に宮仕えに上がっていた。和歌に堪能で、文章もうまく多才な才能の持ち主であったらしい。その上音曲にも通じ、今様の名手でもあったので、『今様狂い』と言われ、一日中歌い続け度々声を潰したと伝えられる後白河法皇に気に入られ、近臣として重用されていたらしい。平家物語にも平判官康頼という名で巻1の『鹿の谷』、巻3では『足摺』『丹波少将都帰』『康頼双林寺へ着く事』『有王』等に何度かその名が登場する。

 

 康頼は、平家打倒を計画した鹿の谷の謀議にも、法皇と共に側近の1人として参加していたのである。ところが、その謀議は、仲間に引き込んだ多田行綱の裏切りにより発覚して清盛の知るところとなり、彼らは捕らわれの身となった。平家の屋敷に拘束され厳しい詮議の末、俊寛僧都、丹波少将成経と平判官康頼の3人は南海の孤島、鬼界が島(実は硫黄島)へ流刑となったのだった。
 同じくこの時、鹿ガ谷の謀議に加わっていた新大納言成親と西光・師高親子は、平家に捕らわれ、拷問の末殺害されているのである(巻1鹿の谷)。

 

 それから1年余、清盛の娘で高倉天皇の后徳子が懐妊された。この日を一日千秋の思いで待っていた清盛は、徳子の安産と皇子誕生祈願のため大赦を行い、幸運にも成経と康頼の2人は赦されて京に戻ることができた。しかし、全員が赦された訳ではなかった。俊寛僧都は大赦から漏れ、1人鬼界が島に残されたのだった。その悲劇は、能や歌舞伎に脚色されて語り継がれ、後の世まで多くの人々の涙を誘ったのである。(巻3足摺)

 

 平家の呼び出しに応じた中原兼遠が木曽から京に赴いたのはこの騒動(1177年)の頃ではないだろうか。この事実は、源平盛衰記の『兼遠起請の事』と四部合戦状本平家物語の『木曽生い立ち』の中で語られている。

 

 そこには『中原兼遠が木曽で義仲を養育し平家打倒を企てている、との噂が立ち、平家から呼び出された』と記されている。兼遠はその申し開きのため木曽から京へ向った。従来から、この時期は義仲が蜂起した頃と前後すると考えられてきた。木曽の日義村にある林昌寺は兼遠の菩提寺であるが、ここには、義仲を捕らえて差し出すと書いて許されたという起請文の写しが残されている。その日付は治承5年(1181年)正月23日付けになっている。

 

しかし私は、これは後の世に記録として書き加えられたものではないかと考えている。なぜなら1181年という日付に疑問を感じるからである。既に、その前年の治承4年(1180年)には、『全国に散らばる源氏は決起せよ』との高倉宮以仁王(もちひとおう)の令旨が源行家によって各地に散らばる源氏に届けられている。

 

その直後の5月26日には宇治の合戦で源平合戦の火蓋が切られており、そこで以仁王と源頼政は討ち死にしているのである。義仲も既に、起請文の書かれたとされる前年の治承4年9月7日には挙兵を果たしている。もはや平家は、単なる噂の為に遠い木曽から兼遠を呼び出す段階ではない。両者はもっとせっぱ詰まった状況にあったはずであり、兼遠もこの期に及んでは平家の召喚に応じる必要性はなかったと思われる。

 

 原文には、『義仲は成人の後、様子を探るため度々京へ上っている、という噂を聞いた平家が兼遠を召して問いただした』と書かれている。察するにその時期は挙兵前後ではなく数年前の鹿の谷の騒動の頃(1177年)と考えた方が自然な気がするのである。

 

 とはいえ、何故平家は単なる噂のため兼遠をわざわざ木曽から呼び出したのか。彼も危険を冒してまで京へ出向いて釈明しなければならなかったのだろうか。敵の渦中に入れば命の保証もない。捕らわれの身となり、木曽へ戻れなくなる危険さえ孕んでいる。信濃に残る息子達も、父が人質になれば蜂起をためらわざるを得ないだろう。万一そのような事態になれば、義仲を養育し、実兄海野行親の一族や近隣の豪族をも巻き込んでの長年の一大計画は水泡に帰すのである。

 

