要  約
 平家が全盛を迎える頃、平家内部に嫡家を巡る対立が生じた。清盛の長男重盛が病死したことで嫡家は小松家(重盛の一族)から腹違いの二男宗盛に移ったが、平家作者はこれを認めず、物語の中では最後まで小松家が嫡家であると主張し続け、小松家に対して好意的、同情的である。小松家に関する記事も、配慮して歪曲、隠蔽、或いは婉曲表現がなされて判りにくいところがあるが、その裏に隠された真実の解明を試みた。

 「殿下乗合」では、清盛が遺恨により摂政の登庁を妨害したと書かれているが、実は、嫡家を奪われることを危惧した重盛が、高倉帝の元服とそれに続く徳子入内を阻止するために行ったことである。また「熊野詣」は、死期の近い重盛が紀州の湯浅氏を訪ねて子供たちの将来を頼んだのであり、「金渡し」は中国の医王山ではなく薩摩沖の硫黄島に資金を運んだのが真実であるとする。実際、屋島の戦いで長男惟盛らは戦線から離れ、先ず湯浅を目指した。二男資盛と他の小松家一族は壇ノ浦戦の前に本隊から離脱して船で硫黄島に向かい、その後一族またはその子孫たちは南西諸島の各地に移り住んだ。


 




  平家物語が語らなかった
             歴史の真実

 


             滋賀県大津市   
                         西川早苗

 
  平清盛の長男重盛とその一族は、京の小松谷というところに屋敷を構えていたので、小松家と呼ばれている。重盛は教養があり冷静な判断力の持ち主であることは、平家物語だけでなく貴族の日記(愚管抄等)でも確認できる。武士の頭領としても大変有能で、平家の草創期には父の片腕として清盛を助けてきた。

 平清盛はそのイメージとは違って、実は武士としては余り活躍していない。海賊を退治した父の忠盛が、自分の手柄を譲って息子清盛を盛り立て、その父が亡くなった後は軍事面を長男の重盛に頼っていたようだ。重盛は貴族的な立ち居振る舞いや、冷静な判断力を持ち合わせ、政治面では朝廷との折衝にあたり、また軍事面でも武士の頭領として采配をふるい、平家の興隆に大きく寄与している。清盛にとってはいわば頼れる自慢の息子で、それまでは父と子の関係は大変よかったのである。

 

平家の滅びを招いた派閥争い

 ところが、ある時点から清盛は平家の嫡家を二男の宗盛に譲ろうと考え始めたようだ。しかし重盛は納得できなかった。自分が戦場もかいくぐり、朝廷対策に心を傾けて今日の平家を築き、嫡男として最適であるとの自負を持っていたからである。10才も年下の宗盛にその地位を明け渡すことは彼にとって屈辱以外の何ものでもなかったはずだ。

 もしこれが源氏だったら、同族間の武力闘争に発展した可能性もあった。甥の義平に殺された義仲の父義賢や、後には頼朝に抹殺された義経や範頼等弟達のように。

 平家とて一枚岩であったわけではない。しかし平家の頭領である清盛は、異母兄弟の教盛や頼盛、それに息子達にきめ細かい対応を心がけていたので、内部での嫡家争いは当事者以外には表沙汰にはならなかったようだ。父の清盛は長男の重盛に対して、円満に二男の宗盛に平家の嫡家を譲ってもらうことを期待し、随分気を使っている様子が随所に伺える。貴族の日記にも、清盛はアナタコナタし(愚管抄)各方面に気を遣い、また、すぐに感激するタイプでもあり、家来が例え面白くない冗談を言っても、笑ってやる好人物だと書かれている。ところが、気の毒なことに平家物語では、清盛は散々にこき下ろされて、良いイメージを持たれていない。平家作家は、小松家となんらかの関係があり、重盛の立場で父子の間に存在する不信感を代弁しているようだ。

 清盛が次男の宗盛に嫡家を継がせたいと思い始めた時期は、妻時子の異母妹である建春門院(小弁の局)が後白河法皇の寵愛をうけ、高倉天皇を生んだ頃であろう。時忠と時子兄妹はこのチャンスを逃さず、建春門院の息子を天皇の位につけることに奔走し、娘の徳子をその后として入内させる為に画策した。建春門院も、我が子が天皇になるのであれば、平家の血を受け継ぐ天皇の実現に向けてお互いに協力することに異論はなかったはずだ。

 この頃清盛は新たな野望を抱いていた。徳子に男子が生まれたならば、彼は天皇の外祖父として、かつての藤原貴族が持った摂政関白のような権力を手にすることも可能になる。しかし長男重盛の心境は複雑だったはずだ。徳子が男子を生めば、平家の嫡家は同腹の二男宗盛(母は共に時子)に移る可能性がある。長男重盛(母は高階基章の娘)の本音は何としてもそれを阻止したかったに違いない。


