平家物語は木曽地方ではあまり好感を持たれていないように感じる。しかし、私はこの作品の成立に信濃が大きく係わっていると思うのである。
「それなら、何故義仲をあのように揶揄して書いたのだろう」との疑問が生じるが、しかしよく注意してその場面を読んでみると、情報源は、もと平家の使用人だった牛飼いや、猫間中納言の郎党、あるいは無責任な町の噂であり、確かな資料や記録に基づく内容ではない。
都へ入った義仲一行は、それまで平家が召し使っていた彼等をそのまま再雇用したらしい。ところが財政の豊かだった平家に比べて、木曽勢には彼等を充分満足させる待遇を与える余裕はなかったはずである。「以前の方がよかった」という不平不満と、地方から出てきた支配者に対する都人の横柄さが相まって、様々な噂が庶民の間に広がっていったのであろう。
平家物語には80余の異本があるといわれているが、現在広く親しまれている流布本は、覚一という琵琶法師の作品である(覚一本)。彼は余りに変えられていく平家物語を憂いてこの作品を残したというが、その時も、すでに源平の合戦から一世紀の時を経ており、すでにかなりの脚色が加えられていたはずである。
古典落語を聞きに行くと、噺家は決して台本通りに話しているわけではなく、その時その場の雰囲気に合わせアドリブが加わっていることに気がつく。台本を読むこともなかった盲目の琵琶法師達も、想像力を膨らませ幾分かの脚色を加えながら平家を物語って聴衆を楽しませていたのであろう。
残念ながら平家物語の原作は失われていてもはや手にすることは出来ない。しかし、原作をかなり忠実に伝えていると考えられる作品がある。四部合戦状本平家物語という変体漢文(真字表記)で書かれた本である。
この作品の特徴は、表現は簡潔で素朴であるが、内容は事実を巾広く網羅しており、史実に添って日時も比較的正確なことである。人の記憶は時とともに薄れていくものだが、まだ人々の記憶が鮮明な、合戦からそれ程遠くない時期に成立した、原作に近似した作品であろうと考える。
原作は、宗教活動の一環として僧が語るのを目的に作られた作品であり、説話ごとに短い話が完結していたはずである。四部合戦状本平家物語は、それを歴史書として編年体に編集し直した本だと思われる。年代順に並べ替えたため、話が分散され、重複したり、歌の一部が省かれたりしているが、内容や形式は原作をかなり忠実に伝えていると思われる。
その四部合戦状本平家物語には、義仲と行家が率いる六万の兵が都へ入った時の様子を『衣裳を剥ぎ、食物を奪い取りければ洛中の狼藉、事も名目ならず』と記されているが、おもしろおかしく書かれた無塩の平茸や牛車のことは登場してこない。妓王妓女の哀話もそこにはない。つまりこれらの記述は原作にはなく、後世に付け加えられた内容なのであろう。
現存しないその幻の作品は研究者の間で「原平家」と呼ばれている。私は、この原平家の著者が覚明と彼の父海野幸親だと考えている。
徒然草が語る平家作者
海野幸親は木曽義仲の養父であった中原兼遠の兄であり、2人は都から信濃に移り住んだと伝えられている。なぜ、彼等は遠い信濃にやって来たのだろうか。
平安末期は、都での生活が困難になりつつあった貴族が都落ちし、地方に生活の基盤を求めた時代でもあった。地方が力を持ち始め、武士の世の到来を予測させる時代背景も影響していただろう。
しかし、何か別のきっかけがあったのではないか、と大胆に推理してみると、かの有名な平家物語の作者について書かれた、徒然草226段と重なるのである。そこにはこう書かれている。
徒然草に書かれたこの部分の記述が、平家物語の作者に言及した唯一の記録なので、これに基づいて長年にわたり多くの地道な研究が重ねられてきた。しかし、今だ納得のいく結論には達していない。
