巴御前の足跡を訪ねて

               西川早苗

 

私はこの福光の町にお邪魔するのは今回で4回目ですが、何故かこの町が好きなのです。いつ来ても人の暖かさと雪にも耐える街並みの重厚さを感じます。初めて伺ったのは2004年だったので、丁度10年前だったと思います。

覚えていらっしゃるでしょうか?その年は全国各地でクマが市街地に現れ話題になった年でした。テレビのニュースで、女性のアナウンサーが福光の住宅街を中継していました。「最近福光の町に度々クマが現れます」と話しながら歩いていた時です。「あっ、あそこにいました」と指さす先を見ると、立派なお屋敷から覗いた庭木に一頭のクマが、まるでコアラのようにしがみついているのです。彼女も慌てる素振りはありません。クマもカメラ目線でこちらを見ています。その後も度々町へ現れたようです。どうやらクマさんもこの町が好きだったようです。

  2回目に伺ったのは義仲・巴の会全国大会でした。この時は母を誘って来ました。当時母は名古屋に住んでいたので、大津から行く私と米原駅で落ち合い、北陸線に乗り換えてやって来ました。親子2人だけで旅行したのはそれが最初で最後なので、大変良い思い出です。

今も母は存命で、私と同居していますが、足腰が弱って家の中でも支えて歩いている状態で、とても旅行には行けません。

 母は、巴御前が亡くなった91歳と同じ年です。その年でもまだお元気な方もいらっしゃいますが、90前後となると本人も周りも大変です。私は実の娘なので、頑張って世話をしていますが、巴御前と福光太郎はどういう間柄だったのでしょう。

  巴御前は当時としては大変な長寿ですね。当時の平均年齢は何歳くらいだったのでしょうね。この当時の数代の天皇の平均寿命は23,4歳になるそうです。20代と言えば人間の気力も体力も一番盛りの世代なのにどうしてでしょうか。安徳天皇のように入水した例もありますが、原因は病死とされているのが殆どです。

ちなみに同時代の皇后の平均寿命はどのくらいだと思われますか?

 50代だそうです。いくら女性のほうが長生きだといっても違い過ぎます。権力の座にいるというのは、命がけだったのかもしれません。

  巴は、合戦から28年も経過してから福光太郎の許に、再び頼って来ています。福光太郎とはどのような間柄だったのでしょう。

北陸転戦中に共に戦った戦友ですから、特別親しくなかったとしても、粟津ガ原から頼って行ったのはわかります。しかし和田合戦の時は、その時からすでに30年近く時間が経過しているのです。もうその本人が生きているとは限りませんね。太郎というので福光家の長男だと思いますが、すでに息子の代に代わっていた可能性もあります。それでも福光家を頼ったのは、福光家と巴の間に単なる知り合い以上の強い繋がりがあったのではないかと思えるのです。

  巴の出自は? 

本日の講演は、「巴御前の足跡を訪ねて」という題をつけました。

巴は28歳まで、中原兼遠の娘として木曽で育ったわけですが、彼女は北陸の出身で、木曽の兼遠の実の娘ではなかったとの説も存在します。吾妻鏡に石黒氏は巴の従兄だったと具体的に書かれていますが、これは巴の出身地を探るヒントになると思います。
 
図1の中原家系図をご覧下さい。

兼遠の息子達は父の一字を取って兼好、兼光、兼平と兼のつく名前になっています。娘達は奥さんの千鶴御前の千の字がつきます。長女の千歳、次女千里、なのに、なぜか三女だけは巴という名です。

もし彼女が物心つく前に木曽に来たとしたら、あるいは千の字のつく名前で呼ばれたかもしれません。そこで兼遠の実の娘として育ったならば、もっと甘えた人生を送っていたように思います。

彼女は自分の役目を認識できる年ごろになってから木曽に養女に行ったような気がします。そこで努力して目を見張る働きをしたわけです。

 兼遠が義仲を養育したのは2歳からでした。まだ海の物とも山の物ともわからない時期で、将来立派な武将に育つかは未知数だったはずです。多分、数年間は様子見の時期だったとおもいます。この子は使えるとある程度確信がもてる頃になってから、北陸や都との連携をはかり、行動に移し始めたと思います。