 系図1に示されているように、重盛の母は高階基章の娘、宗盛や徳子の母は後妻の時子である。当時、時子の兄である平時忠が強力な政治顧問として清盛を補佐していた。「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した時忠が平家の経営に絡んでくることで、重盛は疎外感を持ち、父との間の溝を深めていったであろう。

 清盛は娘の徳子に男子が誕生することを祈願し、平家の信奉する厳島神社へ船で月参りをしていた。その切なる願いが叶って男子が誕生すると、3歳になったばかりの孫を皇位につけ平家政権に向けて着々と歩み始めた。

二男宗盛を平家の嫡男にするのは、当時の妻である時子の願いであったのかもしれないが、母徳子とその息子の安徳天皇を補佐するには、やはり徳子の同母兄の宗盛が平家の頭領である方が後々の後ろ盾としても安心だと考えたのだろう。

 

清盛と重盛の間の確執

 この間、清盛と長男の重盛の間には、水面下での様々なバトルが展開していたようだ。

重盛の人間像は、一般に誤解して伝わっているようだ。彼は、父にたいして孝、君にたいして忠を尽くす、忠と孝の狭間で苦しむ人物ととらえられてきた。現代の読者には、重盛は保守的でかつ面白みのない類型的な人物と評価されているが、実際の彼は固定観念に縛られない柔軟な考えの持ち主だったのではないだろうか。その行動の裏には冷静で綿密な計画性が伺える。また、清盛との間に入って多くの人のため労をとり、任官した下級貴族にも、祝いの品を届ける細やかな気配りの持ち主だった。

 良好だった父と息子の関係にヒビが入り始め、疎外感を感じていた重盛の苦悩は察するに余りあるが、当初は人の良い清盛のほうが、むしろ苦しんだのかもしれない。何とか修復し、円満に宗盛に嫡子を譲ってもらおうと試みた形跡が伺える。しかし根本的な解決には繋がらず、ついに鹿ケ谷事件で重盛の義兄(妻の兄)成親が清盛の命で殺されるに至り、両者の信頼関係は崩壊し、いつしか他人以上の慇懃無礼なやり取りが繰り返されるようになったようだ。

 熊野詣から帰った重盛の体調が思わしくなく、日に日に弱っていくのを聞いた父の清盛は小松邸へ使者を寄こした。この件を平家物語は次のように伝えている。

  「労わり、日に随いて大事成るを承るに、祈請もなく療治も為られずと云々。・・・
  折節、大国よりめでたき医師渡りて、筑紫の今津に付きたる由をば奉れば、急ぎ召して    療治候ふべし。又、緒寺・緒社にて祈請有るべし」(巻三医師問答)。

 父の使者と聞いた重盛は、烏帽子・直衣に着替えて対面し伝言を聞いた。彼は、「保元平治の乱においても矢にあたらず、剣にもかからなかった。命の終わろうとしている時、療治や灸治に頼ろうとは思わない。さらに外国の医師の治療を受ける意思はない」ことを使者に伝えたのだった。すでに重盛は、清盛の勧める医者の治療を受けても最早回復の見込みはないと判断し、反って情報が漏れることを警戒したかもしれない。

 清盛はこの時期突然、福原から都へやって来た。「すわ戦争か」と都の人々は慌てたが、三男知盛の病気の報にわざわざ福原から駆け付けたとわかって人々は胸を撫で下ろしている。しかし、重盛を直接見舞ったとの記述は見当たらない。むしろ後白河法皇が重盛を見舞いに小松谷を訪ねている。彼は血を吐いて食べ物を受け付けず段々弱っていったと書かれているので胃の病気か、当時死因の半数近くを占めていたという結核か、いずれにしても、死に至るまでにかなりの療養期間があったようだ。

 3月に出かけた熊野詣でから戻って7月に重盛は亡くなった。平家物語は、重盛の死を我が事のように嘆いている。ところが四部合戦状本平家物語(巻三)には、他の平家物語とニュアンスの異なる記述がある。重盛が亡くなって周囲の者達は嘆き悲しみ、動揺していたが、父の清盛はそれを戒めなだめ、平気な態度だったと、次のように書かれている。

 「凡そ此の大臣失せぬるは、平家の運付きぬるにも非ず・・・一門の衰えとぞ見えける。入道(清盛)邪見たまふ事をも、戒めなだめられしかば穏便にてこそ過ごしつるに「こは如何にすべき」と貴賎上下、是の事を歎くより外は他事無かりけり」(巻三重盛死去)