徒然草226段を分析してみると、まず『後鳥羽院の御時』とは、1185年に平氏が壇ノ浦で平家が滅ぶのに前後して後鳥羽天皇が即位してから承久の乱で隠岐に流される1221年までを指すのであろう。
現在の定説では、『後鳥羽院の御時』とは信濃の前司が遁世した時期であり、平家物語の完成は、これよりかなり後のこととみられている。つまり後鳥羽院時代に出家した行長なる人物が、戦禍もおさまり世の中が落ち着きを取り戻した頃、戦乱のあった各地で自然発生した説話を収集し、合戦当時の貴族の日記と照らし合わせながら編集したと考えられてきた。この説に従うならば、確かに完成までかなりの時間を必要としたはずである。
しかし私は、平家物語は従軍した人物の戦争体験談や残された遺族が亡き人の想い出を語ったのを記録した作品だと考えている。平家物語の登場人物を詳しく調べていくうちに、覚明と彼の父海野幸親の身内、あるいは身内に繋がる人物が多いことに気がついたからである。作品全体の登場人物は千人を超えると言われているが、彼等の縁者、知人がその約一割を占めている。そのため、平家物語は彼等がまだ生きている、合戦終結後それ程遠くない時期に一応の完成をみたと考えている。とすれば『後鳥羽院の御時』とは信濃前司行長が遁世した時期ではなく、平家物語が書かれた時を指すはずである。
次に、『信濃前司行長 稽古の誉れ有りけるが・・・・・ 五徳の冠者と異名をつきにけるを心憂きことにして 学問を捨てて遁世したりける』について考えてみよう。
信濃前司行長は、学識の高いことで知られていたが、白氏文集の楽府の御論議の番に召された時に、七徳の舞の詩の内2つを忘れて、暗唱できなかった為「五徳の冠者」とあだ名をつけられた。このため将来、学問で身をたてることはむつかしいと諦めて遁世した、と述べているのである。
先の『後鳥羽院の御時に・・・・遁世し』が小さい誤解を生み、その後の研究の方向を狂わせてしまった。これまでは後鳥羽院時代に信濃の前司が遁世したとの前提で、多くの研究が行われたきたからである。そのため、「誰が後鳥羽院時代に行われた楽府の御論議に出席していたか」あるいは、「この頃に信濃の守を務めていた行長という人物はいなかったか」と、様々な資料と格闘したが、該当する人物は見あたらず、迷路をさまよい壁にぶつかり、やっと見つけたのは、信濃の守行長ではないが下野の守を務めた行長という同名の人物であった。そこで、多分徒然草を書いた吉田兼好は下野と信濃を間違えたのだろう、という結論に達したのである。
このような経過を経て平家物語の作者は「下野の守行長」というのが現在まで定説となっている。しかし私はこう考える。信濃の前司行長は下野の守行長ではなく、信濃の守を務めた信濃の豪族海野幸親(行親とも記される)であると。
行長は幸親(行親)
先に述べたように『後鳥羽院の御時』とは平家物語が書かれた時であり、後に信濃の前司と記されることになる若者が遁世したのはこれを遡ること半世紀も前のことである。
徒然草では、同一人物に対し『五徳の冠者』と『信濃前司行長』及び『信濃入道(行長入道)』の3つの表現を用いている。五徳の冠者と呼ばれていた無冠の若い頃と、信濃の守を務めていた壮年の時代、そして引退して信濃入道とよばれる老年期を表し、その間の時間経過を示している。
海野幸親が信濃の地にやってきた理由は全く解っていなかった。ところが海野幸親を平家作家とされる信濃の守行長に当てはめると、彼が都を捨て信濃にやってきた謎をこの徒然草の記述が解いてくれたことになる。
学者としての失敗で将来に見切りをつけた若者は、都から遠く離れた信濃の地にやって来た。その後、何らかの縁で海野家の婿養子となり、改名し海野幸親として第二の人生を歩み始めたとすれば、遁世とは都を離れて信濃へ下ったことを述べたのであろう。海野家は代々信濃の守を拝命している有力豪族なので、遁世したのに何故信濃の守になれたのかという疑問もこれで解けると思う。