 巴は大津の粟津ガ原の合戦に敗れた後、石黒氏を頼って北陸に落ちて来た後、頼朝の呼び出しに応じて鎌倉へ向かっています。源平盛衰記や吾妻鏡に従うと、鎌倉へ行った巴は、その後鎌倉幕府の侍所別当の和田義盛の妻になり、朝比奈三郎義秀を生んだことになっています。

時は流れ、鎌倉に幕府が出来て20年後には頼朝も亡くなりました。それ以後、豪族同士の勢力争いが起こって、謀略で和田一族も滅びます。源平合戦で義仲が滅びてから28年後の建保元年(1213年)のことです。

  和田一族が滅びた時、巴は朝夷郡、今の横浜(安房郡の説も)から逃れて、再び石黒氏を頼って北陸にやって来たと記されています。激動の人生を送った巴ですが、この福光の地は母のふところそのもので、楽しく暮らした幼児期の思い出と共に、幸せな余生をここで送ったのだろうと思うのです。

宮崎氏、石黒氏、福光氏は同族であるとのことですが、この地方のことは地元の皆さまの方が詳しい情報をお持ちではないかと思います。

  兼遠の長男は?

中原兼遠の系図には長男の欄が空白になっています。名も書かれていなくて、ただ空白のままです。このことを以前から不思議に思っていました。早くに亡くなったからだとの説もありますが、最近新潟の柏崎にお住まいの井上さんという方が、「自分の先祖は兼遠の長男にあたり、名を中原兼貞といい、始め妙高に住んだ」とお書きになっていたのを読ませて頂きました。当時は妙高に国府があったそうです。

 兼遠の長男が新潟にいて、巴がもし北陸の生まれとすれば、兼遠は巴を養女にして、自分の長男を北陸の宮崎氏、あるいはその一族である石黒氏か福光氏に養子に出したのではないかとの推測も成り立たないでしょうか?

一族郎党の存続を賭けた提携ですから、単に証文や口約束ではなく、お互いの子供を預かったり、結婚によって確固な同盟関係を結んだかもしれません。これは全く私の想像の世界ですので、地元にはもっと的確な伝承が存在するのかもしれません。

  それでは、何故巴は遠い木曽まで養女にいかなくてはならなかったのかとの疑問が生まれます。それには兼遠は何者かを知る必要があります。

中原兼遠は平家物語には信濃の権の守と紹介されています。平家物語は官職は比較的正確に記されていると言われてきました。私も、彼は信濃の権の守だったと思います。しかし、複数の学者が都の記録を熱心に調べたにもかかわらず、兼遠の名では信濃の権の守だった人物は見つからないのです。

 実は兼遠が権の守を務めていたと思われる康治元年から2年にかけて信濃権の守だった中原頼季という人物がいます。 

中原頼季の父親は頼成と言い、母親は楊梅流藤原貴族の娘です。息子の康頼は鹿ケ谷の変で僧俊寛らと共に喜界が島に流されたことで知られています。頼季は都の貴族で、167の頃松本の国府で権の守をつとめた後、一旦都へ帰っています。都で結婚して生まれた息子が康頼です。数年後、母子を都へ残して、信濃の木曽に来て交易商人や運送業に転身し、名を兼遠に変えたのではないかと私は考えています。つまり、の系図中に記したように、兼遠と頼季は同一人物と考えられます。

 木曽は都と東国の中間に当り、北陸へも繋がる道の要にあたります。木曽で名前を変えたため、都の記録から信濃権の守中原兼遠の名は見つかりません。亡くなったのか、とも考えられますが、三十年余り経ってから、息子の康頼が父の死をいたむ歌を詠んでいます。時期は兼遠が亡くなった木曽の林昌寺に残る記録と一致します。

