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            日常の風景   NO.0292
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石道温泉

石道温泉は「池田の猪買い」という落語が伝えるように、
昔はさぞかし山深い里に違いなかっただろうという雰囲気はまだすこしは残っている。

しかし旅館の隣には高級マンションが建ち、造成地があり、住宅がありで
街の中にあるヘルスセンターという感じの温泉だった。

わたしたちがチェックインしようとしたときには、
温泉の施設であるゲートボール場から引きあげてくる多くの老人と
旅館の玄関で行き交い靴を下駄箱に入れるだけでもかなりの時間がかかった。

天然温泉でありながら、入浴時間は22時まで。
フロントも22時までという。まったくやる気が見られない。
突っ込みどころ満載の旅館を、文字どおり笑い話にして、
それなりに機嫌よくみんな楽しんでしまうところが我が家族のいいところかもしれない。

気泡風呂、回転風呂、ミストサウナなど
近代的なバス設備はどれもあまり気に入らなかったが、
地下にある洞窟のような露天風呂は山奥の温泉という古臭い雰囲気が漂っていてよかった。

夕食後2度目の露天風呂から上がってくると、部屋に鍵がかかっている。
旅館ではよくあることで相棒や娘たちとは風呂上がりのタイミングが合わないのである。

廊下の突き当たりは、ガラス窓になっていて色あせた薄紫のソファが
ポツネンと置いてあった。
このソファに座り、ビールを飲みながら女性群を待つことにした。

夜更けの温泉は街灯の明りが虚しく道路を照らしているだけで寂しい。
ただ、わたしはこのような異次元の孤独が嫌いではない。
ゆっくりとビールの苦うまさを楽しみながら動きのない外の景色をじっと見る。

窓の外の正面は道路を隔てて建設されている高層マンションである。
突然、マンションの左端の窓に人影が映った。
まったく動きがない風景なので、マンションの擦りガラスに映る黒いシルエットは目立つ。

階段を上がっているようである。
2階、3階、4階。シルエットがゆっくりと移動する。

彼女は(もう勝手にシルエットは若い女性と決めている)
急に頼まれた急ぎの仕事のためにこんなに夜遅くまで仕事をしていたのだ。
健康のために、エレベータを使わないのは長年の彼女の習慣である。

やがて、4階の階段のすぐ隣の部屋にぼんやりと明りが灯った。
彼女はまだ夕食も済ませていない。空腹で疲れ切っていたが、
とにかく一刻も早く熱いシャワーが浴びたかった。

ビールが残り少なくなった頃、予想通り窓際の浴室が明るくなった。
ここでもシルエットを期待したが分厚いビニールのカーテンが、
青く明るくなっただけで動きはまったく見えない。

やがて「あっ、こんなとこでまた飲んでる」という娘の現実的な声で、
夜更けの石道劇場は呆気なく幕を閉じたのでした。



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sceneryの風景

近辺の観光を目いっぱいしてギリギリになってから宿に飛び込んだ
若いころの旅のスタイルが最近では一変してしまった。

温泉旅行ならほとんどがチェックインと同時に宿に入る。
チェックインの30分ほど前にもう宿に着いていることも多い。
ほとんどの宿は30分ぐらい前なら便宜を図ってくれる。

いつものスタイルで訪れた石道温泉だったが、
温泉宿のスタイルがいつものようではなかった。

宿を決めるときはやはり、インターネットから情報や
旅行会社から送られてくるパンフレット、旅行雑誌などが頼りである。
旅館の写真はどこの宿も甲乙つけがたいほど素晴らしい。

石道温泉の料理も「池田の猪買い」を想起させる、ぼたん鍋が名物である。
ぼたん鍋の材料になるのかは、よくわからないが動物舎があって、
そこではイノシシ、名古屋コーチンなどが飼育されている。

わたしたちの部屋の目の前が、その動物舎で、
極端にいえば、壊れかけた薄汚い大きな小屋に過ぎない建物だった。

でもこの小屋が、動物舎として旅館のパンフレットに記載されると
それなりの施設として映っているから不思議である。
プロのカメラマンには脱帽としかいいようがない。

日常の風景は今年はこれが最後の配信になるかと思います。
今年も一年お付き合いをいただいてありがとうございました。
みなさん、よきお年をお迎えください。



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