 後白河法皇の近臣の1人に、鹿の谷の騒動で捕らわれの身となった平判官康頼という人物がいるのは先にも述べた。彼は『信濃の権の守中原頼季の子』であったという公の記録が残されている。その平判官康頼の父、中原頼季が権の守の任にあった時期が、信濃史料巻2に中原兼遠が任官していたと記載されている時期が、1月のずれがあるものの、ほぼ重なっているのである。

 

 つまり、『信濃の権の守であった中原頼季』と『信濃の権の守を勤めたのではないか』と言われている中原兼遠は同一人物であったと考えることが可能なのではないだろうか。

 鹿の谷の変で平家側に捕らえられ、拷問を受けていた康頼は、『父、兼遠が木曽で義仲を養育し平家打倒をねらっている』という噂については当然追求されたに違いない。このような状況において兼遠は、息子の差し迫った危機にあれこれ迷っている訳にはいかなかったはずだ。まかり間違えば明日の命も危ない我が子の為に平家の呼び出しに直ちに応じ、可能な限りの釈明を試みようと、兼遠は父親として直ちに行動を起こさざるを得なかったのではあるまいか。

 

 生きて戻れないというリスクも、人質にされる危険も承知の上、急ぎ上京し平家方に誠意を示すことで、窮地に立たされている息子の罪状が少しでも軽くなることを願ったのだろう。その甲斐あってか、幸いにも平判官康頼は殺害を免れ遠島送りとなった。そして1年余の後、清盛の娘である中宮徳子の懐妊による大赦がおこなわれ、康頼は幸運にも比較的短い期間で京に戻ることができたのであった。

 

 中原兼遠は、その場を乗り切る為に致し方なかったとはいえ、偽りの起請文を書いたことを恥じ、義仲の旗揚げを見送った後、横田河原の合戦を前に自刃したとも、あるいは病没したとも伝えられている。

              

 

四部合戦状本平家物語と木曽との関わり
            

 前記したが、『兼遠起請の事』は源平盛衰記及び四部合戦状本平家物語の『木曽生い立ち』の中には収録されているが、それ以外の他の平家物語諸本(約80余ある)には取り上げられていない。    

 源平盛衰記は後年(南北朝の頃)に作られた本で、源平合戦に関する記事や後の記録をも取り込んで編集された平家物語の集大成とも言える作品である。多くの関係記事が網羅され、そこに『兼遠起請の事』が記されているのも不思議ではない。

 

 しかし、四部合戦状本平家物語は特異な変体漢文で書かれており、平家諸本のなかでも初期の作品と考えられている。後期の流麗な文体で書かれ琵琶法師により語られた流布本(覚一本等)と比較すると簡潔な表現ながら史実には概ね忠実である。歴史の資料に照らし合わせても人名や日時も比較的正確に記載されているとされ、この四部合戦状平家物語の行間を読み込めば、記録のみでは理解しにくい、生きた歴史の真実が明らかになりそうな気がするのである。

 

 この作品、つまり四部合戦状本平家物語の『木曽生い立ち』の章に、中原兼遠が平家の召しに応じた事実が載せられているのは注目に値する。それはこの本と平家物語の原本(原平家と言われてるが現存しない作品)との関連を追求すれば、平家物語は木曽と関係ある人物によって書かれたとの証明にもなるからである。

     

 中原兼遠は木曽側にとって義仲蜂起の原動力となった大変重要な人物である。彼らは、仕方なく中原兼遠を都へ送り出したものの事の成り行きを固唾を飲んで見守っていたに違いない。兼遠が起請文を書いて赦され、無事木曽に戻って来たのでほっと胸を撫で下ろしたが、決して忘れる事の出来ない重大事件だったであろう。その思いが『木曽生い立ち』の短い行間から伝わってくるような気がする。

 

 しかし、この事実はどちらかと言えば木曽におけるローカルな出来事であり、一般にはそれ程興味を持たれなかったのだろう。他の平家物語諸本にはこの部分が欠落しているのである。つまり、四部合戦状本平家物語に取り上げられた背景には、この本と信濃との深い関わりが指摘できると思うのである。

 