 延慶本や覚一本のように、清盛が大いに嘆き悲しんだと記しているのとの違いが明らかだ。清盛とて息子の死は悲しかったけれど、円満に二男宗盛が嫡男となったことで家督争いも回避でき、内心ホッとしていたのかもしれない。宗盛の関係者が「世は只今大将(宗盛)殿へまいりなんず」と、嫡家が移動したことを喜ぶ様は、どの平家物語にも共通に書かれている。

 重盛亡き後に小松家に残されたのは、まだ若い長男維盛以下数人の息子達だった。本来、嫡子は家を継ぐ大事な存在なので、普通は戦闘の最前線には出さないが、その後小松家の長男維盛や次男資盛は、富士川の戦い、義仲との北陸戦等、大きな戦いの大将として最前線に出向かされている。偉大な盾を失って、小松家の若い公達を取り巻く状況も変化していたのである。

 平家物語で一番悪口を書かれているのは清盛で、そして最高に賞賛されているのが間違いなく長男の重盛である。重盛が早世し、その後二男宗盛が嫡家を継いだにもかかわらず、相変わらず『嫡子重盛』『平家正当の嫡家小松家』『嫡嫡』、あるいは『嫡孫の維盛』『五代』、そのまた息子を『六代』と繰り返し述べ、平家作者は小松家が平家の嫡家であることを最後まで譲ろうとしない。宗盛やその子供達にはそのような表現は用いられていない。あまりのこだわりの為、小松家と平家作者との間に何らかの関係があるのではないかと指摘する学者も多い。


                系図2   平家小松家−藤原氏−兼遠・覚明の繋がり

 
小松家と藤原氏の利害が一致  

 先にも述べたが、高倉天皇やその子安徳天皇の誕生で新たな野望を抱いた清盛は、徳子と同母兄の二男の宗盛を平家の嫡子に登用する方針転換を画策していた。重盛は納得せず、両者は相容れぬまま表面上は何事もないかの如く推移していた。しかし、水面下では微妙な提携が進んでいたようだ。

 嫡家としての生き残りをかけた小松家は、以仁王を担ぎ出そうとしている閑院流藤原氏や楊梅流藤原氏との連携を模索していたと思われる。その一族である中原兼遠の元で養育されている義仲との提携も考慮に入れ、将来は平家の小松家と源氏の義仲で都を守るという構図を描いていたのではないだろうか。そう考えると、義仲の長男義高と小松家の姫君との縁談も真実味がでてくる。

 閑院流藤原氏は以仁王の母方の一族で、兼遠の母方である楊梅(ヤマモモ)流藤原氏はその長男の北陸の宮の母方である。女性を軸に描いた系図2によって、その繋がりを知ることができる。義仲が都から平家の主流派宗盛及び安徳帝を追い出してくれたならば、残った平家の小松家と義仲に支えられて北陸の宮の擁立が実現するという三者の利害が一致するわけである。 

 

重盛が摂政の登庁を妨害(殿下の乗合い)

 平家物語は物語としての脚色もみられるが、概ね歴史にそって真実を書いていると思う。しかし明らかに嘘を書いている場面がある。巻一の『殿下(てんが)の乗り合い』という章である。「これぞ平家の悪行の始めなり」と記しているが、その悪行の張本人が重盛から清盛に見事に180度入れ替わっているのである。

 その事件(基房の車に行き合った小松家二男資盛が下乗の礼を欠いて咎められた)が起きたのは、史実によると1170年7月3日だった(平家物語では3カ月後の10月16日と事件の日時に近づけている)。ところがこの事件から3ヶ月以上たった10月21日以降、重盛が基房の登庁を妨害する行為を繰り返し始めた。道の途中に武士を待ち伏せさせて基房の車を転覆させたり、供の者達のもんどり(結った髪の毛)を切るなど散々に乱暴を働いたので、基房は登庁できず朝務は停滞したという(玉葉・百錬抄)。一旦収まった問題に対して百日以上もたってから妨害行為を繰り返し始めた重盛を、いつまでも恨みを持続する粘着質の性格であると分析している著名な学者もいる。

 実は、この時の摂政基房の登庁の目的は高倉天皇の元服の準備の為だったのである。重盛は摂政の登庁を妨害してまで、高倉天皇の元服を引き延ばすか、あるいは中止させねばならない程切羽詰まっていた。予定通り高倉天皇の元服が行われたならば、時を経ずして清盛の娘徳子の后入内の運びとなる。徳子に男子が誕生すれば、清盛は孫を天皇の位につけるであろう。その結果、平家の主流は確実に徳子と同母兄の宗盛に移り、小松家は嫡家を追われる窮地に立たされる。