平家物語の作者に関しては、従来の研究や論文では、徒然草のいう信濃の前司を、都で任命される国司の貴族にばかり照準を当て、しかもその時期を後鳥羽院時代と誤ったため、信濃の守の任にあった当地の豪族海野行親に注目する人は誰もいなかった。
幸親はもと都の貴族であり、一族は代々明経博士や大外記をつとめる学者の家系であるから、文章を書く才は勿論持ち合わせていたはずである。
生仏は西仏(覚明)
もう一人の共作者の生仏を、兼好が盲目の琵琶法師と思い込んだことが、さらに誤解を広げていった。徒然草が書かれたのは、合戦後すでに150年余も後のことである。時間の経過とともにある程度の伝承の誤りはやむを得なかったであろう。
平家物語は声明として始まった宗教色の濃いものであったが、徒然草の書かれた頃はすでに芸能化していて、盲目の琵琶法師によって寺の門前や町の辻々で語られていた。室町期には京だけでも3千人の琵琶法師がいたという。とすれば、生仏が盲僧であった、というのは兼好の単なる妄想だったのではないか。最近の研究でも生仏が盲目であったかは疑問視され始めている。
それならば、いったい生仏とは何者だろうか。再び徒然草226段に戻ってみよう。
と書かれ、行長入道が物語を作り、生仏に(盲目で字が読めないので)教えて語らせたのだという。
これに続く
『武士のこと 弓馬のわざは 生仏 東国の者にて武士に問い聞きて書かせけり』
は、東国の情報を集めたのは生仏だが、(盲目なので自分では書けないので行長に)書かせたと解釈できるが、この部分の記述は文章の達人として知られている兼好にしては、まことに歯切れが悪く理解しにくい箇所である。彼は多分、断片的に伝えられた個々の情報を繋ぎ合わせ、つじつまを合わせたのだろう。
次の 『かの生仏が生まれつきの声を今の琵琶法師は学びたるなり』 では、生仏が語り始めたその調子を継承しつつ、現在の琵琶法師は琵琶に合わせながら語っている、と述べている。
そこで類い希な声で唱道の名人だったといわれている覚明を生仏に当てはめてみると、彼の最後の法名が『西仏』、つまり『せいぶつ』と読むことができ、徒然草に書かれた作者名とも音読みで符合するのである。 建久6年、頼朝に箱根山を追われた覚明が京へ戻り、慈鎮和尚の庇護のもとで平家物語を書き始めたのだとすれば時期的にも妥当で、彼の経歴や能力からも不自然ではない。
系図によると、覚明は信濃の守の海野幸親の長男であるが、家を相続せず僧侶になっている。一般に長男が家を相続しない場合は虚弱であるとか、武門として適しない場合が考えられるが、覚明は知力、体力、気力のどれをとっても武門の統率者として抜群の能力を備えていた。にもかかわらず彼は嫡子として海野家を継がなかったのである。それは、多分彼の実母は海野家の娘ではなかったからではないだろうか。
覚明の父海野幸親は都の下級貴族出身で、若い頃に朝廷の官吏の仕事に携わっていた頃覚明は京で生まれたのであろう。母系家族の風習の残っていた当時は、子供は母の実家で育てられることも多かった。彼も母の実家で幼児の頃から祖父に学問を叩き込まれたのではないだろうか。たとえ類い希な才能の持ち主といえども、書物と接触する機会がなければ才能も開花しない。当時は図書館等が整備されているわけではなく、貴重な書物を身近に保管していたのは学者系貴族の家である。
覚明の経歴を総合すると、信濃と無関係ではないが、信濃生れだとは考えにくい。
母親の実家の特定はできていないが、式家藤原氏の敦光(敦基)、その子茂明、その子敦周一族や歌学者の敦隆の周辺が候補としてあげられる。彼等は漢学の第一人者であり、若い覚明が和漢朗詠集私注を著す時に教えを請うた可能性が大である。その上、茂明や敦周の母は中原氏の出身であり、覚明の祖父も明経博士の中原広季であった。一族同士の婚姻が複雑に絡み合うように行われていた当時の状況とも符合する。
