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            日常の風景   NO.0377
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露天風呂で人生を

「ゆっくりと温泉にでも」というフレーズを、
時間ができて、日常とは違う何か特別な楽しみを求めるときに
日本人はしょっちゅう口にする。

確かに温泉はいいものであるが、家族とであれ、友人とであれ、
時間とお金とそこそこの健康な体があれば必ず行けるというものでもない。
日頃から無意識のうちに築き上げているきちんとした人間関係が
その背景にあればこそだと思う。

温泉旅行の目的は年を取るごとにかなり変化してゆく。
若い頃は近場の観光地を目いっぱい楽しんで、
夕食直前に宿に入り、慌ただしく温泉に入り、
夕食のごちそうを前にしてビールをたらふく飲み、
それだけで明日に備えてのリフレッシュができたものである。

だが近年は年寄りらしくほとんどが湯治スタイル。
チェックインとほぼ同時に宿に入り、湯に浸かる。
今回の白馬温泉に6連泊もそれで、観光にもほとんど出かけない。

白馬三山と呼ばれる白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳。
その白馬三山がどんと正面に見える温泉に浸かっていると、
エネルギーが充てんされてリフレッシュするというよりは、
逆にエネルギーが吸い取られてゆくような気がする。溶かされるのである。
命が自然の中にくにゅくにゅと浸み込んでゆくような気分になる。

空っぽで、虚脱し、ふやけた気分。
これはこれで悪くない気分である。

年寄りだけが味わえる脂の抜けたもう十分という満足感。
大自然の中にすっぽりと包まれていると、生きているということも
死んでいるということも大した違いはないのではないかと思えてくる。

身内とごく親しい友人しか知らない事実であるが、
実はわたし、50歳の時に一度死んでいたかも知れないのである。

もちろんまだ現役だった。
課は違ったが同じ大学で気の合う同僚と大津駅近くで飲んでいた。
気分のいいお喋りで、互いに好きなことを好きなように話した。
話の内容までは覚えていないが、そのときの相手の表情まで今でも思い出せる。

相手と別れ、約40分間電車に乗り自宅の最寄駅、南彦根駅に着いた。
ホームを降り、トイレに行きたくなったので階段を速足で上っていた。
わたしの記憶はそこでぷっつりと途絶えるのである。
自分が階段を急いで上っているシーンが最後の映像。

まわりが騒がしいので目覚めたら病院のベッドで寝かされていた。
後から聞けば南彦根駅のトイレで倒れていたということである。
くも膜下出血だった。

あのまま目覚めなければ、わたしは死んでいたということになる。
もし生き返らなければ、自分で言うのも何んなのだが、
何という素敵な死に方だったんだろう。

恐怖も心配も苦痛も悩みも何もなく、機嫌のよい高揚とした気分のまま
普段の日常が途切れることなく、そのまま別の世界に移動した。
理想である。自分で自分がうらやましいと思ったりもした。

あれから20年。何とか古稀の今まで生きてこられた。
それはそれでとてもよかった、ラッキーだったと感謝している。
生きても死んでもそれほどの違いはない、との実感はここからきている。

わたしの宇宙好きも関係しているように思う。
どのような文明も文化も知識も宇宙レベルの時間の流れでみれば、
最後には間違いなくすべて跡形もなく消滅して終わるのである。

大自然に抱かれ陶然とした温泉にエネルギーを溶かされながら、
何となくそんな昔のことを思い出していた。



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sceneryの風景

上記のことはもちろん自分だけのことを考えればという条件が付く。
万一のことがあれば家族や職場には多大の迷惑をかけたに違いない。

でも職場は次の日から長期に休まざるを得なかったわけで、
誰かがわたしの代わりを務めてくれて、
あまり目立った支障はなかった。

やはりかけがえのない自分という存在の大切さは、
ほんとうは家族だけのことだと思う。
でもそうなればなったで家族も何とか乗り越えてくれただろう。

「なるようになる」

「その時はその時、その時もその時」

「人生に意味なし、生きるのみ」

最近はこんな野太い人生訓が大好きである。



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