 若くして貴族の身分を捨て、木曽で30数年交易商人として暮らしたのです。塩や木曽の木材が重要な交易品だったと思います。また、信濃には良馬を産する牧があったので、馬の取引等で富を築いたのではないかと考えています。
 交易商人に転身した兼遠は宮崎氏とも塩の取引等で親しい関係にあったと思われます。 

 当時の貴族はかなり就職難だったようです。任官が発表される時期に貴族達が一喜一憂している姿が、貴族の日記に書かれています。兼遠は、一族の政治的な敗北により更に任官の可能性が低くなり、当てにならない官吏の口を待っているよりは、自分で運命を切り開いていこうと思ったのでしょう。

  しかし、木曽に来てからも都に残る一族のことを忘れていなかったようです。義仲を養育し、源氏を味方につけて以仁王の力になろうとしたのですが、彼が平家によって殺された後は、その長男の北陸の宮に望みを託したと思われます。
      
  実は、楊梅流藤原氏の女性が以仁王の妻でした。長男の北陸の宮の母です。当時は天皇の子供も母方で育てられました。もし北陸の宮が皇位につけば母方の祖父は摂政となります。



  兼遠の母は楊梅流藤原氏の出身であることは、多くの状況証拠からほぼ間違いないと思いますが、記録による証明は困難です。当時の系図は、余程の重要人物でない限り女性の名が登場するのはまれです。系図にも、一般には女性は誰々の娘とか誰々の母と書かれるので名前も伝わりにくく、特定がむつかしいわけです。

楊梅流藤原氏は都の楊梅通りに住んでいて、管弦、つまり音楽を伝える一族でした。貴族にはそれぞれ家に受け継ぐ仕事があり、代々継承されてきました。

楊梅流藤原氏は政治面ではさほど有力な貴族ではないが、一族の女性達はそれぞれ有能だったようです。詩歌の家に嫁いだ藤原俊成の母(系図では省かれている)や、摂関家につぐ有力貴族である閑院流藤原氏に嫁いだ豪子(たけこ)という人物もいます。

豪子は、平家物語に度々登場する大納言左大将藤原実定やその妹で二代の天皇の后となった多子の母です。閑院流藤原氏は徳大寺家ともよばれ、歌人の西行が仕えた家でもあります。彼女の場合、有力者なので名前が伝わっています。

 閑院流藤原氏は政治の中心にいましたので、一族から天皇を出し、その母方として摂政となり権力を掌握することを強く願っていたのです。この一族から皇后にあがった人物が数人いたのですが、期待に反していずれも子供が生まれなくて焦っていました。多子は近衛・二条の二代の天皇の后になりましたが、夫は共に20代前後で亡くなっています。

 そこで、仕方なく親族にあたる以仁王を担ぎ出すことを考えました。ところが、父の後白河法皇は以仁王を皇位につけるのに反対でした。後ろ盾になっている閑院流藤原氏が摂政として権力を握ることを恐れていたからです。院政を続けて、法皇として権力を保持し続けたい後白河法皇にとって、天皇は4,5歳の幼児のほうが都合よく、且つ母方も有力貴族でないほうが都合良かったのです。

 このような状況のなかで、貴族としての将来に期待が持てないと判断して交易商人に転身した中原兼遠でしたが、都で苦悩している一族のために、何らかの応援をしたいと考え、義仲を養育して、着々と協力体制を固めていたのです。

新潟から長野へ塩の道が今も残っているようです。塩の取引で親しかった宮崎氏に、一族の北陸の宮を匿う為の役割を引き受けてもらった可能性もあると思われます。

北陸の豪族が義仲に協力したのは、単に時の勝ち馬に乗るように状況をみて加わったのではなく、荘園領主だった藤原氏やその一族の働きかけなどの、長い水面下での準備や繋がりの結果だったと思われます。

 それでは北陸の豪族は、義仲に与することで何を望んでいたのでしょうか。一族の命運がかかっている重大な問題でもあり、単に好意で北陸の宮を匿ったとは思えません。

   義仲は、都入りまでは成功したが、北陸の宮を天皇に擁立することはもう少しのところで挫折したわけです。安徳天皇が西国に平家と共に去った2週間後に早くも次の天皇が選ばれようとしていました。義仲が慌てて以仁王の遺志を継ぐ長男の北陸の宮こそ次の天皇にふさわしいと申し入れるのですが、占いや何かでごまかされて、高倉天皇の4男で4歳の後鳥羽天皇にきまりました。後白河法皇のあまりにも迅速な行動に手順が狂ったかもしれません。