加えて、四部合戦状本平家物語の巻九における福原除目の章には『大外記中原師直(貞)が子、周防介師澄は大外記に成されれば、・・』と、都落ちする平家に同行した一族の動静に触れ、彼等が福原での除目で新たに官職を与えられたと述べている。しかも世を左右する程の高位の役職ではなく、あえて身内でないと関心を持たないであろう内容が平家物語に書かれた事実は、覚明との繋がりと彼が平家物語の作者であったことを伺わせる。
親子で書いた平家物語
覚明の父海野幸親は、中原氏の出身で、海野家に婿養子として入ったと伝えられているが、確かな資料では確認できていない。しかし、幸親の長男が覚明であることは公の系図にも明記されている。彼が長男でありながら嫡子、つまり海野家の跡継ぎでなく、京生まれとなると、幸親が信濃に来る前の京での生活の何らかの痕跡があるはずである。そこで先の徒然草の件の『後鳥羽院の御時、・・・・学問を捨てて遁世したりける』の記述に結び着く。都で学者としての道を断念した幸親が、新しい生活を求めて地方へ移ってきた経緯を、はからずも徒然草が語ってくれたと思うのである。
徒然草には、信濃入道とか行長入道としか記されていないが、幸親の法名は西仙という。没年は不明とされているのは、信濃の寺に記録が残っていないからではないだろうか。とすれば彼は信濃で死去したのではなく、すでに晩年は京に戻っていたと考えることも可能である。
入京した義仲が都の経営に苦慮していた頃、幸親は鎌倉に赴き、頼朝と交渉を持っている。吾妻鏡を読むと、「都での義仲軍の狼藉を鎮めるため、幸親が頼朝に呼ばれたが時すでに遅く・・・」と記されている。これは名目上の理由であろう。頼朝はむしろ義仲の自滅を待っていたはずで、義仲軍の狼藉を諫めさせるためにわざわざ信濃から幸親を呼んだとは考えにくい。
その後の鎌倉政権下においても、海野家は義仲に組みしたにもかかわらず存続し、幸親から孫の幸氏に家督を譲ることが認められ、しかも幸氏は頼朝の警護役として身近に仕えることになる。このことは幸氏達、信濃出身の武士達がいかに頼朝に信頼されていたかを物語っている。実際、彼は曽我兄弟の襲撃時には傷を負いながらも頼朝を守っているのである。
こうして海野家は鎌倉政権下でも日の当たる場所にいたが、木曽には義仲の没落後、身を隠し苦しい生活を余儀なくされた元の同志達が隠れ住んでいたはずである。私は、幸親が彼等に対し心苦しく思い、また老年になり故郷が懐かしくなったこともあり、京に戻ったのではないかと推測する。
激しい源平の合戦が終わって頼朝の鎌倉政権ができると、人々は新しい生活と仕事を求め東国へ東国へと流れていった。覚明も何時の頃からか箱根山権現で、南都興福寺の学僧信救に戻って、その類い希な声で数々の重要な法要の導師を務め、多くの願文も残している。
ある日、頼朝の臨席する法要の席で「あの男は木曽義仲の祐筆で、且つ作戦参謀だった人物です」と注進した者がいた。この時、頼朝からは「箱根山から一歩も出てはならぬ」との禁足令が出た。ところが、覚明はその日のうちに逃げたのである。
鎌倉から京へ逃げて慈円のもとで世話になっていた彼は、同じく京へ戻った父の信濃の前司幸親と共同で平家物語を書いたのであろう。政権が鎌倉に移り、火の消えたようにさびれた京には、多くの寺と仕事のない僧達が取り残された。かつて比叡山延暦寺の座主を務め、宗教界の指導者であった慈円(慈鎮和尚)はこの状態を憂い、戦禍の犠牲者を弔う怨霊鎮撫と、僧や知識人達を救済する目的で青蓮院に大懺法院を設立したという。
覚明が京へ戻って10年後、平家物語もすでに完成していただろう。ここで覚明は僧達に平家物語を教え、全国を巡り語らせたのである。法然や親鸞も独自の活動をし、この頃宗教はそれまでの朝廷や貴族から庶民の為のものへと始動し始めたのである。
