*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*
            文章スケッチ   NO.0011
*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*

百円玉の冒険

地元のスーパー銭湯を出ようとするとき西日が目にまぶしかった。
日がまさに今、暮れようとしている。

銭湯のレストランで夕食も済ませたし、家内とふたり
家に帰って取りためた映画でも見ようと考えているときに、
ふと脱衣場のロッカーから百円玉を取り忘れたことに気付いた。

ロッカーを使用するときには百円玉が必要だが、
ロッカーを空にするときにはその百円玉が返ってくるシステムである。

すぐに取りに引き返そうと思ったのだが、
大勢の人で混雑している場所にまだ残っている可能性はあまりない。
残念だが諦めることにした。

月曜日は家内とスーパー銭湯でのんびりとする日である。
わたしは家で入る内風呂はあんまり好きではない。
風呂嫌いというほどでもないが、何となく億劫で
生活のルーチンとして仕方なくこなしているという感じ。

でも温泉旅館の大浴場でゆったりと過ごす時間は大好きだし、
スーパー銭湯での時間も悪くない。
炭酸風呂の大浴場。ジェット噴射のマッサージ風呂、
電気風呂、3種類のサウナ風呂、露天風呂、壺湯など、
風呂の種類が多い上にレストラン等の休憩の施設も整っている。

WiFiが使えて、1万冊の漫画が読み放題。
年に数回ある特売日に回数券を購入すれば、
1回の入浴料がわすが500円でまかなえるのも
年金生活者にしてみればありがたい。
とにかくわたしにとっては心からリラックスできる場所なのである。

百円玉はあのとき完全に諦めたつもりだったのに、
人間の心理というのは妙なところにこだわりが残るもので、
脱衣場でロッカーを使用するたびにふとその事を思い出す。

無料で使用できるが一時的に百円玉が必要というシステムは、
わたしの感覚からすればうっかりと忘れやすいものである。
それから意識して空のロッカーの投入口を注意深く見るようになった。

月曜日の昼間である。銭湯のお客さんは圧倒的に年寄りが多い。
誰かがうっかりしても不思議ではない状況なのに、
お金がからむと急にみんなしっかりとした行動を取るようである。
3か月間まったくその気配もなかった。

ところが懸命の努力の甲斐があって、この間ついに見つけたのである。
空のロッカーに残っている銀色に光る百円玉を。

恐る恐るロッカーの中が完全に空であることを確かめて、
ゆっくりと後ろを振り返って、
誰も見ていないことを確認してから素早く手元に収めた。

3か月以上かかったが、
こうして無事に百円玉はわたしの元に帰ってきた。
手のひらをゆっくりと広げると、まさにあの時にわたしが失くした
百円玉と色も、柄も、大きさも同じものだった。

「3ヶ月もおまえどこを旅してきたのだ」と
心の中で満足気につぶやいた。



----------------------------------------------------------------------
sceneryのひとこと

百円玉に関しては若いときの思い出がある。
今からもう40年以上も昔の話である。

昼休み、社員食堂でいつものように列に並んで、
前後で同じように待っている同僚とおしゃべりをしていた。

順番が来たので、料理を決めお金を払おうとしていたら、
前にいた同僚が
「あっ百円足らん、悪いけど貸してくれへん?」
と言ったので、すぐに百円玉を彼に渡した。

それっきりになってしまった。
彼は借りたことを完全に忘れてしまったのである。
山男で誠実ないいやつだった。

その彼も何年か前にわたしに百円の負債を残したまま
逝ってしまった。

もちろん当時はすこし不快な感じだったが、
今から振り返るといい思い出に変化している。
わずか百円のことで、あの日の何でもない
いつもの食堂での日常が鮮やかに思い出せるのである。

別に千円でもよかったような気がするが、
千円なら想い出には残らなかったと思う。
千円なら誠実な彼が忘れることはなかっただろうし、
千円ならわたしも請求していた。

小銭でもない、大金でももちろんない。
この微妙な間合いの金額百円だからこそ、
人生に思い出や、ちょっとした物語をつぐむ。
わたしはいつの時も輪郭のはっきりとしないものが好きである。



----------------------------------------------------------------------
発行者 scenery
north@zd.ztv.ne.jp
HP 日常の風景
http://www.zd.ztv.ne.jp/scenery/

----------------------------------------------------------------------
日常の風景が本になりました。ご覧ください。
http://www.geocities.jp/scenery_jp2/book/book.html

----------------------------------------------------------------------
このメールマガジンは、

『メルマ』  (マガジンID: 50779) http://www.melma.com/
『まぐまぐ』 (マガジンID: 79888)   http://www.mag2.com/

を利用して発行しています。

----------------------------------------------------------------------
メールマガジンの退会・解除は
http://www.zd.ztv.ne.jp/scenery/ からお願いします
----------------------------------------------------------------------