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            日常の風景   NO.0355
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塩の道

昨日に引き続いて今日も栂池(つがいけ)高原のバス停で降りた。
ホテルからは白馬駅までの送迎バスが毎朝出るので、
白馬駅から定期バスに乗って約20分間の距離である。

栂池から千国(ちくに)駅まで
有名な塩の道を2時間ぐらいトレッキングをしようという計画である。
有名とは書いたが、現地で観光案内を見るまではまったく知らなかった。

中世からの歴史的で素朴な道がそのまま保存されているらしい。
栂池のバス停からしばらく歩いて、このあたりかなと地元の人に訊くと、
そこはまだただの農道で一本早かったみたい。

なるほど次の道は「塩の道」という矢印やら、
立派な案内板がにぎやかに林立する一見華やいだ雰囲気の入り口だったが、
曲がってしまうと、先ほどの農道とほとんど変わらない田舎の道が続いている。

車の通行は全面的に禁止で、もちろん舗装もしていない。
両側には田んぼや畑が広がり、
水がいっぱいに張られた田んぼには早苗が等間隔にきちんと植えられ、
その水に青空と白い雲が映りこんでいる。

蛙や小鳥の声がうるさいぐらいで、小道には名前も知らない野草が可憐に咲いている。
訳もなくなぜだか涙がにじみ出てきそうな懐かしい風景だった。
昨日乗った栂池のロープウエイやゴンドラも一望できる。

信州は不思議な土地である。
地上では初夏の季節感で満ち満ちているのに、ロープウエイで20分ほど山の高みに上ると、
そこはまだ一面の雪景色。厚い雪に覆われた冬山そのものの峻厳さが色濃く残っている。

適当に管理され、適当に放置されている塩の道。
最高のトレッキングコースだとごきげんで歩けたのは最初だけ。
徐々に深山の風景に変化してゆく。

両側はうっそうと茂るヒノキや杉木立になり、
小鳥の声は相変わらずだったが、たまに鋭い奇声を放つ鳥も混じる。
蛙の鳴き声はセミの声に取って替わり、まわりは薄暗い。

一番気になったのは人気のコースにもかかわらず、
人ひとりすれ違わなかったことである。
どうやら塩の道を歩いているのはわたしたちだけのようである。

前を行く家内の足が速くなる。
後姿がどうも何かに緊張しているように見える。
声をかけると「熊に出くわさないか怖い」と言った。

昨日栂池高原で家内が「熊の鈴を買う」と言ったのに、
わたしが笑っただけで積極的に取り合わなかったことを責められる。

家内の心配はまるっきり根拠のないことではない。
初日にホテルのロビーで簡単な説明会があった。
そのときに数日前にホテルの近くで熊の目撃情報があったので、
気をつけて欲しいと脅かされたのが響いている。

どうやら中間点の「牛方宿」というすこしひらけた場所に到着した。
現代でいえば車と人が泊まれるモーテルである。
江戸時代には牛と人とが一緒に泊まれた宿が記念館の形で残されている。

牛方宿の入場券を売っている小さな窓口は
近所のおばさんたちの溜まり場になっているようで、
お茶を飲みながら世間話に夢中のようだった。

「熊の鈴置いてませんか?」と窓口のおばさんに聞いてみた。
地図で確認してみると、後半はもっと山深くなりそうな雰囲気なのである。
「あれまぁ、ここには置いてないんよ」
と実に気の毒そうな声で答えてくれた。

後ろで一緒にお茶を飲んでいた老齢の女性が、
「これから山に入ります。お願いします、と大声を出せばいいんよ」
と教えてくれてけろけろと笑った。

牛方宿を後にすると予想通り曲がりくねったより厳しい山に中に入った。
まわりに家内以外は誰もいない。恥ずかしいことは何もない。
家内を安心させる意味もあってわたしはおばさんに教えてもらったおまじないを
声の限りに叫んだ。山奥の熊に届いたような気もする。



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sceneryの風景

わたしたちが歩いた塩の道はこんなところです。
http://www.vill.otari.nagano.jp/kanko/history/shionomichi/chikunigoe.html

糸魚川から松本まで続いている塩の道。
わたしたちが歩いたのは長い道のごくごく一部だけです。
山の中から人家に出るとすぐに千国番所跡/千国の庄史料館という史跡があった。
ここまでくれば目的の千国駅には目と鼻の場所である。

油断してここでのんびりと休憩し過ぎたのが悪かった。
到着した大糸線の千国駅は全くの無人駅だった。
まわりには何もない。最悪なことに次の電車が来るまでには2時間半もある。

とりあえず昼食に行こうと国道まで戻り食事をしていると激しく雨が降ってきた。
当分止みそうもない。やむを得ず食堂の人に頼んでタクシーを呼んでもらった。
千国駅から白馬駅までタクシー料金は3500円。

不安と(わたしは正直熊は少しも心配していなかったが)
疲労と、乗り遅れと、悪天候と、無駄な出費というトラブル続きだったが、
今までの数多くの旅の経験からこれぐらいのトラブルは
振り返ってみれば大歓迎なのである。

今まで30回以上家内と外国にも旅行したが、
家内と話す思い出は旅でのトラブルの話ばかりである。

バンクーバーで航空券を盗まれ、空港のベンチで2泊したこととか、
モスクワで芸術的なスリに出会い、中身を取られ、
空の財布をポケットに返されていたこととか、
ニュージーランドの山の中で家内がはぐれ、夕暮れが迫るなか必死で捜したこととか。

とにかくトラブルは鮮烈に記憶に残るが、
順調な旅は時間と共にほとんど忘れてしまう。
今回の6泊の旅も一番記憶に残るのは多分塩の道だと思う。



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