 北陸の宮はその時まだ宮崎にいました。その後都へ迎えられ、法皇御所で住むことになったのですが、後白河法皇の人質として同宿させられていたのだと思います。しかし義仲の法住寺合戦の前夜、抜け出すことに成功しました。宮崎氏が手助けしたともいわれています。最期まで見捨てない北陸人の暖かさだと思うのです。

 北陸の豪族達の目指す夢は何だったのか、今になってはわかりませんが、北陸遷都も考えていたかもしれません。

北陸には良港も多く、海の幸も豊富です。地理的にも大陸との交易に有利です。当時蝦夷から南の硫黄島、さらには大陸の宋まで活動範囲を広げていた商人もいたようですから、遷都が成功していれば、北陸は貿易拠点として大いに発展していたかもしれません。

 北陸に領地を持つ小松家の平重盛は、越前から琵琶湖までの運河を掘ることも考えていたといいます。北陸から京まで物資を運びたいと考えていたのかもしれません。船は、大きな利益が見込める大量運搬の手段でした。

 京の都は盆地で、周囲を山で守られていて攻めにくいが、貿易には不利でした。平清盛が京都から福原へ都を移そうとしていたのは貿易振興が目的だったと思います。それまでは、大陸から宋船で運んできた荷を博多で一旦降ろし、小型の船に積み替えて瀬戸内海の水軍や豪族が都の近くまで運んでいました。

  清盛は福原に都を移し、神戸に大型船が着岸できる港を築いて、直接貿易で利益の独占を図ろうとしたわけですが、それに瀬戸内海の豪族達が反対し、離反していきました。彼等の仕事を奪うことになるからです。平家は西国に逃げて行った時、瀬戸内海や九州の豪族は味方にならずにそっぽを向いたのです。それが平家の敗れる一因ともなりました。

 義仲が都へ入ったのは、7月の末でしたが、半年後には攻めて来た鎌倉方との戦闘が粟津ガ原で行われました。121日のことです。

短い冬の日が暮れようとしている中で義仲が討たれ、日暮れとともに戦闘は終りました。両陣営はそこで夜の明けるのを待ちました。鎌倉の範頼軍は夜明けとともに、薄氷を踏みつつ都へ向ったと粟津拾遺集という書物に書かれています。巴たち木曽の残兵も裏の山に隠れて眠れぬ夜を明かしました。

粟津ガ原は琵琶湖沿いの現在の粟津の浜ではなく、12キロ山手のかつての東山道(東海道より山手)沿いの場所であったと推測されます。

殆どの研究者は唐橋の袂の粟津の浜を戦場と考えておられます。現在の義仲寺や兼平の墓がこの直線上にあるので、誤解をうけてもしかたがないかもしれません。

戦闘時、唐橋の橋桁がすでに今井兼平によって外され、渡ることができなかったので、鎌倉勢は5キロ下流の浅瀬(供御の瀬)を渡りました。そのすぐ下流は今もところどころ川底が見えていますから、馬や徒歩で渡ることができたのでしょう。今は琵琶湖の水量を調整する堰(南郷洗堰)が設けられていますが、対岸には相手が待ち受けていて度々ここは戦場になったところです。現在は戦場が転じて今は千町(せんまち)という地名になっています。そこから石山寺の裏山を通り逢坂山に通じる東山道へやってきたのです。

 そこは大海人皇子と大友皇子との間で戦われた壬申の乱を始め、承久の変や建武の戦い等、この前後の時代に何度も戦いが行われた場所でもあります。戦闘の血汐を浴びてススキの葉や茎が赤くなったと言われているが、実際に茎と葉の一部が赤い種類のススキが今もあります。