 当時、平家と摂関家との間には清盛の娘盛子の相続問題を巡ってトラブルがあった。平家の一族として重盛は表向きにはそのことを遺恨としているという立場をとりながら、実は元服に賛同できなかったというのが真実だったのではないかと思う。

 度々の妨害で摂政が登庁できず、元服がいっこうに進まなくて困った後白河法皇が、当時福原にいた清盛に使いを出し、「重盛の妨害行為をやめさせて欲しい」と要望したとの記録も残されている。

 平家物語では、狼藉を働いた人物が重盛から清盛に入れ替わっているのはよく知られている。平家作者も当然この事実を知っていたと思う。さらに、慈円は「愚管抄」でこの時のことを、普段の重盛は「いみじく心すこやか」なのに不思議のことを一つしたと記している。つまり、慈円にしても普段の重盛の行動からは到底理解不能だったわけである。しかし切羽詰まっていた重盛は、摂政側からの謝罪を受けて一旦解決したはずの、3ヶ月前のあの事件にかこつけてでも登庁を妨害し、高倉天皇の元服を阻止したかったのだろう。

 

高倉天皇親王宣下直前の以仁王滑り込み元服

 実はこれを遡る5年前の1165年にも緊急に決断を求められる事態が起っていた。以仁王の元服である。天皇の息子は僧籍に入れば権力の座につくのを放棄することになるが、元服すれば将来皇位を望める立場となる。彼は15才になっていた。この年には、兄の二条天皇の崩御という不幸があった。さらに近々5歳の高倉天皇の親王宣下が行われようとしていた。その直前に、秘かに以仁王の元服が関係者によって行われたのである。

 父の後白河法皇は、以仁王が僧侶になることを望んでいた。以仁王の背後には閑院流藤原氏の徳大寺家が摂政関白の要職を狙っている。院政を続けたい後白河法皇にとって有力貴族は煙たい存在である。そのため以仁王を天皇になる可能性がある親王の位につけず、この年令になっても王という身分のままに据えおいていた。法皇の長男である二条天皇が若くして病死し、第二皇子の以仁王が皇位につくチャンスが巡ってきたにも関わらず、彼は、10歳も年下の高倉天皇にその地位を明け渡さねばならぬ悔しさを噛みしめていたはずである。

 以仁王の元服は高倉天皇の親王宣下の前に行う必要があり、関係者は決断を迫られていた。後白川法皇の意向に逆らって元服を行うのは、かなり危険を伴う賭けである。決行されたのは、高倉天皇の親王宣下のわずか9日前、場所は近衛河原の多子(近衛・二条の二代の天皇の后)の御所であった。

 結果として多子は出家、兄の藤原実定は24才〜37才までの働き盛りを無官で過ごし、その地位の復活に苦慮している様が平家物語に書かれている(徳大寺厳島詣)。やっと13年後に重盛が左大将になり、6ケ月でその地位を実定に譲るという複雑な過程を経て、彼は官職に返り咲いている。しかし、以仁王の伯父の公光(以仁王の母の兄)は下官し、復官を果たさないまま亡くなった。

 その他、この件で多くの以仁王関係の親族が左遷の憂き目にあったが、その事実を平家物語は憚って婉曲した表現に留めている。

 

重盛の熊野詣

 平家物語には、その意図が分かりにくい文章がいくつか見受けられるが、以下に述べる「熊野詣」と「金渡し」がその最たるものであろう。作者はいつの日か読者が真実を読み取るであろうことを期待して、あえて記したのではないだろうか。

 不治の病に侵され息子達の将来を心配しながら亡くなった重盛の遺言は「無駄死にするな、生きて時を待て」ということだったかもしれない。病で生きたくとも生きることが叶わず、子息達を守れないもどかしさを感じていた重盛は、自分の死後の小松家の将来を思って数々の手を打ったと思われる。小松家にとって盾とも頼む父の重盛の亡きあとは、まだ若い小松家の子息達は、祖父清盛や叔父達に対抗してその地位を保つことは難しく、重盛は生前にできる限りの布石を打っておこうとしたようだ。平家物語の作者はその事実を明らかに知っていて、婉曲な表現ながら伝えている。

 重盛は、2月22日の東宮(安徳天皇)の100日の儀式に最後の出仕をした後、引退して3月に息子達を伴って熊野詣でに出かけている(山槐記)。本来なら闘病生活に入り養生に専念すべきところを、病身を押しての熊野参拝は当然体力の消耗を招き死期を早めるはずだ。しかし熊野詣を決行し、「入道の栄華をみるに我が身一期限りなりとみえたり。子孫相伝して穏便なるべしとも覚えず。而れば権現、命を召して後生を助けたまえ」と祈ったと言う。

