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            日常の風景   NO.0267
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将棋の風景

「負けました」とわたしがはっきりと伝えると、
相手はもうこれ以上顔を崩しようがないほどの笑顔を見せた。
もうすぐ80歳に手が届くというSさんが、将棋に勝った瞬間である。
すこし黄ばんだ乱ぐいの前歯に連なっている奥の金歯がきらきらと光っている。

Sさんの笑顔を見ていると、負けたにも関わらず、
悔しさを通り越して精一杯の勝負を終えた満足感がある。
結果から見てわたしが、この老人にふるえるぐらいの感動を与えたわけである。

そんなことって、普通の日常で他にあるだろうか?
自分の行為が人にすごく深い感銘を与えるようなことって。
多分自分の家族でさえこんなに喜んでもらえることはないだろう。

定年退職後、毎日囲碁・将棋クラブに通う人々を見ていて、
年を取っても自分の世界をしっかりと持っている人は幸せだなとつくづく感じる。

わたしと将棋とのかかわりは、いくつかある楽しみのひとつにすぎないが、
ここに集う大多数のひとは、将棋や囲碁が唯一の楽しみであり生き甲斐なのだ。
たとえ少人数でも、価値観を共有するコミュニティに所属するということが、
充実した人生には欠かすことができない要素であることは確かだと思う。

そういえば大昔、社会学で習ったことを今、実感として思い出している。
人間の欲求の中で所属の欲求というのはかなり上位に位置していた。

わたしはインターネットを通じてたまに見知らぬ相手と将棋を指すことがあるが、
パソコンのディスプレイを睨んでの勝負は勝っても負けても、
Sさんが感じたような感動の世界とは程遠い。

定年退職後、園芸とか盆栽を趣味にしている人も多いだろう。
家の庭の片隅で、どこにも所属せず自分の盆栽や菊とだけ向き合っている人は、
どちらかといえば、ネット将棋の世界に近いような気がする。

もし盆栽愛好会とか菊作り同好会のようなコミュニティがあったとして、
所属している仲間同士の交流があれば、
これはずいぶんと世界が違って見えるのではないだろうか。

たとえそのコミュニティが数人にすぎなくても、
その道のひとだけにわかるちいさな世界が共有でき、
他の人には決して理解してもらえない苦労や工夫が正当に評価されてこそ、
深い感動が得られるのだろうと思う。

所詮、人はひとりでは生きることができない。
人とのかかわりによって傷つくことも多いのだが、
傷ついた心を癒やしてくれるのも、やはり人ということなのだろう。



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sceneryの風景

将棋のルールは子供のときから知っていたが、
趣味として本格的に将棋を指し始めたのは、一年ぐらい前からである。

定跡の本や詰め将棋の本を熱心に読めば、
2〜3級ぐらいの強さにはなれる。
だが、この世界は努力だけではなんともならない。

間違いなく、ひらめき、才能の世界である。

年寄りでも子供でも、才能のある人は、
勝敗のポイントとなった局面を覚えていて、手際良くその局面が再現できる。
相手の持駒、自分の持駒も、ほとんど正確に駒台に戻せるのである。

わたしは局面を三手前に戻すことすら できない。

これではよほど努力しないと、初段にはなれそうもない。
才能のない人が強くなる残された手段は、
才能あふれる人の指し手を真似し覚えることだけであるが、
覚えることより、忘れることの方が多くてどうしようもない。

アマ・プロを問わず、これだけ多くの人が毎日何千、何万と将棋を指していて、
一度として同じ局面にはならない将棋。
それぞれのレベルでそれなりに楽しめる日本の誇るべき文化のひとつだと思う。



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