当時は、国分寺や国分尼寺もあり、都へ行く主要ルートだったので、往来が盛んだったようです。古い歌にも粟津ガ原は登場します。(粟津は会えないという意味を含んでいたようです)

 義仲の墓も今井兼平の墓も、長らくその近くの山中にありました。もし戦いが瀬田の唐橋のたもとの湖沿いの粟津の浜で行われたとしたら、戦争の混乱のなかで、遺骸を2キロも山手まで運んで葬ることは不可能だと思います。

 義仲寺は数百年後の江戸時代に、近江守護の佐々木氏によって山手から膳所の現在の位置に移動され、近くにあった今井兼平の墓も同じく当時の膳所藩の藩主本田氏の手で、唐橋に近い石山へ移されました。寂れて人通りもなくなった山手の東山道から、平地の東海道沿いに移されたのです。

  東山道沿いの昔の粟津ガ原は、何百年の間に自然に戻って山の中にところどころ昔の道が残っている状況でした。私の子供の頃は、この近辺はお弁当を持ってハイキングに行くような山の中でしたが、40年程前に造成されて宅地となり、再び息を吹き返しました。私も、今はここに住んでおります。近所の方が、地鎮祭をした時、何故か夢に鎧武者がでてきて不思議だった・・と話していたのを耳にしました。全く歴史に興味のない女性ですが、そんな話をしていました。

  鎌倉軍が夜明けとともに都へ移動していった後に、背後の山に身を潜めていた木曽の残党達が遺骸を葬り、遺品や遺髪を故郷へ持ち帰ったと地元の歴史書に書かれています。もしかして、巴は義仲を殺された夜に我が家の庭辺りで失意のうちに夜を明かしたのかもしれません。

  源平盛衰記によると、合戦後に巴は石黒光弘のもとへ逃れたが、そこから鎌倉へ召しだされ出頭するわけです。多分戦いになることを避けて自から赴いたのだと思います。死を覚悟していたかもしれません。

 戦い終わった鎌倉では、静御前と巴御前は話題の人物で、頼朝も会ってみたかったのかもしれません。二人とも鎌倉へ呼び出しました。長い間頼朝は流人の身分でした。天下の大将に成った途端、多くの女性が媚を売るのを、妻の北条政子は苦々しく思っていたようです。しかしこの二人、静と巴は違いました。

 頼朝は白拍子の静に舞を舞うことを命じたのですが、静は義経恋しと衆目の前で歌いながら舞って、頼朝の機嫌をそこねました。頼朝が静を殺せと命じたのを止めたのが政子でした。追われる身となった夫に変わらぬ心を寄せる静を芯の強い立派な女性と評価したのでしょう。義経の子を身ごもっていた静は出産まで鎌倉にとどめられ、生まれた子は男の子だったので殺され、彼女は京に返されました。

  巴にも政子は配慮したのではないかと思われます。

義仲の長男義高の母は誰かというのは正確にはわかっていません。人質として鎌倉に行ったとき11歳というので、年齢的にみれば巴が義高の母である確率は高いとは思いますが、色々な説があります。

  義高は父の義仲が討たれた3カ月後の4月に、頼朝による殺害を逃れるために鎌倉から脱出しました。大姫が逃がしたと書かれた本もありますが、大姫はまだ8歳でしたからそれは不可能だと思うのです。

大姫の侍女達が馬の蹄に綿を巻いて、足音がしないようにして、当時宴会をしていて皆が酒に酔っている夜に逃がしたと書かれていますが、こんなことが実際できるでしょうか。勝手にそのようなことをしたら、彼女達はただでは済まないでしょう。侍女達は実際は政子に命ぜられてやったような気がします。しかし、それが政子の命だったとは鎌倉の記録である吾妻鏡も源平盛衰記も書いてはいません。書くことはできなかったでしょう。

 義高が入間川で追っ手に殺されたとの報を受けて「何故殺したのか、生かして連れて来るべきだった」と政子は怒りました。その怒りが解けないので、手を下した堀籐次は首をはねられたのです。