 重盛は自分の死期を早めるのを覚悟の上で、長男維盛や二男資盛を伴って熊野詣に出かけたが、信仰を名目にしてはいるが、実はこの時に同盟関係にある湯浅氏を訪ね、息子達の将来を頼んだのではないかと思えるのである。参考までにこの部分の延慶本の記述を抜粋してみる。

「去る治承二年の春の比、筑前の守貞能を召して云ヒ会ワセラレケルハ、重盛存生ノ時、吾朝ニ思ヒ出アル程ノ堂塔ヲモ立テ大善ヲモ修シ置カバヤト思ウガ、入道ノ栄華一期ノ程トミヘタリ。然レバ一門ノ栄耀尽キテ、当家滅ビナム後ハ、タダチニ?山野ノ塵トナラム事ノ、兼ネテ思ヒ遺ラレテ悲シケレバ、大国ニテ一善ヲモ修シ置キタラバ、重盛他界ノ後マデモ退転アラジト覚ユルナリ」

 また、覚一本の趣旨は殆ど上記の四部本と同じで、平家の栄華が危ういならば「重盛が運命を縮めて、来生の苦輪を助け給え」と祈ったと書かれている。

 後に屋島の戦いで戦線離脱した長男維盛と末子忠房は、30艘の船を率いて和歌山の湯浅を目指し、上陸後2人は別れ、維盛は高野近辺に隠れ住んだという。平家物語には、維盛は3人の郎党をつれ、かつての小松家の侍で高野で出家している斎藤時頼を頼ったと書かれている(巻十横笛・高野の巻・維盛出家・維盛熊野参拝・維盛入水にその後を辿ることができる)。但し、彼の那智での入水は偽装のようで、その後も生存し各地に足跡を残している。

 忠房は郎党と共に湯浅城に籠り、源平合戦で平家が滅んだ後も頼朝に反旗を掲げて戦いを挑んでいる。湯浅氏を訪ねた際に重盛は軍資金を託したのかもしれない。義理がたい湯浅氏は劣勢を覚悟で協力したのではないだろうか。

 

硫黄島に行った資盛

 平家物語巻三に「金渡し」という不思議な記述がある。
 死を予感した重盛が、明典という博多の船頭に依頼して、自分の菩提を弔う為に中国の医王山に1300両(覚一本では3千500両)もの金を運んだという。しかし私には、重盛が莫大な金を自分の弔いのために使う人物とは思えない。戦争の予兆のある時期には、死後の弔いより差し迫った戦費が必要だ。

 重盛は唐の医王山ではなく、南海の孤島、硫黄島に金を運んで隠したのではないだろうか。彼の次男である資盛の一族は、壇ノ浦の戦い前後に戦線から離れ(玉葉)、九州の海岸沿いに薩摩の国まで船で下り、その後五十キロ南の硫黄島へ辿りついたことは殆ど疑う余地がない。今も南西諸島には平良港という港や平良さんという姓も多く、資盛の子孫と伝わっている長浜家や、平安時代の京言葉が残り、南西諸島には平家関係の神社(資盛神社、行盛神社、有盛神社)や伝承が伝わっている。

 また、沖縄の女性の儀式用の装束が十二単衣によく似ていることに私は以前から注目していた。袖口が大きく開き、緋袴の上に厚く織られた着物を何枚も重ね着をする形態は、暑い地方に自然に生まれた衣服とは思い難く、平安時代の女性達の伝統衣装を今に伝えているのではないかという気がする。インターネットで調べるとこの衣装のことを沖縄の方言で「皇女さま」というのだそうである。

 硫黄島は1177年に起きた鹿ヶ谷の変で3人の流人が流された喜界島のことである。流人の一人は重盛の甥の成経であった。成経はこの島の首長の娘と結ばれ、一子をもうけたとの伝承があり、現地とは何らかの繋がりが続いていたかもしれない。その縁を頼って重盛は、この島に金を運んで、いざという時に備えたのではないかとも想像できる。

 平家物語に書かれた唐の医王山を、実は南海の孤島硫黄島であろうと解釈するのは少し想像が飛躍し過ぎているとのご批判もあろうが、全てを知っていた物語の作者は、後の人に真実を伝えるべく表現に苦慮したのではないだろうか。

 現在、硫黄島に行くには船の便も少なく大変らしいが、意外にもその当時は、貿易基地として頻繁に本土との往来があったらしい。ここで採集される硫黄が日宋貿易の重要な輸出品だったので、宋船が頻繁に買い付けに来ていたという。当時、日本ではまだ刀や弓矢による戦いが行われていたが、すでに大陸では硫黄を火薬の原料として戦いに使っていた。硫黄島に隠された金は資盛達の貿易資金として活用された可能性も大きい。重盛は奥州の気仙郡の領地に金山を所有して、金や砂金を豊富に蓄えていたらしい。ここへ金を運んでおけば、南宋からくる貿易船との取引で子孫はしばらく生き延びられると重盛は考えたのではないだろうか。

