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            日常の風景   NO.0254
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娘の出産

妻といっしょに分娩室に入ると、中央に置かれたベッドの上で、娘は呻いていた。
側臥位で背中を丸め、これ以上崩しようがないというほど、
くしゃくしゃに顔をゆがめて、ひとりぼっちで苦痛に耐えていた。

分娩室は普通の病室を少しだけ大きめにした程度の部屋である。
そこに緊急用の簡単な手術道具が運び込まれたという程度の設備があった。
天井に可動式の手術用無影燈があるので、ただの病室ではないということがわかる。

今から30分ほど前に、娘のパートナーから電話があった。
急な仕事でこれから出勤しなければならないというのである。
わたしも、自分の子供の出産のとき会社を休んだりはしなかった。
快く後を引き受けて、妻とふたり、急いでここに駆けつけてきたのである。

娘は痛みにはすぐに反応して、声に出す。
「あ痛たたたたたた、痛い、痛いよー」

ときおり顔を見せてくれる、若い助産師さん。
自身に出産の経験はなさそうだが、さすがに場馴れしている。
性格もとてもよさそうな人で、妊婦を慰めるのがとてもうまい。
娘が「痛い、痛い」と呻くと「がんばれ」とはひとこともいわない。

「うん、痛いね、痛いね」と涙を流さんばかりに心から同感するのである。
そして「ええ陣痛がきてるで」「うん、いい感じ」「順調やで」と、
苦痛を前向きのプラスの現象として、励ましてゆく。

ベッドに乗りあがり、娘の腰や、お尻を両手で押さえる。
押さえるツボを心得ているのだろう、それで娘の苦痛がずいぶんと和らぐようだ。
「お父さん、押さえて」というので、わたしも見よう見まねで、
陣痛が来るたびに、娘の腰とお尻を両手で押さえた。

主治医が顔を見せた。50歳ぐらい、髪の毛は剛毛で、
ひげが濃く、眉毛も太い。いかめしい感じになるはずなのだが、
目じりがやや下がり気味なので、逆に人懐っこそうな印象になっている。

「出産はマラソンと同じ」と娘と、わたしたちに経過を丁寧に説明してくれた。
「そうやね、マラソンに例えたら、まだ今は30km地点ぐらい、
我慢比べの時期や、今がんばりすぎてはゴールまではもたない、本当にがんばるのは
競技場に入ってから」

分娩室には、静かな環境音楽が流れ続けている。
やさしくて爽やかな緑の高原を連想させるようなピアノ曲。
娘の慰めには、これっぽちもならないだろうが、少なくともわたしの気分転換にはなった。

「痛い」という実にプリミティブな感情。太古の昔から人はそれぞれに表現してきたはずだ。
注意深く、娘が吐く表現を聞いていると、やはりそこには個性とか社会が垣間見られる。
「めっちゃ痛い」「痛とうてたまらん」「痛た過ぎやわ」「痛みのレベルがまた上がった」
もう覚えていないが、少なくともわたしの妻はこんな表現はしなかった。

娘は、つぎつぎとバラエティに溢れる痛みを訴えながら、
今まで練習してきた呼吸、口笛を吹くように唇をつぼめ、
ヒューヒューといわせながら、リズムをつけて息を強く吐きだす呼吸法を実践している。

すこしは痛みが紛れているのだろうか。
ヒューヒューという呼吸音を聞きながら、娘の腰とお尻を押していると、
娘が赤ん坊のころ、わたしの片手の手のひらに、娘のお尻がすっぽりと収まっていたときの
感覚を思い出していた。

このような娘とのスキンシップは、彼女が小学生以来のことだろう。
娘の痛みを触媒にして、濃密な時間が過ぎてゆく。
娘のおなかに貼りつけられた聴診器が分娩室のスピーカーにつながっている。
ドック、ドック、ドック、ドックと生まれてくる胎児の鼓動が、確実に時を進めている。



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sceneryの風景

出産をマラソンにたとえた、主治医の先生。
娘が競技場に入ってからは、陽気で妊婦をその気にさせるのが
実にうまいキャラクターに一変していた。

陽気で、楽天的だけではないのはよくわかっていた。
それまでの説明で、万が一のときの予防線も、言葉を慎重に選びながら張っていた。
何しろ娘は、36歳になっての初産である。高齢出産なのである。
どんなアクシデントがあるのか、心配の種は尽きない。

パートナーと相棒は分娩室に入ったが、わたしは外で待機していた。
でも、声が聞こえるので中の様子は手に取るように想像できた。

「そうそう、上手上手、まだまだ、いける、いける、頑張って」
「さあ、深呼吸してちょっと休憩しましょう」
最後のセリフは「さあ、ここで決めよう。上手上手」

「おぎゃー」という産声が聞こえたときには、思わず廊下で立ち上がり、
手が痛くなるほどの勢いで、拍手をしていました。

「百点満点のお産でした」

主治医のこの言葉は、娘への何にも勝るプレゼントだったに違いありません。

陽(ひなた)君おめでとう。生まれる前から、男の子だとわかっていたし、
もう君の名前も両親が決めていたのだよ。
わたしたちの世界によく来てくれました。大歓迎です。

君が成人するまでは多分、おじいちゃんは居られないだろうけど、
お母さんのことよろしく頼むね。



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