 四部合戦状本平家物語は平家物語諸本のなかでも特に人名、日時が概ね正確に記載されているのが特長であるとは先にも述べた。後の世に琵琶法師による語り物として脚色され変化していった平家物語と比較すると、歴史的事実に忠実で史料的価値も高い。平安後期から鎌倉初期に僧侶が好んで使ったとされる、漢文と日本語をミックスした変体漢文形式で書かれているのが特徴である。その表現方法からも初期の作品と考えるのが自然であろう。

 

 簡潔で素朴な表現ながら躍動感にあふれており、内容は具体的且つ正確で、この作品が『原平家』と言われる幻の平家物語と近い関係にあるのではないかと指摘する研究者も多い。『原平家』とはその存在が信じられているものの現存しない幻の平家物語のことである。

 

 それなら原平家物語と四部合戦状本平家物語はどのような関係にあるのか?

 唱道文学としてスタートした原平家物語は完結したいくつかの短い説話の集合体であったと考えられる。本来、僧侶が庶民にもわかりやすいように説教に用いた宗教文学であった。私は、四部合戦状本平家物語は、その説話を年代順に組み替えて、歴史書あるいは戦記物として再編成した作品だと思うのである。

 

 その根拠は、四部合戦状本平家物語において各章毎につけられているタイトルと序の文である。例えば、各巻の冒頭には『平家物語巻第一 并序 本朝四部合戦状第三番闘諍』と書かれている。このことから四部合戦状本と呼ばれている。第三番闘諍とは保元、平治、治承、承久と続いた4つの戦闘の3番目の治承の乱という意味で、それによりこの本は戦記物として位置づけているものと思われる。

 

 各章毎にタイトルと序の文が付けられているものの、四部合戦状本平家物語では序の文と内容は必ずしも符号していない。多分、年代順に再編集されたため、本来はひとまとまりだった説話が年代に即して分断され、分散してあちこちに飛んでしまっているからであろう。原平家物語の『○○并序』という形式のみをそのまま踏襲してしまったのであろう。実際にはあまり意味をなさないこの部分が何の為に存在するのか、従来から疑問とされてきた。しかし、これを説話ごとに再編成したならば、幻の原平家物語の姿が見えてくるような気がするのである。

 

 平家物語の作者は800年以上たった今も不明のままである。木曽軍の右筆に覚明という人物がいるが、彼は文章を書くばかりでなく作戦参謀としても活躍した。平家物語には覚明の書いた願文や牒状が個人の文としては最も多く収録されているのは周知の事実である。私は、彼が平家物語の原作者ではないかと考えている。特に、義仲の軍が北陸道を転戦する間の戦闘の様子は映像を見るようにリアルである。その場に居合わせた者でないととても描ききれない程、戦いの進め方や地形や地理の描写も詳しく正確である。覚明はその戦いにも参加していたので、当然本人の見聞に基づくものであろう。

 

 一方、鎌倉の主戦力だった範頼の陣中のことにはあまり触れられていない。ところが搦め手の義経の軍内の状況や戦いの様子は、陣内のもめ事までかなり詳しく熟知している。このことは、徒然草の226段にも平家物語の作者について『九郎判官のことは詳しく知りて書き載せたり。蒲の冠者の方は良く知らざりけるにや、多くのことを記し漏らせり』と述べられている通りである。

 

 実は義経の軍の中に覚明の一族につながる人物が2人参戦していた。1人は副将軍の田代冠者信綱、もう1人は頼朝の目付役として従っていた藤原親能である。戦いが終結した後、数年間箱根山に居住していた覚明は、その時彼等から詳しく戦闘時の模様を聞くことができたはずである。

 

 徒然草の226段にも『平家物語の作者は信濃の前司行長と東国生まれの盲僧生仏であり、戦のことは武者に聞いて書いた』と記されている。覚明は盲目ではないが生涯に法名を数回変えている。彼の最後の法名が西仏であり、音読すればどちらも、「せいぶつ」と読めるのである。その上、平家方や鎌倉方に比較すると木曽軍に関してはローカルで一般に余り知られていない人物も多く登場してくるのである。

 仮に覚明を平家作家と考えて検証してみると、他にも多くの符合する事実が重なってくる。


中原兼遠は信濃の権の守だったのか?