 貿易を行うには移動手段の船や、取引きのため資金が必要である。彼らが300名で南海の孤島まで移動できたのは、大型船を所有していたからで、自ら貿易に乗り出すことも可能であろう。硫黄が噴出し、草木も生えないといわれる硫黄島では、農業で生活は難しいだろう。しかし戦闘用の優秀な馬を船に乗せていたはずで、荒野にこの馬を放牧し繁殖させたのではないか。当時の硫黄島における宋との貿易品目は硫黄や馬や金であり、しかもこの島は本土と南宋貿易の中継基地にもなっていたらしい。平家は従来から貿易に力を入れていたので、貿易商人との人脈も持っていたのであろう。

 重盛が金を運んだ事情を平家物語は次のように述べている。
  「異国に後生を訪(とぶら)はるる程の事を仕置かん」と博多より明典という船頭を召して『千両をば唐の帝に奉れ。二百両をば汝に賜ぶ。百両をば伊王山の僧徒に省くべし』よって明典唐に渡りて、事の由を国王に奏聞す」(巻三・金渡し)。

 

小松家と湯浅氏及び文覚 

 この金の一部は軍資金として湯浅城にも運ばれた可能性もある。 重盛が息子達を伴って熊野詣途中の湯浅城を訪ねたのは史実であり、このとき直々に子息達の将来を依頼し、軍資金も託したのではないか思う。かつて保元の乱の折には、熊野詣に出かけて都を留守にしていた清盛と重盛は、都からの早馬で異変を知り、湯浅氏に兵を借りて都へ戻った経緯がある。

 息子の忠房が湯浅氏の助けを借りて頼朝に抵抗を試みることができたのも、湯浅氏としては重盛との約束を果たす必要があったからかもしれない。平家が壇ノ浦で滅びた後も、湯浅氏は小松家の六男忠房を匿い、頼朝に戦いを挑んだのである。

 平家物語に怪僧として登場する文覚も、その湯浅氏と関係が深い。湯浅城に籠って忠房が反旗を翻した時には、鎌倉との間でかなり複雑な動きをしている。頼朝蜂起のきっかけを作った文覚であったが、平家敗戦の後は、重盛の孫の六代を弟子にして命を守った。それは単なる同情や僧として人道上の立場だけでは説明できないものがある。一般には頼朝との強い絆があると思われている文覚であるが、実はそれ以上に平家の小松家との間に深い絆があったと思えるのである。

 彼は頼朝に蜂起を促す時に、「平家の長男重盛公は武士の頭領としてふさわしかったが、小国にそぐわない人で早世した。その弟達は皆その器ではない。あなたこそ重盛に代わりこの世を治めるのにふさわしい人だ」と述べ、やはり小松家を立てている。当時の平家と源氏の余りにも格差のある力関係をみても、義仲単独での蜂起はおぼつかなく、源氏の貴種である義朝の嫡子頼朝に働きかけ、全国の源氏の一斉蜂起を目指そうとしたのであろう。

 

新しい武士の時代

 世の中が変化する節目には、次にどのような時代がくるか予測は難しい。現在も然り。時代の移り変わった後には想像もしなかった社会が出現するかもしれない。8百年以上前にも朝廷と貴族政治が終わりを告げ、新しい支配階級が登場することを予想できても、鎌倉幕府ができ、武士の時代が来るとまでは体制側は想像していなかったのではないか。老獪な後白河法皇でさえも、利用しようと思っていた武士に主役を取って代わられたのである。

 都の貴族達の理想の社会とは、朝廷を支える貴族政治であって、平家物語の作者(貴族社会の末端に繋がる覚明)の思想とも一致する。義仲の上洛も自分を育ててくれた養父中原兼遠の恩義に応えるのが第一の目的で、小松家と共に以仁王を担ぎ出せば、家の再興を計る兼遠の一族の願いと、平家の嫡家を守りたい小松家の利害とも一致し、且つ自分も源氏再興を果たせるわけである。

 兼遠も木曽の発展は望むところではあるが、順調に仕事は伸びていたはずで、あえて息子達の命を賭けてまで義仲の源氏再興に協力する必要はなかったと思う。かつて彼は貴族社会で生きることに見切りをつけ、自分の意思で木曽に来た。木曽は武蔵、甲斐と都の中間に位置し、美濃、三河や越後、出羽を結ぶ交通の要にある。信濃の国府に権の守として赴任した際に知った、この地の重要性に着目して、再度木曽にやって来たのである。しかし、都を離れた彼とて、自分に流れている貴族の血を忘れたわけではなく、一族が再び陽の当たる場に出ることを望んでいたに違いない。

