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            日常の風景   NO.0131
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カールス教会の奇跡

ニューイヤーコンサートが毎年開催される、ウィーンの楽友協会ホールは、
明るいレンガ色をベースに、正面の窓枠を飾る純白のアーチがアクセントになっていた。
屋上に音楽家の彫刻がずらりと並んでいる以外は、それほど特徴のある建物ではない。
世界的に有名な場所であるわりには、外観は意外なほどにシンプルで平凡な印象だった。

外観だけを見て、帰るつもりだったが、
コンサートが開催されるらしく、ドレスアップして、ぴしっときめた、
紳士淑女がホールの前に三々五々集まりだした。

ラッキーなことに、やがて、扉が開いたので、
わたしたちも観客のような振りをして、
ホールのなかにまではもぐりこむことができた。
しかし、いかにも服装が場違いなので、居心地はあまりよくない。

見学を終え、再び外に出ると、夜のとばりが今にも降りようとしていた。
楽友協会ホールの内も外にもライトが灯り、
陰影の深い、素敵な雰囲気がかもしだされていた。

楽友協会ホールの目の前にそびえる、巨大なバロック建築のカールス教会も
ライトアップされ、濃い群青色の空を背景に、その存在感を示していた。

「あかんと思うけど、ためしにもう一回行ってみよか」
カールス教会を指差しながらいうと、
相棒は素直に「うん」とうなずいた。

実は、昨日、このカールス教会を観光で訪れたときに、
ガイドブックをどちらかが忘れてきたのである。
多分、礼拝堂の長椅子の上だとは思うがはっきりしない。

旅に出て、日本語のガイドブックを失くすという事は、
航海上で羅針盤を失くしてしまうに等しいぐらい不便なことだった。
しかもそれは、私たちの物ではなく、図書館で借り出した本だった。

カールス教会の重厚な扉を恐るおそる押してみると、呆気なく開いた。
しかし、開館の時間はとうに終了している。
昨日、チケットを購入したブーツにも人は誰もいなかった。

3方を透明なガラスで囲まれたブーツの中を、隅から隅まで覗いてみた。
ひょっとすれば、忘れ物として誰かが届けてくれ、
ここに保管されているのではと、淡い期待を込めて覗いたのである。

巨大な礼拝堂の空間には、観光客らしい人が、2.3人はいたが、
人が次々と入ってくる昼間のざわめきとはうって変わって、
しんとしている。これが本来の教会の姿なのかもしれない。

昨日座っていた礼拝堂の長いすに、再度腰をおろし、
まわりを確かめてみたが、ガイドブックがそんな場所にあるわけはなかった。

もうガイドブックのことは綺麗さっぱりと諦めることに決めると、
夜の教会の雰囲気がしっとりとした気分にさせてくれた。
礼拝堂正面の、ブロンズで造られたキリスト像。
その上部の壁に彫刻された、巨大な聖人像の数々。
天井に描かれたフラスコ画。

それらが間接照明に淡く照らされ、気品よくひかっている。
私たちは、祭壇の最前列に近い椅子に移動し、
宗教的な雰囲気をゆっくりと味わうことにした。

ひとことも口をきかず、どれほどその場所にいたのか、よく覚えていない。
そろそろ引き上げようとしかけていた直前のことである。
祭壇の横手にぽっかりと黒い穴が開き、
その穴から、白いカラーに黒衣の神父さんが姿を見せたのである。

祭壇からこちらに向かって優雅に歩いてくると、突然くるりと向きを変え、
キリスト像にひざまずき、指で十字をきった。
まるで、舞踊を見ているような、しなやかな動作だった。

わたしは、神父さんのオーラに魅かれるようにして、ふらふらと立ち上がり、
神父さんの行く手を阻むようにして立つと、ガイドブックのことを聞いて見た。
わたしの言うことを黙って聞いていた神父さんは、
ここで待っているようにと言った。
ドイツ語なまりの強い、聞きづらい英語だったが、
物腰のやわらかさ、優しさがにじみでているようなトーンだった。

そして神父さんは、暗い穴の中に身を屈め、
再び姿を見せたときには、わたしたちのガイドブックを手にしていた。



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sceneryの風景

タイトルの「カールス教会の奇跡」はすこしおおげさ過ぎましたね。
本来なら、偶然、もしくは幸運ぐらいのタイトルがふさわしいのかもしれません。
でも、あのときは確かに、奇跡のような気がしたのです。

もうすっかり諦めていたガイドブックが見つけられたのも、
もうひとつの偶然が絡んでいます。

ヨーロッパの有名な劇場は、大抵、内部見学ツアーというコースが設定されている。
しかし、2.3日しか滞在しない通りすがりの旅行者にとって、
見学ツアーに参加するのは、よほどでないとスケジュールを合わせるのが難しい。

人数に制限がある上、一日に一回だけという劇場も多く、
正確な時間も不定である。
とすれば、見学しようとすれば、前日に見学ツアーのスケジュールを確認し、
そして、当日、時間になれば指定された場所に並ぶということになる。

新年に、毎年開かれる、ニューイヤーコンサートの会場が、
ウィーン、オペラ座ではなかったということがわかったときのショックはかなりのものだった。

これは、わたしの全くの思い違いだったのだが、
オペラ座の見学ツアーに参加した理由のひとつが、
ニューイヤーコンサートの会場を確かめるという意味もあったからである。

2002年に小沢征爾が日本人としてはじめて、新年に棒を振ったとき、
衛星テレビを見ながら、ウィンナーワルツの軽やかなメロディ以上に、
気分がウキウキとしてきたのを今でもはっきりと覚えている。

お目当てのコンサート会場は、楽友協会ホールというところで、
折角だから、気分を切り替えて、建物の外観だけでも見ておこうと出発した。
オペラ座からトラムに乗れば、10分ほどの場所にあった。

そして、楽友協会ホールからの帰り道が、
上記の出来事だったのです。

今日で10月も終わりです。
旅行シリーズも今回で終了にします。
次号からはふつうの彦根の日常に戻ります。



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