曽我物語の作者も覚明
語り本系の平家物語の叙情的表現の流麗さに比べると、読み本系の中でも特に四部合戦状本平家物語は叙事的で素朴で、覚明の文体との同一性を感じさせる特徴や文章のくせが見られる。
覚明は、寺に奉納する願文の大家である。平家物語にも、義仲入京の際、比叡山に宛てた山門牒状を始め、彼の書いた願文や牒状が多数収録されている。それらが違和感なく地の文にとけ込んでいるのは作者が同じ人物だからだと思われる。
平家物語の中に、これらの作品が多く収録されていることと、覚明が義仲の祐筆として北陸戦に従軍していた事実から、これまでにも、彼が平家物語の作者ではないか指摘する人はいた。しかしそれは単なる可能性として語られるに過ぎず、論理的に証明されることはなかった。
私はここで、平家物語の作者が覚明であることを補強する事例として曽我物語を取り上げてみたい。覚明は平家物語作者であるばかりか、曽我物語も彼の作品ではないかと考えられる
平家物語と曽我物語に同文箇所が何カ所かみられるが、その他にも冒頭の形式や表記法、文章の癖に共通点を指摘できる。
しかも、曽我兄弟の仇討ち(1191年)の数年前から、覚明は箱根に居住していたのである。そこへ稚児としてやって来た兄弟の弟、十郎とは仇討ちの直前までの数年間を別当坊で同宿していた。覚明は兄弟の苦しみ、実父を亡くし、祖父が頼朝に敵対したため阻害され、発展する鎌倉で取り残される孤独や寂しさを自分の境遇に重ね合わせて同情をおぼえたかもしれない。こうした事実は覚明が曽我物語を書く動機の一つになったような気がする。
四部合戦状本平家物語と真名本曽我物語との共通点を次に箇条書きで記す。
1.同じ表記法
2.冒頭の形式が近似
曽我物語も平家物語も下記のようなタイトルが各巻毎につく。
巻第○并序 本朝報恩合戦謝徳闘諍集 (曽我物語)
巻第○并序 四部合戦状第三闘諍 (平家物語)
しかし、これら二作が覚明の作品と証明されているわけでないので、その共通性だけでは作者というには不十分である。ところが信救(覚明)作との署名のある箱根山縁記や和漢朗詠集私注もこの形式を採用していることから、『巻第○并序』は覚明の書く本の共通したスタイルとみることができる。
3.同文表現。
『そもそも、平氏と申すは桓武天皇の第五の王子一品式部卿なり。その御子高見王は無官無位にて失せたまいぬ。その御子高望王の時、始めて平朝臣の姓を賜らせ給ひつつ上總の守になり給ひしより、忽ち王氏をいでて人臣に列なる。その子は鎮守府の将軍良望、舎兄の常陸守望視朝臣失せ給ひしかば、その跡に入り替りて常陸大拯国香と改む。』(曽我物語)
と、
『其先祖を尋ぬれば、桓武天皇の第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫に、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。彼の親王の御子高見王は、無位無冠にして失せたまいぬ。其の御子高望王の時寛仁2年5月12日に始めて平の朝臣の姓を賜り、上總守に成りたまいしより以降、怱ちに皇氏をいでて人臣に列なる。其の子鎮守府将軍良望、後には常陸大丞国香と改む。』(平家物語・巻一、平家先祖の事)
とに同文表現が見られる。
4.文章の癖
特に重視したいのは、両者には共通した文章の癖が見られることである。
『次に』や『同じく』という言葉を文と文の繋ぎに連続して多用している。
例えば、曽我物語に『鎌倉殿の左の一座に御在すは和田左衛門義盛、「次」は早良十郎義連、「次」は懐島の平権守景義、・・・「次」は信濃の国の住人海野小太郎行氏、・・・「次」は長沼五郎宗政、横山太郎時兼、ただ今御前に召して・・・・・』というように『次は』という言葉が、武将の名を連記する場面で連続して22回も登場する。
