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日常の風景 NO.0190
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T先生の想い出-1
わたしの高校時代のことである。
当時のオーディオ機器といえば、まだラジオか蓄音機ぐらいしかなくて、
「ステレオ」という言葉が世の中にやっと紹介され始めた時代である。
まるで流行語のような新鮮でモダンな響きだった。
ステレオコンサートというものが、彦根市で定期的に開かれていた。
大きなスピーカーが左右に2台設置されているだけの殺風景な会場だったが、
当時はそれだけの装置で、ピアノリサイタルのような人気があったのである。
もちろん、無料で開催されるコンサートだったということもある。
わたしは当時、ステレオの正確な意味がまだよく理解できていなかった。
レコード音楽を、ただ大きなスピーカーで聴くことだと思っていたのである。
コンサートの最初にメーカーによるステレオのデモンストレーションがあった。
ステレオ機器の販売促進のため、メーカーのスポンサーがついていた。
蒸気機関車が舞台の右から左に走り去る音や、
卓球をしているラリーの音が左から右、右から左へとピンポン玉が移動してゆくのが、
魔法でも見るようにおもしろく、わたしはそこではじめてステレオの意味を理解した。
ステレオコンサートは第一部が軽音楽で、第二部がクラッシックだった。
第二部のクラッシックの解説を担当していたのが、T先生だった。
上背はそれほどなかったが、アイロンできちんと折り目のついた濃紺のズボンに、
明るい茶色のチェックのブレザー、真っ白なカッターに黒い蝶ネクタイがよく似合っていた。
わたしはクラッシックの音楽にはまったく興味がなかった。
中学時代に、いかめしい顔をした音楽家達の肖像画がずらりと掲げられている音楽室で、
無理やり、ベートーベンやブラームスの交響曲を聴かされて以来、
こんな音楽のどこがいいのか、まったく理解の範囲を越えたところにあった。
だがT先生の解説は語り口が軽妙で滑らかで実におもしろかった。
わたしはてっきり、ラジオ京都のプロのアナウンサーが解説を担当しているのだろうと、
勝手に信じていた。
ある日わたしの父親が胃を患い、彦根市立病院に入院することになった。
驚いたことに、そこで白衣を颯爽と着こなしたT先生に出会ったのである。
T先生は、京都大学の医学部を卒業したばかりの、新進気鋭の外科医だったのである。
当時、最高のテクノロジーだった胃カメラもT先生が担当していた。
父親の撮影にも立会い、胃の中でフラッシュが焚かれるたびに腹部が蛍のように光るのがふしぎな光景だった。
T先生にあるとき「ラジオ京都のアナウンサーだとばかり思っていました」というと、
にっこりとうれしそうな顔をされて「ステレオコンサートを手伝ってくれないか」といわれた。
こうしてわたしとT先生とは何でも気楽に相談できる間柄になっていったのである。
ステレオコンサートはやがて終末を迎え、T先生も結婚して草津市で開業され、
わたしもNTTに就職するなど環境はがらりと変化してゆくのだが、
ひとまわりも年下で何の才能もないわたしのことを、
なぜか気に入ってくれて、家に遊びに来いと、ときどき声をかけてくださった。
気に入られたひとつの要因は、あまりにもわたしが音楽のことを何も知らなさすぎたことだろう。
T先生の解説のおかげで、クラッシック音楽もだんだん好きになりかけていた。
ビバルディの軽快な協奏曲を聴いていたときのことである。
軽音楽のようなテンポのよさと聴きやすさから、きっと最近の曲だと思って、
「ビバルディってまだ生きてるの?」
と聞いたときのT先生のあきれたような顔はいまでもはっきりと想い出すことができる。
(つづく)
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sceneryの風景
最近、T先生の奥様からの葉書で、先生が亡くなったのを知った。
手術は成功して、後は回復を待つばかりだと信じていたので愕然とさせられた。
何度も何度も葉書を読み返してみたが、書かれている内容が変わるはずもなかった。
ひと月ほど前にもらった手紙には、病気で倒れたが、困難な手術が成功した。
やむを得ず病院は閉院にするが、これからも頑張るという内容だったので、
わたしの方からもお見舞いの手紙を送ったばかりだったのだ。
いつもそうなのですが、今回の日常の風景は特に自分だけのために書いています。
書くことによって、T先生との思い出が鮮やかによみがえってきて、
哀しみが多少ともなぐさめられるのです。
後、もう一回だけお付き合いください。
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