  鎌倉では政子は義高の母代りでもあったような気がします。娘の大姫は多分義高を兄のように慕っていたのでしょう。

それは巴と義仲の関係に似ています。巴も幼少期から義仲とともに育ち、兄、恋人、夫であり、大姫が義高を慕った気持ちは痛いほどわかったはずです。ですから巴と政子、それに大姫の間には通じあう心があったような気がします。

  先程も触れましたが、源平盛衰記には、巴は鎌倉へ召しだされた後に鎌倉の侍所長官の和田義盛の妻になったと書かれています。和田義盛が、頼朝の前に引き出された巴を妻にしたいと、強く要望したというのです。「そんな女性を妻にすれば寝首を掻かれるぞ」と、他の武将達の失笑を買いました。

しかし和田義盛は頼朝に「私は巴を妻に迎えて強い子を設け、将来将軍家に貢献したい」と繰り返し頼み、とうとう頼朝の「好きにせよ」との了解を取り付けました。

  和田義盛は巴を美しく健気な女性として、また立派な武将として尊敬し、何とか助けたいと考えたかもしれません。引き立てられてきた巴を見て、その場で妻にしたいと思いついたとは考えにくいのです。実は、それまでに大江広元が和田義盛に巴を助けるように頼んだのではないだろうかという気がします。


  鎌倉幕府は問注所と政所と侍所という三つの組織で支えられていました。   問注所は裁判所にあたり、頼朝が裁定を下します。政所は行政を、侍所は軍事を司っていました。

  和田義盛は鎌倉幕府の侍所別当でしたが、政所の別当が大江広元という人物でした。戦国大名毛利家の祖です。大江広元と和田義盛は鎌倉幕府を支える重要人物でした。

彼は大江を名乗っていましたが、実は中原一族で兼遠の親族でした。祖父は中原広季という人です。母は広季の娘になります。父は楊梅流藤原氏の藤原光能で、光能の叔母と姉が以仁王の妻で、北陸の宮の母と真性の母です。

  広元は祖父である中原広季の養子になりました。そして何故か祖母の実家の大江を名乗っていたのです。理由はわかりませんが、鎌倉幕府を支える人物が木曽義仲に関係深い楊梅流藤原氏では都合が悪かったのかもしれません。

  大江広元は、鎌倉につれてこられた巴に前もって会っていた可能性があります。その時に義仲の子を身ごもっていることを打ち明けられ、何とか助けたいと考え、また巴も義仲の忘れ形見を産むことで、生きたいという希望が生まれていたかもしれないのです。

  政所別当の大江広元と侍所別当の和田義盛は幕府を支える2本の柱でした。大江広元が和田義盛に、結婚によって巴を保護してもらえないかと頼み込んだ可能性を感じるのです。結婚という手段以外に彼女の命を助ける手段がなかったのでしよう親族同士は敵対して戦う時もあれば、戦いが終結した時には一族を守る為に助け合う場合もあります。

和田義盛の「巴を妻に迎えて強い子を設けたい」の言葉通り、巴は、間もなく朝夷三郎義秀を産みました。彼は向かうところ敵なしと言われた強い武将に育ったのです。

当時は、流人や罪人となった捕らわれ人を親族が預かる場合が間々見受けられます。身内に預けるなんて、そんな甘い監視で大丈夫なのかと思うのですが、罪人として親族に預けられた人間は、逃げればその一族に多大の迷惑をかけることになるので、却って逃亡を思いとどまるという関係が成り立ちます。

  和田義盛が巴を妻に申し受けたならば、義盛はそれなりの責任を負わねばなりません。和田義盛にはすでに妻も子もおりましたが、この時代一夫一婦制ではなかったので、複数の妻がいても不自然ではなかったようです。

 和田義盛が頼朝に、「巴を妻として強い子を設けて将軍家に貢献したい」と述べたのは、もうその時点で巴が義仲の子を身ごもっているのを知らされていたからかもしれません。

 三郎義秀は朝夷郡を自領に持ち、朝夷三郎義秀と呼ばれております。巴は早い時期に鎌倉を離れて朝夷郡(今の横浜市)で静かに暮らしていたのかもしれません。鎌倉から離れたここで身二つになれば、巴の生んだ子供が少し早くに生まれても人々は気付かなかったはずです。木曽義仲、和田義盛どちらも義の字がつくので、名前を義秀としても全然問題がないわけです。

