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            日常の風景   NO.0318
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多崎つくるの世界

あの大騒ぎからまだ三ヶ月も経過していないのに
もうずいぶんと昔のことのように思える。
村上春樹の「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」という新刊が、
マスコミで連日取り上げられた日々から。

三ヶ月はわたしの周囲でいろんなことが起こるに十分な時間枠である。
事実いろんなことがありすぎた。
引退した身でありながら、さまざまな変化に追われて、
この本を図書館に予約しておいたことをほぼ忘れかけていた。

洗練されたカラフルな装丁の本を受け取った時には、
それなりに忙しいけれど何はさておいても集中して読もうと決めた。
まだまだ予約を待っている人が多い人気作品である。

図書館で借りる最大のメリットは集中して読むという動機づけが
ごく自然に与えられることかも知れない。
積読(ツンドク)ということには決してならない。

多崎つくるを含む高校時代の5人組を中心にして物語が展開してゆく。
小説の言葉を引用すれば「乱れなく調和する共同体」と表現できるほど
完璧な仲良しグループだった。
男3人、女2人だったが欠けることなく誰もが誰もを必要としていた。

それぞれが大学生になってからもそんな関係は維持されたのだが、
ある日突然多崎つくるだけそのグループから
理由なく切り離されて追い出されてしまう。

当然彼は毎日自殺を考えるほどズタズタに傷つき追いつめらる。
そんな過去を引きずる多崎つくるが36歳になったときから
現在と過去が交錯する物語がスタートする。

現在の多崎つくるの恋人は沙羅という名前の女性で、
有能なツアーコンダクターとして世界を飛び回っている魅力的な人である。
その沙羅のアドバイスにより多崎つくるは過去を訪ねる
巡礼の旅に出かけることを決心するのである。

あのとき理不尽に自分だけグループから切り離された理由を求めて。

巡礼の旅にだけ焦点を合わせれば、この物語は
過去の真実が徐々に明らかになって行く上質なミステリー小説なのかもしれない。

でもわたしはこの小説は村上春樹の哲学書だと思う。
不安で不確実で傷つきやすい人間関係を
いかに本質的な部分で再構築してゆくのかという啓蒙書でもある。

今回はそれほどでもないが彼の小説には必ず神秘主義的な要素が含まれる。
世の中は不思議なこと合理的でないこと理不尽なことであふれている。
それらを理屈抜きで丸ごと受け入れようとするのが、
彼の強烈な人生観で、彼の小説が好きか嫌いかは
不合理なこの部分が受け入れられるかどうかにかかっていると思える。

多崎つくるは自分のことを他の4人のようには色彩を持たない、
何の特徴もない平凡で中庸な人間だと卑下しているが、
そんなことはない。彼は才能にもお金にも仕事にも健康にも恋人にも恵まれた
現代の超エリートである。

そんな彼が純粋に傷つき哲学的に悩む。
あり得ない設定でありながらも読者は村上春樹の結晶のような文体から、
宝石のような言葉から力をもらい共感し共鳴する。
これこそが村上ワールドの真骨頂だと思う。

小説の結末はなんとなくぐずぐずと終わってしまった感じで期待はずれである。
現代という極めて不透明な時代につかまってしまったのかもしれない。
あるいは作者は物語の続きを考えているのかもしれない。
次の物語へのスタートと考えれば、よく準備された結末とも言える。



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sceneryの風景

今日の午後この本を図書館に返却に行こうと思う。
その前に最後にぱらぱらとページをめくって、
偶然に目にとまった村上春樹のフレーズをそのまま2、3紹介します。

「限定して興味を持てる対象がこの人生でひとつでも見つかれば、
それはもう立派な達成じゃないですか」

「俺は何も信じない。論理も信じないし、非論理も信じない。
神も信じないし、悪魔も信じない。そこには仮説の延長もないし、
跳躍みたいなものもない。ただそれをそのものとして黙って受け入れるだけだ」

「実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。
そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。
そこには中間ってものはない、跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ」

「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、
何かを強く信じることのできる自分を持っていた。
そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」



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発行者 scenery
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