 中原兼遠は信濃権の守を勤めたと言われているが、その記録は残されていない。地元に伝わってきた伝承のみである。中山道の木曽は山深い土地ではあるが同時に交通の要所でもあった。その為、彼は馬方の元締めで、その利益で義仲の挙兵を助けたとの説もある。


 もしそうであったら彼は都に攻め上るという危ない橋を渡ることなく仕事を拡大すべく別の努力をしたと思うのである。源氏の貴種である義仲を養育し、いつか都に攻め上ろうと意図するのは、かつて都で官吏として務め、地方へ下ってきた人間の発想と考えた方が自然な気がする。


 信濃史料(巻二)には中原兼遠『康治2年正月27日大隅の守』との記述がみられる。しかし日付はともかくこの『大隅の守』には疑問が残る。兼遠はこの時、まだ弱冠16,7歳。よほどの例外、例えば高位の貴族の子弟か有力者の息子でない限り、この若さで大隅の守の地位を得ることは難しいであろう

 ところが同じく木曽に住んでいた中原兼貞という人物がいる。同族の1人なのかもしれないが、兼遠より早い時期に都から木曽地方に移って来たものと思われる。兼貞は保元、平治の乱にも参加し、大隅の守も勤めたと記録されている。兼遠より年配者であろう。2人の名前が兼貞と兼遠と1字違いで似ている為に、後の世に混乱して誤記された可能性が疑われる。


 平判官康頼の父である中原頼季という人物については前記した。彼の名は中央の記録に『本朝世紀 康治元年(1142年12月21日)から翌年の康治2年にかけて信濃の権の守』であったことが確認されている。ところが先に述べた通り、信濃史料(巻二)にも中原兼遠が『康治2年(1143年正月27日大隅の守)であったとの記録が残されている。康治元年12月21日の中央の記録と康治2年正月27日の信濃史料では日時に約1月のずれが見られるものの、役職の大隅の守を『信濃権の守』に訂正するとほぼ一致するのである。


 暮れも押し詰まった康治元年12月21日に信濃権の守に任命された中原頼季は、明けて2年1月27日に信濃に赴任して来た。このように考えると信濃史料(巻二)と都の史料の約1ヶ月のずれは準備を整え現地に赴く期間、つまり任命(12月21日)されてから着任(翌年1月27日)するまでの期間とも解釈できる。京から国府のあった松本までの距離と到着までに要した日時と考えたら納得できるのではないだろうか。

 

 中原兼遠(頼季)は 康治2年(1143年)1月27日信濃権の守として赴任して来たものの、その期間は比較的短かったようだ。同じ年の1143年に早や京に戻って左馬允、その後右少史(大政官書記官)として官文の起草や書写等の文官としての任務にあたっていたと伝えられている(信濃史料)。喜界が島に流刑になった平判官康頼は1145年に生まれと伝えられているので、兼遠が京に戻って2年目に誕生したことになる。

 またこの時代、改名したり別名を用いる事も珍しくなかったらしい。系図に、名が連記されている場合も間々見うけられる。都では中原頼季を、信濃に移ってからは中原兼遠を名乗った為、中央の資料に『信濃権の守中原頼季』の記録は残されていても、兼遠の名では見つけることができなかったのであろう。つまり、中原頼季と中原兼遠は信濃権の守であった時期がほぼ重なるので、2人は同一人物とみても良いのではないだろうか。


 なお、兼遠の父は中原頼成と言う学者であり、父の名の1字を貰って命名することの多かった当時、頼成の子が頼季(兼遠)、そのまた息子が康頼と、頼の字をを受け継いだとも解釈できる。
               
 

平判官康頼は中原兼遠の長男であった


 京での官吏の生活を終え、再び信濃へ戻ってきた中原兼遠は、児玉党の娘千鶴と結婚し木曽に土着したらしい。同じく信濃の大豪族海野家の婿養子となった兄、海野行親(中原兼保)と力を合わせ信濃の将来に夢を描いていたのであろう。その間、父を殺された源氏の貴種、義仲を引き取り、武将として育てあげたのである。やがて源氏の世が巡ってくれば、兄と力を合わせ信濃の地から打って出ようという思惑もあったに違いない。

 一方、平判官康頼は、保元2年(1157)年9月に法住寺の今様会に列席したのが12歳だったとの記録が残っている。逆算すると彼は1145年頃に生まれたと思われる。この2年前の1143年に中原兼遠は、信濃権の守を辞して都へ戻っている。つまり京での官吏として暮らしていた間に生まれたのが平判官康頼こと中原康頼なのであろう。