 

平家と義仲との和睦交渉

 義仲が都の経営に苦慮していた頃に平家と和睦交渉が行われた。
12月2日の玉葉によると、「義仲使いを差して平氏の許に送り和議を乞うと云々。・・・』

  この交渉は成立に向けて微妙な段階までいったようだ。平家との和睦交渉はいかにも唐突で、行き詰った義仲側から持ちかけられた野合の印象が持たれているが、これまでの小松家との係わりを通して接触が持たれたのではないだろうか。

 和睦の申し出に宗盛は喜んだが、この頃には平家は勢力を盛り返していた事情もあり、知盛が「今更」と反対し、交渉は成立しなかったという。まだ若い維盛、資盛達には、その案を叔父達に受け入れさせる力がなかったであろう。この交渉が決裂して(12月5日・玉葉)以降、小松家の息子達は紀伊へ、硫黄島へと次々と戦線を離脱して行った。

 この和睦交渉のおこなわれていた頃、平家物語から覚明の名が突然消える。義仲が都の対策に苦慮していたこの時期に、義仲陣における唯一の参謀とも言える覚明の名が消えたのは、彼が義仲に見切りをつけたからだろうと言われてきた。実はこの時、覚明は向島に出向いて平家の本隊との和睦交渉に当っていたのではないだろうか。彼こそこの交渉を行える最適任者である。

 目的は不明だが、覚明が義仲の息子義重と三十六家臣を伴い向島に出向いたとの伝承が残っている。周囲を海に囲まれ、一カ所陸地と行き来できる接点を持っているこの島は、攻めにくく守りやすい最良の地形である。今も広島の向島に覚明神社があり、近辺には木曽姓を名乗る住民も多いという。義重はその後、信濃の沼田に隠れ住み、覚明は東国に移動したが、家臣たちは向島に留まり定住したようだ。

 この時どうして覚明は多くの家臣を伴ったのか。また、なぜそこに義仲の息子義基が加わっていたのか、との疑問が発生してくる。落人として隠れ住むなら平家の根拠地の西国ではなく、信濃や北陸に向かうのが順当なはずである。この時,義仲の子息を伴ったのは同盟のための人質であり、御曹司を伴い戦いの渦中に乗り込むには武装した護衛が必要なので36家臣を伴ったのではないだろうか。かつて義仲の長男義高を鎌倉に送った時も多くの家臣を伴わせた。

 しかし、和睦交渉は決裂し、その後義重は信濃の縁者に扶養され、覚明は数年後、鎌倉に政権が移った後に箱根山に住み(1190〜1195年)、頼朝の重要な法要に導師として再び登場する。彼は箱根の山から鎌倉の町にうごめく人々の様子を眺めていたのか、自らの有り余る才能を政権内で生かすチャンスを狙っていたのか、知る由もないが、『生仏は東国の者で、戦のことは武士から聞いて、行長に教えて書かせた』との徒然草の記述に従えば、彼が箱根山に居住していた時に義経と平家の戦いの様子を武士達から聞く機会があり、平家物語に書き加えたのであろう。

 

小松家の嫡子維盛のその後            

 長男維盛は、『屋島の戦いの最中に本隊から離れ、三十艘の船を率いて南海を目指して落ちていった』と玉葉に記されている。維盛と弟の忠房(重盛の六男)は上陸後、別れて別々の道を進んだらしい。

 維盛は熊野に参拝し、高野を巡った後、那智の沖で入水自殺したとされているが、源平盛衰記にも生き延びたと書かれているので、当時から入水自殺に疑問が持たれていたようである。三重県側で塩の生産に携わったとか、龍神村に住んだ、藤綱に匿われた等、和歌山、三重、奈良に伝説や伝承が残るらしい。  

 維盛はまず高野に斎藤時頼を訪ねている。斎藤時頼は元小松家の家臣で、横笛という雑仕女と恋に落ち、父の反対にあって出家し、高野で修行をしていた。維盛とは年も近く、以前から主従の枠を超えて強い信頼関係で結ばれていたのではないだろうか。

 維盛は都を退く時、斎藤五と斎藤六という二人の兄弟に、都に残していく妻と子供の後事を託している。この兄弟は、これまでの説では斎藤実盛の息子と信じられてきた。平家諸本もすべてこのように記述しているが、以前から私はこの説に違和感を持っていた。

 斎藤実盛は義仲を助けた武人で、情と義理に厚い人物として親しまれてきたが、もともと北陸の出身でその後武蔵の国長井に住み、小松家や平家重代の家臣ではない。その時々の状況で源氏や平家に与し、源平合戦時にはたまたま平家の二男宗盛に属していたので、平家側の武将として戦った。皮肉にもかつて助けた義仲と篠原で戦うが、身分を明かして助けを求めるのを潔しとせず、兵が逃げたにも関わらずたった一人残って討たれた。

