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            日常の風景   NO.0288
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ころんだ老人

相棒と夕食にでかける。
夕食とは言っても、相棒は純粋に夕食。
わたしはビールがメインで最後にほんのすこしだけ夕食。

だから出かけるときはいつも自転車である。
なじみのカウンターだけのちいさなお寿司屋さんとは違って、
今夜はすこしだけ奮発して、お寿司もあるが割烹店という感じの店にした。

彦根は城下町でまだまだ昔の古い町割りが残っている。
江戸時代には下級武士や足軽などが住んでいた地区は、
自動車が通れる道幅はない。その上やたらと曲がり角が多い。
わたしはこのような路地裏を自転車で散策するのが今でも好きである。

もうすぐ通りに面した目的の割烹店に着こうかというときになって、
薄暗くなりつつある横道に自転車が倒れているのを見つけた。
よく見れば側溝にひとりの老人がうずくまっている。

わたしと相棒はあわてて自転車を降りて、
「どうされました、大丈夫ですか?」と声をかけた。

80歳前後に見える老人は「うんうん」とうなずくがすぐには口がきけない。
自転車の車輪を側溝に取られて、ころんだままじっとしていた様子である。

「おじいさん、家は近所ですか?」と聞いたら、うなずいて指をさすので、
「家まで送ってゆきますよ」と、
わたしたちの自転車はその場所に置いて、相棒が老人の自転車のハンドルを持ち、
わたしが老人を後ろから抱きあげるようにして付き添った。
老人は足を引きずるようにして、15センチずつぐらいしか前に進めない。

買い物の帰りだったのだろう。老人の自転車には近所のスーパーのビニール袋が
段ボールに入ってくくりつけられていた。
「おじいさん、家に家族の方はおられますか?」
わたしは家族を先に呼びにゆくつもりで聞いたのだが、ひとり暮らしだという。

そのうち、老人の全身から力が抜けて、一歩も前に進めなくなり、
その場にしゃがみ込んでしまったのである。
わたしはしゃがんだ老人の両肩をぎゅっと抱いた。

「すみません、すみません」弱々しく恐縮する老人を、
「お互い様ですから」と慰めたが、わたしたちはほとんど途方に暮れた。
肩を抱いたわたしの手には、絶えず老人の細かなふるえが伝わってきた。

これからの約一時間の出来事を
詳しく描けばこのメルマガではとうてい枚数が足りない。
人通りのほとんどない裏通りであるが、様々な人間模様を垣間見ることができた。

わたしたちが道端にしゃがみ込んで困り切っているのに、
くわえたばこで悠々と通り過ぎてゆく人。
偶然車で通りかかり、車を止めて声をかけてくれた髪を赤く染めた近所の若い女性。
ほとんど期待もしていなかったのだが、車を家に止めると駆けつけてきてくれた。
気温が低くなり、寒くなってきたのでタウンジャケットを持ってきて、
おじいさんに着せてくれた。

ラッキーだったことに、通りかかったわたしの知人が、携帯電話で
その地区の民生委員を呼び出してくれた。
結局民生委員、近所の老人のかかりつけの医者など全部で6人がまわりに集まってくれたので、
やっとわたしと相棒は目的の割烹店に一時間遅れで入ることができた。

結果から見ると、まだまだ人間の善意は機能している。
世の中には、いい人もいっぱいいるという印象だった。

わたしたちを含め、民生委員も老人だったし、医者も老人だった。
このような事件は全国いたるところで起こっているのだろう。
老人大国日本。苦くて、でもそれなりにうまい生ビールだった。



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sceneryの風景

いつの間にか、わたしが老人の保護者のような立場になってしまっていた。
誰かが救急車を呼ぼうといったので、わたしもその気になったのだが、
元民生委員の相棒が反対した。老人も嫌がっていた。

老人の自転車に住所が書いてあったので、
その地区の民生委員にやっと連絡が取れてから、状況が動きだした。
家に毛布を取りに行ってくれた人、お医者さんを呼びに行ってくれた人など。

親切な人が何かしてくれるたびに、わたしは
「ありがとうございます」「すみません」と言い続けていた。
臨時で一時的ではあっても、誰かが老人に代わってお礼を言う役割を担うのは、
とても大切なことのように思った。



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