 康頼は10代前半から鹿の谷の変で硫黄島に送られるまで、約20年もの長きに渡って後白河法皇の側近であったため、法皇と行動を共にすることも多く、その動静がいくつか記録に残されている。

 例えば、兵範記
には後白河法王が受戒の為南都に行幸された時、随行した人物の1人として『中原康頼』の名が記されている。また、平家物語では、治承元年(1177年)6月3日鹿の谷騒動の時、平判官康頼の名で登場する。
 さらに、『倭歌作者部類 巻二』には、『使 平康頼(信濃権の守 中原頼季の子)』と記録されていて同一人物であったとわかる。

                  
 同書には硫黄島で詠んだ次の歌も掲載されている。

        「薩摩がた 沖の小島に我ありと 親には告げよ 八重の汐風」                   (この歌は千載集と宝物集にも収載)

         

 大赦で再び都に戻ってからは、彼は政治の世界へ戻らず、『宝物集』等仏教説話集を著したり歌人としての才能を発揮し、平穏な後半生を送ったということである。つまり、後白河法皇に仕えた平判官康頼と中原康頼は同一人物であり、康頼の父信濃権の守中原頼季と義仲の養父中原兼遠も同一人物であったと推測しても差し支えないのではなかろうか。

             

鹿ケ谷事件の平判官康頼の救出運動

 

 成経、俊寛、康頼の3人が鬼界ケ島(硫黄島)に流された約1年の後、清盛の娘である高倉天皇の中宮徳子が懐妊した。首を長くしてこの日を待ち望んでいた清盛の喜びは一方ならぬものがあったであろう。これを好機と捉えた清盛の異母弟である教盛は、娘婿であった成経の大赦を願い出た。「大赦が叶えられたならば、必ず徳子さまの安産と皇子誕生はまちがいなく実現するでしょう」と教盛は兄清盛を説得し、婿である成経の大赦を働きかけた。こうして成経と康頼の2人は幸運にも赦されて京に戻ることができたのだった。


 しかし、俊寛僧都は大赦から漏れ、1人鬼界ケ島に残されてしまった。その悲劇は平家物語にも、去って行く船を追い、海岸で子供のように足摺をして悲しむ姿に表現されている。


 何故2人は許されたのだろう。

 成経には清盛の弟である教盛という有力な後ろ盾がいて、娘婿救出のため教盛が奔走したのは当然のこととして頷ける。それでは康頼は・・・というと、彼にはこれという人脈は見当たらない。しかしながら、平家物語を読むとそれなりの救出作戦が秘かに行われていたのが伺えるのである。しかも、それは世論に訴えるという現代にも通じる方法で。 


  『さつまがた 沖の小島にわれありと 親には告げよ 八重のしほ風』

  『思いやれ しばしとおもふ旅だにも なほふるさとは恋しきものを』


 この2首の歌は、後に康頼の著書である宝物集の中に、南海の孤島に流されていた時、京の母に送った歌として収録されている。


 この島は硫黄を産出していたので、南海の孤島であるにもかかわらず本土との間に交易船の往来があったらしい。彼は舟の船頭にこの和歌を書いた手紙を託したという。この手紙が海を渡り、薩摩の国から都まで長い道程を多分何人かの人の手から手を経て、間違いなく康頼の母の手元まで届いたのは奇跡にも近い幸運なことだったに違いない。

 

 母はこの手紙を受け取り、『さつまがた おきの小島にわれありと・・・』の歌で息子がまだ生存していることを確認するとともに、「救出してほしい」との叫びとも受け取ったであろう。


 また、『思いやれ しばしと思う旅だにも・・・』の歌で、短い旅に出てさえ故郷のことが恋しいと思われるのに、まして、いつ帰れるかもわからない・・・と流人の生活を嘆いている。彼は「早く戻りたい、都で何らかの救出活動をしてほしい」との願いをこの歌に託したのであろう。

 

 平家物語、巻二の『康頼祝言』と『卒塔婆流』には、康頼はこの歌を木の卒塔婆千本に彫り海に流したと書かれている。その1本が平家縁りの厳島神社に流れ着き、たまたま厳島神社に来ていた康頼の縁者にあたる僧が、厳島神社の神官を掴まえてこの神社の由来等を聞いている折、波間に漂う卒塔婆を見つけるのである。「何か変わったものが流れ着いている」と神官に示し、彼を証人に波打ち際にあった卒塔婆を拾い上げたのであろうか。