 義仲の子を宿していることがわかった後の巴は、何としても義仲の子を産みたいと命の継続を願い、その後も和田合戦(建保の乱)が起こるまで28年をそこで静かに暮らしていたと思われます。

鎌倉幕府も頼朝がすでに亡くなって8年が経過した頃、残った豪族同士の勢力争いが起こりました。最強と言われていた和田義盛も、だまし討ちの謀略に巻き込まれたのです。どうやら黒幕は北条氏のようです。建保元年(1213年)の、通称和田合戦と呼ばれる戦いでした。

 和田合戦で鎌倉の海岸に追い詰められた和田一族は由比ヶ浜で自決するのですが、その時に、朝比奈三郎義秀は和田義盛に呼ばれました。「お前は、これまで私の子として育ててきたが、実は木曽義仲の子である・・・。信濃へ行けば必ず義仲の残党が匿ってくれるだろう。向こうの岩陰に船が隠してあるからそれに乗って逃げろ」と指示したのです。朝比奈三郎義秀は船で自領に戻り、取りあえず必要な物を持ちだして船で逃げたと書かれています。

 大阪に岸和田という土地がありますが、逃げて来た和田一族が定着したとの説もあり、木曽の王滝村の三浦一族もそうではないか、との説もあります。この時、巴は鳥羽かどこかで船を降り、福光へ来たのでしょうか。隠れ住むには少人数に分かれたほうが探索をうけにくいのでしょう。

 ところが朝比奈三郎義秀が木曽義仲の子であるというのに、異議を唱えた江戸時代の学者がいました。理由は、吾妻鏡や源平盛衰記に38歳と書かれた義秀の年齢にありました。それ以来この話は宙に浮いたままです。

和田合戦は鎌倉幕府が開かれて28年後に起こっています。ところが義仲の子供との説がある朝比奈三郎義秀はこの時は38歳と書かれているのです。とすれば朝比奈三郎義秀が生まれたのは源平合戦終了から10年も前のことになります。その頃は義仲も巴もまだ木曽にいたはずです。ですから朝比奈三郎義秀は巴の子ではない、つまりこの話は成立しないという意見です。

 しかし、義秀が義仲の子であるというのが延慶本平家物語と源平盛衰記や吾妻鏡に書かれている事実も、簡単に無視するわけにはいきません。

昔は印刷技術もありません。本をどうして一般に広く普及させたかと言うと、お寺で、一人の読み手が文章を読み上げます。それを何人かのお坊さんが机を並べて筆で書写しました。一人が例えば、「祇園精舎の鐘の声」と読むと、皆が一斉に筆を動かします。次へ進み、「諸行無常の響きあり」と続けるのです。20人のお坊さんがいれば20冊、30人ならば30冊の本が同時に出来るわけです。

 しかしその時に聞き間違える人もあれば、字がわからない場合もあるわけです。ですから当時の本には誤写は珍しくありません。たとえ28と書いたつもりでも、ちょっと筆が引っかかった為に38と読めたかもしれません。その本を許に書き写せば、38が世に普及することになります。ですから38歳と書かれているから間違いだと単純に否定できないと思います。

  朝比奈三郎義秀は一族を率いて船で自領の朝比奈郡(今の横浜)に向かい、必要な物を持ちだし逃げたとも言われていますが、延慶本平家物語には、朝比奈三郎義秀が討たれた後、巴は泣く泣く越中国へ移り、ここで出家し、巴尼として身内の後世を弔って91歳で臨終を迎えたと書かれています。

  本日は、北陸の研究者の方からも資料を頂き、御協力頂きましたことを、高いところからですが、お礼申しあげます。長い間ご清聴ありがとうございました。                         
                              (
2014.10.18. 15回巴忌記念講演会 in富山県福光)

               

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