平家物語は、斎藤実盛に親しみを感じるあまり、維盛が妻子を託した同じ斎藤姓を名乗る兄弟がその息子達だと筆を滑らせ、その誤りを踏襲したしていった可能性がある。ところが古態に近いと考えている四部合戦状平家物語には、斎藤五と六については詳しく書かれているものの、彼らと実盛の関係には全く触れていない。

「斎藤五・斎藤六とて近くに召し仕ふる侍有り。・・・身を放たじと思へども、少き者共を留め置くがおぼつかさ(不審)に、二人は杖柱とも成れとて留めたまえば・・・」と西国に兵として伴わず、彼らに留守家族を託したのである。兄弟は共に闘うことを望んだが、維盛は「多くの者共の中に、思う様ありてこそかくも云ふに、何どか口惜しく・・・」と答えている。

 その後、平家物語はどんどん枝別れして変化していくが、どの諸本にも『斎藤五と六は実盛の息子』というこの部分が省かれることはなかったので、彼らは実盛の息子と信じられてきた。しかしながら、系図上に該当する適当な人物がいないので、他の斎藤家から迎えた養子ではなかろうかとも言われている。

 私は、小松家の六代に仕えた斎藤兄弟は、実盛の息子ではなく斎藤時頼(三条の斎藤以頼の二男)の弟ではないかと思う。彼には五男と六男に該当する弟がいる。

 平家が都から逃げる時、一緒に行って戦いたいと懇願する兄弟に維盛は、「思う事がある故にお前達を都に残すのである」と述べている。『思う事』とは何を意味するのだろう。兄弟に息子六代を託すのは、自分が将来高野に籠った場合に身内である兄の時頼を介して連絡をとることが可能と考えたのではないだろうか。秘密裏に行動するためにはできるだけ関係者は少ないほうが好ましい上、身内であるほうが好都合である。偽装入水が漏れる心配も少ないはずだ。維盛は都を離れる際に、最悪の場合は平家の本隊から離脱して高野に落ちのび、斎藤時頼を頼ることも想定の範囲内だったような気がする。

 父の重盛は子息達に生きのびるように遺言を残して亡くなったのだろう。彼の息子達は、それぞれの方法と場所で平家が滅びた後も生存している。二男資盛と行盛、有盛は硫黄島へ、柳浦で入水自殺したと言われている清経は、緒方維義の娘婿となって落人として山奥でひっそりと住み、今も緒方家の立派な屋敷が残っている。彼ら一族は、現在までそれぞれ命を繋いで父の意思を守った。残念ながら、再び平家の世が巡ってくることはなかったが・・・。

平家物語は概ね真実を述べているが、言論の自由がなかった時代でもあり、表現方法はそれなりに工夫されている。それを読み取り、謎を解くことはミステリー小説より数倍も面白い。
 平家物語とその内容に付随する貴族の日記を参照すると、源平合戦は、以仁王を取り巻く閑院流藤原氏と北陸の宮に期待する楊梅流藤原氏、それに安徳帝の実現によって嫡家を追われる平家の小松家によって周到に準備された戦いではなかったかと考える。その背景に、院政と摂関政治の確執、それに平家の派閥争いが隠されていた可能性も考えられる。歴史のロマンの影には、それぞれの人間の欲望の集積が地殻変動のように噴出し、一気に世の中を変えるのかもしれない。                               

                           (2010年3月「史学義仲」第11号収載)

 

 参考文献
   訓読四部合戦状平家物語         高山利弘編著       有精堂出版
   平家物語全注釈            冨倉徳次郎著       角川書店
   平家物語必携             梶原正昭編        学燈社
   平家物語 新潮日本古典集成       水原一校注        新潮社          
     系図纂要
     寛永緒家系図
     姓氏家系辞書               大田亮書
     平家物語の虚構と真実           上横手雅敬著       塙書房
     平家物語 史と説話            五味文彦著        平凡社
     平家物語 日本文学研究資料叢書      日本文学研究資料刊行会編 有精堂出版
     平家物語 語りのテクスト         兵藤裕己著        筑摩書房
     平家物語 説話と語り           水原一編         有精堂出版
     平家物語 研究と批評           山下宏明編        有精堂出版
     平家物語 受容と変容           山下宏明編        有精堂出版
     兼遠と義仲                小林清三郎        銀河書房
     あぁ北山王国 南走平家の裔たち      親川光繁         金秀本社
     平家の秘蝶・維盛             濱光治          宮井平安堂

 
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