しかも、この『次』と言う表現は、箱根山縁起にも多用されている。箱根山縁起自体は寺の成り立ちについて書かれたわずか3650字弱の、原稿用紙に換算すれば九枚強の短い文章であるが、各所に『次』と言う単語が現れてくる。連続して14回使われている箇所もあれば、単独で用いられている場合もあり、全体を合計すれば30カ所にも上る。箱根山縁起はその奥付に、建久2年7月25日付けで、箱根山別当行実の依頼で南都興福寺の僧信救(覚明)が書いたという本人の署名があり、彼の文体を調べる上のキーポイントにもなる。
巻四の『源氏揃』には『同じく』という言葉が15カ所登場する。同族を続けて述べる場合に使われている。この『次に』や『同じく』を多用した文章は決して洗練されたものとは言い難い。一般に連続して使用する場合には、少し変化を加えるものであるが(覚一本では変化させている)、覚明の文章は語彙は大変豊富であるが、文章はパターン化しているのが特徴である。
5.信濃の善光寺が登場する
おわりに
覚明は波乱に満ちたその人生を象徴するかのように、生涯にわったて数度も法名を変えている。出家した当時は信阿、南都興福寺で盛んに文筆活動をしていた頃は信救得業、北陸各地の寺を修行中に白山騒動に参加していたと思われる頃、及び源平合戦時は大夫坊覚明、東国に赴き箱根山に居住していた頃は再び信救に戻っていた。
その後京に舞い戻り、青連院に寄宿して平家物語を書いていた頃は,浄覚と称していたが、最晩年は西仏と名乗った。最後に西仏を名乗ったのは、実父海野行親の名が西仙であったため、父を身近に感じたかったのではないか思う。
過去に、信濃の前司行長と生仏の関係は何度も研究のテーマに取り上げられたようだが、その接点は全く見いだせないままであった。しかし、海野幸親と覚明が親子であるのは注目に値するだろう。作品に取り上げられている一族知人が多いことは先にも述べたが、平家物語が親子の合作だとすれば、藤原俊成の従兄弟に当たる幸親は、忠度が自作の歌を勅撰集に取り上げるように頼んで巻物を屋敷に投げ入れた話を、息子の西仏(覚明)も同じく従兄弟である平判官康頼から、鹿ヶ谷の騒動の顛末や喜界が島での俊寛との別れの場面を聞いて物語に加えたに違いない。反面、合戦の一方の主役だったはずの平家の嫡子宗盛や頼朝軍の主戦力であった範頼の動向には殆ど触れていない。
平家物語の登場人物を調べてみると、その多くが覚明と共作者である海野幸親との縁者であるという大変興味のある事実に行き着くのであるが、それが母方に繋がる縁ため、一般に気づかれにくかったのだろう。
また、平家物語や曽我物語には同じ中国の故事や白氏文集からの引用が多く用いられている。覚明は白氏文集の新学府略意や和漢朗詠集私注等を著わしていて、文献に対する深い知識の持ち主でもあった。
これまで平家物語の作者像については、次ぎのような推理がされてきた。
しかし、結局は、その全てを網羅できる人物など居るはずがない、と振り出しに戻るのである。ところがこの条件を覚明に当てはめてみると、彼は僧でありながら義仲の北陸戦にも参加している。和漢朗詠集私注の他多くの著作があり、当代一の学者である。貴族出身で貴族社会にも通じて、当時貴族化していた平家(特に小松家)とも縁戚関係がある。
覚明は、改めて平家物語の作者として名乗りをあげなくとも、物語にさり気なく登場したり、自らの作品を平家物語に取り込むことで彼なりの署名をしたつもりなのであろう。ただ、それから800年以上経つのに、後世の人がそれに気づいてくれなかったことに少々苛立ちを感じているのではないだろうか。
(2005年11月「史学義仲」第7号)
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親子で書いた平家物語
滋賀県大津市
西川 早苗