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            日常の風景   NO.0185
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クレムリンの聖歌

ロシアでは英語はまったく通じないと何度も聞かされていたので、
旅行直前の1週間、ロシア語の勉強を真剣に始めた。
もちろん、1週間の付け刃では、わたしのロシア語はまったく役にはたたなかった。

英語が意外にすこしは通じたのである。
もちろんモスクワのような大都会だったからだとは思うのだが。
わたしは最初みんなに「Do you speak English ?」と聞いてまわった。
ところが、ロシアの人は例外なく「ニエット」とか「ノー」とかいって首を横に振る。

次にわたしは「Where is Moscow station ?」などと簡単な英語で直接聞いてみた。
そうすれば、かなりのロシア人が指で行くべき方向を指し示してくれたのである。

巨大な城壁に囲まれ、その周囲の距離が2.2キロメートルもあるクレムリンでさえも
地下鉄の駅を降りたとき、どちらに進んでいいのかわからなかった。
地下鉄の表示は一切ロシア語で、英語表示はゼロ。
とにかく、人の流れのままに歩いて、地上に顔を出してから方向を決めてゆくしかない。

クレムリン観光の入り口にある、トロイツカヤ塔は、まるで赤いレンガでつくられた、
ディズニーランドのシンデレラ城のような華やかさで意外だった。
わたしたちの世代は、クレムリンといえば冷酷、冷徹なソ連邦の独裁者が支配する
悪の牙城といったプロパガンダがまだ多少刷り込まれている。

まったく知らなかったが、クレムリンはモスクワだけではなくロシアの各都市にもある。
ロシア語でただの城塞を意味することばらしい。
現在でも、モスクワのクレムリンには大統領府があり、プーチン大統領も
そのなかにいるはずである。

ガイドブックによれば、大統領府に掲げられている旗で、プーチン大統領がいるかどうか
わかるようになっているらしいのだが、興味がなかったので確認するのを忘れた。
もちろん、こわもての警官が常時監視しているので、観光客が近づくことはできない。

クレムリンに観光客が集まる目的は、聖堂広場と呼ばれる広場と、
そのまわりにいくつも建立されている聖堂のなかを見学することである。

ロシア正教の教会建築の特徴は、なんといってもイスラム寺院に見られるような、
金色にかがやく多くの「ねぎ坊主」であろう。外見の華やかさに比べて内部は薄暗い。
西洋の教会にみられるようなステンドグラスのようなものは一切ない。
上の方にちいさな明り取りのシンプルな窓があるだけである。

その代わり、天井も含めて、まわりの壁一面に聖画がびっしりと隙間なく描かれている。
薄暗い聖堂のなかで、さまざまな陰影をつけてほのかにかがやくカラフルな聖画。
荘厳、荘重というよりは神秘的でミステリアスな雰囲気。

アルハンゲリスキー大聖堂では、多くの観光客に混じって、
そのような宗教的神秘の空気にどっぷりと浸って、ぼーっとしていた。
そんなときである「すみませんが、この場所をすこし空けていただけますか?」
という声が聞こえてきた。流暢な英語である。
「ここで聖歌を歌いたいのです」

白いシャツの上に黒衣をまとった司祭の服装に身をつつんだ中年の男が4人。
それぞれが楽譜を手にして、入り口から一番奥まった場所に整列した。
潮が引くように聖堂内のざわめきが静まってゆく。
それに気づくのが遅れたロシア人のガイドが説明するロシア語を、
司祭のひとりが、人差し指をくちびるにあて「シー」とささやくように制した。

完全な沈黙のなかで厳かに始まった聖歌の4部合唱は、
各パートのハーモニーが完全で、天上の音楽のようにとてつもなく美しく響いた。
ことばはわからない。意味もわからない。
だがそんなことは超越して、ひとりひとりの心に襞に直接沁み込んでくるような歌声。
目の前でしばらく聞いているうちに、目の奥が熱くなり、涙がにじみそうになった。



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sceneryの風景

旅行者としての感傷は確かにあったのだろうと思う。
それにしても、音楽を聴いて目頭が熱くなったのは久しぶりの経験であった。

今回のロシア旅行では、音楽だけではなく、絵画を見ても、
なんとなく目の奥が熱くなった瞬間があった。
現代でもそうだが、ロシア芸術の底力というのは、それは大したものだと思う。

美術館めぐりが大好きなわたしたちは、
モスクワでは、プーシキン美術館とトレチャコフ美術館へ。
サンクトペテルブルグではエルミタージュ美術館でゆっくりとした時を過ごした。

いちばんこころに残ったのは、意外なことにトレチャコフ美術館。
この美術館はロシア美術のコレクションで知られているが、
わたしはロシアの画家のことはまったく知らない。
この美術館には大作が多い。一生涯をかけて一枚の絵を完成させた画家もいる。

他の美術館なら絵画を見るときには、まず作者を確認してから絵を見る。
この絵はレオナルド・ダ・ビンチ、この絵はラファエロ、これはティツアーノ。
ベラスケス、エルグレコ、レンブラント、ルーベンス。
近代ではモネ、マネ、ドガ、ルノアール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マチスなどと
作者を確認してからでないとゆっくりと鑑賞できない。

こんな楽しみ方は何かおかしいと自分でもわかっているのだが、やめられない。

でも、トレチャコフ美術館のコレクションは、虚心になって絵画そのものと向き合うことができた。
肖像画一枚をとっても、作者の絵筆は、モデルの性格まで鋭くえぐりだしている。

感動する絵はいっぱいあったのだが、わたしの目頭を熱くした絵は、
わずか100年ほど前のロシア庶民のありのままの生活をモチーフにしたものである。
子供や老人までが、ただ食べるということだけのために、
厚く積もった雪道を、リヤカーのような粗末な車を曳いている姿だった。
リアリティと迫力があったし、切なかった。



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