*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*
            日常の風景   NO.0240
*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*

乗鞍にて

乗鞍岳のバスターミナルにある建物は、ヨーロッパ、ドイツ風の建築で
屋根が赤く、きめの細かい木組みをアクセントにしている。
近代的な雰囲気の大きな建物だった。
このなかにレストランや土産物店が入っている。

このように拓けた明るい場所に、この間突然熊が現われて、
観光客に怪我を負わせたというニュースが、日本全国を驚かせた。
ここの気温は現在、摂氏5℃。真冬並みの気温である。

簡単な冬装備はしてきたつもりだったが、
穏やかな秋を向かえつつある平地からでは想像力が及ばない。
この寒さを正確に予想することは難しかった。

手袋もなく、しびれるような冷たさを指先に感じながら、
出没した熊の気分が、少しだけわかるような気がした。
もう、冬眠しなければならない時期なのに、
山では、十分な食料を取ることができなかったのだ。

バスターミナルのある、乗鞍岳の畳平は標高2702メートル。
空気が薄く、坂道を歩くとすぐに息が切れる。
畳平から、魔王岳口という小高い頂がすぐ目の前に見えた。

標識で確認すると、魔王岳口は標高2763メートルとある。
畳平から、ずいぶん高く見えるが、わずか60メートルの頂である。
そして誰もが登れるように、コンクリートの階段がずっと続いている。

途中まで登りかけたが、やはり空気が薄くて、肺が酸素を求める。
何度も立ち止まっては深呼吸がしたくなる。
同行している友人のひとりは「もう止めよう」というし、
実はわたしもその気になりかけていた。

だが、もうひとりの友人が
「ここに来られるのは、これがもう最後になるから」と、
悲壮感を込めて、時代がかったことを言い出した。
しかし、この言葉は実に説得力を持っていた。

高校時代の友人が三人。まだまだ気分は若いつもりだが、
「これがもう最後」というような大仰な言葉が瞬時に理解できる齢なのだ。

乗鞍岳には、わたしにとって忘れられない若いときの思い出がある。
わたしの従弟が、新平湯温泉に無料で宿泊できる温泉があるという情報を
持ってきてくれたことがあった。
半信半疑だったが、実際従弟と出かけるとほんとうの話だった。

「与平小屋」とわたしたちは呼んでいた。ひとりぐらしの与平じいさんが、
かつて民宿だった温泉付きの自宅を、ほんとうに無料で開放していたのである。
温泉はいつでも利用できたが、自炊で、毛布などの寝具も持ち込みであった。
翌年の夏、妻と幼稚園児ぐらいだったふたりの子供を連れてここに3泊した。

「与平小屋」での生活を通じて、自然に囲まれただけの田舎暮らしは、
実際は実に退屈な生活だと実感した。
目の前にでんと構えている、乗鞍岳を見ながら、毎日酒ばかり飲んでいた。
車ですぐに行ける上高地などへも出かけたが、観光地でさえ退屈だった。

三人は魔王岳口の頂にようやくたどりつく。
山頂は、冷気をたっぷりと含んだガスがかかり、見晴らしはあまりよくなかった。
それでも、ときおりさっとガスが途切れ、まわりの雄大な山々が全容を見せる瞬間があった。
寒くてしんどかったがいい気分だった。

与平じいさんと子供たちは、すぐに仲良しになった。
じいさんに作ってもらった竹トンボを目を輝かせて飛ばせていた。
わたしたちが帰るとき、見送りにきた与平じいさんの目には、涙が光っていた。
あのときのじいさんの涙の意味が、今ならこころから実感できるのである。



----------------------------------------------------------------------
sceneryの風景

高校時代の同級生との3人旅。
ツアーに申し込むだけの旅なので気楽な旅だ。
わたしは基本的には、団体旅行というのはあまり好きではないのだが、
誘われた旅というのは、よほどのことがない限り断らないという方針も、
またポリシーにしている。

60歳で定年退職を向かえてから早いものでもう3年が経過した。
しかし、定年退職を引きのばしていた同級生たちも、
最近になってみんな続々と会社を去って行く。
わたしにとっては自分と同じ立場の仲間が増えて行くのは大歓迎。
このような旅の機会が増えるのも大歓迎。



----------------------------------------------------------------------
発行者 scenery
north@arion.ocn.ne.jp
HP 日常の風景
http://www6.ocn.ne.jp/~scenery/

----------------------------------------------------------------------
日常の風景が本になりました。ご覧ください。
http://www.geocities.jp/scenery_jp2/book/book.html

----------------------------------------------------------------------
このメールマガジンは、

『めろんぱん』 (マガジンID: 2179) http://www.melonpan.net/
『メルマ』  (マガジンID: 50779) http://www.melma.com/
『まぐまぐ』 (マガジンID: 79888)   http://www.mag2.com/
『E-Magazine』 (マガジンID: scenery1) http://melten.com/
『カプライト』 (マガジンID: 4327) http://kapu.biglobe.ne.jp/

を利用して発行しています。

----------------------------------------------------------------------
メールマガジンの退会・解除は
http://www6.ocn.ne.jp/~scenery/  からお願いします
----------------------------------------------------------------------