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            日常の風景   NO.0270
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破れたシール

朝食の食パンにソフトバターを塗っていると、
バターの残りがもう五分の一ぐらいしかないのに気が付いた。

すぐにバターナイフを皿の上に置き、立ちあがって冷蔵庫に向かう。
冷蔵庫に貼りつけてある小さなホワイトボードにソフトバターと書き込んだ。

朝食を終えてから、ついでのときに書き込めばいいのだが、
最近は気づいたときにすぐに書いておかないと、忘れてしまう。
このホワイトボードは老人の外部メモリーとして記憶の一部を担っている。

買い物リストとして、ビール、ワイン、しょうが、にんにくなどはもちろん、
火災保険支払いとか、12/2までに振込とか、適当に殴り書きがしてある。
ソフトバターと書き込んだとき、
下の方に「シール」と小さな文字が書かれているのに気が付いた。

「シールって何のこと?」とわたしは相棒に聞いた。
「いいの、これはわたしの覚え」と口をにごしてはっきりとは答えなかった。

が、後で意味がよくわかった。
相棒はこの三年間、よく訳のわからないまま民生委員を引き受け、
かなり多忙なストレスのたまる日々を送っていた。

家の玄関には「民生委員児童委員」という鮮やかなブルーのシールが貼られていた。
11月30日は彼女にとって
民生委員としての重圧から無事に解放される記念すべき日なのである。

だから、11月30日の夜、このシールをゆっくりと感慨を込めて剥がすというのが、
相棒にとってのセレモニー。
欠かすことのできない完成の儀式。そのためのメモだった。

三年前、実は民生委員を依頼されたのはわたし自身だった。
わたしは自治会活動などを通じて民生委員の実情を有る程度知っていただけに、
できないと固辞しつづけ、結局相棒に引き受けてもらった。

子供時代は級長で、クラスを仕切っていたという相棒は、
責任感もかなり強く、結果から見れば適任だろったのだが、
それまでは自治会に出たこともなく、
どちらかといえば何も知らないまま成り行きで引き受けさせられたのである。

今まではそれほど関心のなかった老人の孤独死などの記事も熱心に読むようになった。
報酬を求めない純粋な善意が素直に感謝され評価されれば、
民生委員もやりがいのある、究極のボランティアだと思う。

しかし、実際の世間はそんなに素直なものではない。
お菓子を持って一人暮らしの老人を訪ねて行っても、居留守で追い払われたり、
「連絡を下さい」と何度メモを置いてかえっても無視されたり、
報酬とかステータスが目当てだろうと陰口をたたかれたり、
実際に相棒も鬱状態の寸前にまで追い込まれていたことが何度もあった。

いろいろとあったが、わたしの目から見ても3年間よく頑張ったと思う。
そして満願の11月30日の夜。

下半分がぐずぐずとちぎれたようなシールのかけらを手にして、
「うまいこと剥がれんかった」と半べそをかきながら、
わたしに手渡したのである。

この三年間で、埃まみれになったシールは、もうガラス壁の一部として
すっかり定着していて、貼ったときのようには、剥がれなかったのである。
思い描いてきたことが、そのように実現されることはきわめて少ない。
それが現実の生活である。ある意味では示唆に富んだ結末だった。



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sceneryの風景

民生委員というのは、すばらしい仕組みだと思う。
実際に調べたわけではないが、先進国でもあまり例のない組織なのではないだろうか?

高い文化の香りがする日本が誇るべきこの組織が今危機である。
NHKのニュースで不足する民生委員というのを特集で取り上げていた。

わたしたちの子供時代は住宅事情も劣悪で、それぞれの家庭が大家族だった。
気軽に隣の家に上がり込んでいたし、近所のおばちゃんにもよく叱られた。
みんなが貧しかったので、隣近所みんなで支え合っていたのである。

しかし、今更あの時代に戻りたいとは思わない。
何といっても互いに干渉し合わないというのは生き方として楽なのである。

しかし、その分それぞれが孤独になった。
特にひとり暮らしの老人が増えた。
行政も手が回らないので、民生委員の仕事が圧倒的に増えてきたのである。

だから成り手が少ない。少なくなると、現役の民生委員の仕事がますます増える。
完全な悪循環に陥っている。



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