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            日常の風景   NO.0316
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前市長と立話

いつもの四つ角を曲がると急に視界が広がる。
青々としたお堀をはさんで左手に彦根城とその裾野に連なる石垣、
右手にはお堀端の桜並木。

頬をなぶるお堀から吹き渡ってくる春風がここちよい。
とてもいい天気なのである。

つい2週間前までは桜祭りで交通規制が行われ、
混雑する車や、観光客、誘導する指導員などでごった返していた混乱が
まるで幻夢のように感じられる。

カラフルだったお堀端もすっかり緑一色に衣替えを済ませ、
もうピンクの痕跡さえ残していない。
こうして季節はゆっくりと着実に歯車を進めてゆくのだ。

桜が終わった後からも市長選挙で街中が騒然としていた。
わずか一週間前の出来事である。
季節と同じで、過ぎてしまえばあの騒ぎは一体何だったんだろうと、
移ろいやすい人々の気分にも思いを馳せていたときである。

偶然に京橋の信号のところで信号待ちをしている前市長に出会った。
よく遣い込まれた登山帽のような帽子を無造作にかぶり、
遣いやすそうで小ぶりなリュックサックを担いでいる。

前市長のこのような姿はよく見かけた。
この道は市長が市役所に出勤するときの通勤通路だったからである。
公用車は決して使用しない人だった。

前市長は多分わたしのことは全く知らないと思う。
でもわたしには何となく親しみが感じられる市長だった。
市長の妹さんとは小学校からずっと同級生だった。

それにわたしの娘が市役所の秘書課に所属していたことがあって、
市長が直接の上司だったのである。
真面目で真摯な仕事ぶりを娘からときどき聞かされていた。

いつもは敬意の目礼を交わすだけだったのだが、
今回は初めて声をかけた。
「応援してたんですけど、残念でしたねぇ、
どうも長い間ご苦労様でした」

「いや、どうもありがとうございました」
前市長はさばさばとした表情で屈託のない笑顔を見せた。
今年で72歳のはずなのに童顔で若々しい。

最後に論争の的になっていた、A候補のことについても触れた。
「あの記事よく書けていましたね。歴史的な事実が市民に分かってよかったです」
A候補は井伊大老を暗殺した薩摩浪士の子孫だった。

歴史的にそのような因縁のある人が、その事実を伏せて
彦根市民でもないのになぜ彦根市長候補に立候補しようとするのか?
前市長にはどうしてもその事実が我慢できなかったのだろう。

「まあ、阻止が出来ただけでも・・・」

あとはつぶやきのようではっきりとした肉声にはならなかったが
わたしには後の言葉もきっぱりと聞こえた「満足しています」と。



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sceneryの風景

京都大学の在学中に現役で司法試験に通ったという前市長。
超エリートコースを歩んできただけに、
世慣れていないというか、書生ぽいところがまだ残っていて、
ごちゃごちゃとした人間関係が苦手なようだった。

一度市長になり、落選して、その次は市会議員になったこともあった。
とにかく真っ直ぐで体面にはこだわらない人だと思った。

この8年間で彦根市の財政を立て直すという地味な努力を
ずっと続けてきて、やっとある程度自分の思うように
予算が使えるような財政状況になってからの落選。
残念至極だったろうことは想像に難くない。

立候補するのに出自には関係がないというのはまったくの正論である。
前市長もA候補の出自を批判するのは両刃の剣で、
自分も批判されるのは覚悟の上だったのだろう。

A候補は政治エリートの家系なので、もし出自を徹底的に伏せて
市長に当選した後になってからこの事実が彦根市民に分かれば、
マスコミの格好に餌食になっただろうし、
市民も傷つき、市政も多少混乱したと予想される。

喧嘩両成敗のような結果になったが、
結果はこれでよかったのだとわたしは思っている。
ひょっとすれば前市長もそのように思っておられるような気がする。

敗戦の弁がよかった。
「わたしの不徳の致すところだとは思っておりません」

これからは市政の重圧から解放されて自由に好きなようにのひのびと
人生を楽しんでください。ほんとうにご苦労様でした。



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