 

 彼はそれを都に持ち帰り、後白河法皇にお見せしたのであろう。法皇は哀れと思われて平重盛に届け、重盛を介して清盛に恩赦を願い出たと記録されている。平家物語では『流れ着いた卒塔婆の噂が都に広がり人々の涙を誘い、さすがの清盛も哀れがりて・・・』と書かれている。


 どう考えてもストーリー展開が都合良く進みすぎている。康頼が南の孤島で流した千本の卒塔婆のうち1本が、偶然平家に縁の深い厳島神社に漂着した。しかも、それを康頼と縁のある僧が拾って清盛のもとに届けて赦しを請うのである。いくつもの偶然が重なり過ぎている。これは単なる創作上の作り話と考えてしまいそうである。しかし、成経のように強力な有力者(舅が清盛の弟)を持たない康頼サイドが(平家物語には身内として母と妻しか登場しない)世論を味方につける為に実際に行った巧みな演出だった可能性もあながち否定できないのである。

 

 さらに、この康頼と縁のある僧が覚明その人だったとすれば大変面白い展開になってくる。覚明を平家物語の作者と仮定した場合、彼は自作の蝶状や願文を作品の中に組み入れているばかりでなく、自分の作品中にさりげなく登場しているのである。

 

 覚明と康頼は従兄弟の間柄(父海野行親と中原兼遠が兄弟)であり、年齢もほぼ同じ。再婚した父親も共に遠く離れた信濃に居住し境遇も似ている。2人は当時の慣習で、京の母方の実家で育てられたのであろう。両人とも高い教養と文才を身につけており、当代一の知識人であった。当時の教育は家庭で受けるのが主流であり、母方の一族も学問に関係ある官僚貴族ではなかっただろうか。彼等は母の実家で成長し、祖父から教育を受けたのであろう。

 系図を見ると、当時は血縁関係が近いもの同士の二重三重の縁組みも多く、彼等2人もかなり近い関係で育ったような気がする。

 

 宝物集と平家物語には共通する表現が多いことは以前から指摘されてきた。極端な説では、康頼が平家物語の作者ではないかという研究者もいた。しかし彼等2人が従兄弟同士という姻戚関係は今まで全く知られていない。教育を受けた環境に共通性があれば、偶然出典や文献が重なることもあるだろう。印刷技術のなかった当時は家に伝わる書物で学習したであろう。

 

 遠い南の孤島から届いた歌を読み、救出を求めるサインと受取った康頼の母は覚明に相談したのだろうか。思案の結果、覚明は自作自演の舞台を厳島神社に設定し、自ら彫った卒塔婆を持って安芸の宮島へ出かけたと想像するのもおもしろい。

 

 戦乱の世を類稀な才能と個性で駆け抜けた覚明の一生。若い頃は和漢朗詠集私注等数多くの著作を残し、教育・文化面で大きな役割を果たした。平安時代から鎌倉時代へと社会の変革期には、その行動力で日本全国を縦横無尽に移動し、歴史の影の立て役者として活躍した。鎌倉幕府成立後は、箱根山の別当行実をたよって東国に赴き、仕官のチャンスを探っていたと思われるが、結局果たせなかった。

 

 権力と決別した後半生は宗教家として庶民のために捧げた、その人生を彼自身はどう見ていたのだろう。存命中も終始華やかな表舞台に登場することなく常に裏方的存在であったが、彼の書いたと思われる平家物語も作者不明のまま800年以上の時を刻んできた。その間、この作品によってどれだけ多くの人が涙を流し、心を清められ、慰められたことだろう。

 

参考文献

  訓読四部合戦状平家物語        高山利弘著     有精堂出版

 平家物語 日本古典16       富倉徳次郎     筑摩書房

 平家物語 日本古典文学大系32   高木市之助他    岩波書店

 平家物語 新潮日本古典集成     水原 一      新潮社

 兼遠と義仲             小林清三郎     銀河書房

 

                       (2004年10月「史学義仲」第6号)

      
        
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 中原兼遠


            

       滋賀県大津市

          西川早苗