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            文章スケッチ   NO.0035
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旅立った師匠

わたしの将棋の師匠が突然遠くに旅立った。
木曜日になじみの鮨屋に出かけて、適当に飲んだ後、
師匠と将棋を指すのがとても楽しみだった。

お客さんが10人も入ればもう満室になってしまうような
小さな鮨屋で、一番奥の隅っこが師匠の指定席だった。
師匠の前には二人掛けの小さなテーブルがあり、
そのテーブルには手彫りで将棋のマス目が彫ってある。

最近はかなり私の方の勝率が高くなってはいたが、
師匠に将棋を誘われた10年ぐらい前は、
連戦連敗でとても歯が立つような相手ではなかった。

わたしは負ければもちろん悔しいのだが、
それ以上に勝った師匠の満面の笑みが気持ちがいいほどあけすけで、
ひょっとすればこれは最高のボランティア活動なのかもしれないと
割り切れる部分もあった。

当時は宅老所のボランティアもしていて、
かなりの老人とかかわりを持っていたのだが、
こんなに素直に喜びを表現してくれる人は居なかった。

でも勝負事だから、できれば勝ちたい、強くなりたい。
わたしはいつの間にか本格的に将棋にのめり込んでいた。
将棋の本を精読し、NHKの将棋番組も欠かさず見た。
彦根市の将棋クラブにも加入して、いろんな相手と指すようになった。

一年もしないうちに師匠とはほぼ互角に指せるようになった。
クラブで他の人とも指すようになって、正直なところを書けば、
将棋が大好きだった師匠の実力は初段にも届いていなかったと思う。
そしてその師匠に勝ったり負けたりのわたしにも将棋の才能はなかった。

お互いに飲み屋のテーブルで、なじみの飲み客に囲まれ、
わあわあといろんなことを口出しされながら、
にぎやかに将棋を楽しむ典型的なヘボ将棋だった。

師匠の人生はあまり幸運なものとは言えなかった。
奥さんには早くに死別、男手ひとつで苦労して育てた二人の子供も、
独身のままで、孫にも恵まれなかった。
「金がない」「金欠病や」というのが口癖だった。

しかし、なじみの鮨屋の指定席にはほぼ毎日座っていたし、
パチンコや競馬の勝負事も最後の最後まで楽しんでいたが、
3千円から4千円ぐらいの範囲で勝ったり負けたりと、
割とほどよく上手にギャンブルを続けていたと思う。

本を読むのも好きで常に図書館から何冊もの本を借りていた。
将棋をしながらよく互いの好きな作家の話もしたものである。
師匠はお金がそれほどなくても
人生は楽しめるものだというお手本のような人だった。

師匠が亡くなる一週間前の木曜日。
その日もわたしと将棋をする気は満々だったのだが、
如何にも体調が悪そうに感じられたので
「師匠、今日は止めておきましょう」とわたしから断った。

その翌日に肺炎という診断で市立病院に入院。
わずか一週間の入院で亡くなった。
何も知らなかったわたしはいつものように翌週の木曜日に、
将棋をするつもりで、なじみの店に出かけて訃報を知らされた。

享年79歳。
師匠、死に方までお見事でした。
いままで楽しい時間をありがとうございました。
すぐに追いつきますので、天国でまた下手な将棋を指しましょう。



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sceneryのひとこと

「今年はコロナであかなんだけど、来年は今年の分も派手に花見をしましょう」
と、上記の飲み屋で去年そんな話をしていた。
まさか、1年後の今年も花見もできないなんて想像もできなかった。
東京オリンピックも1年も延期すれば気持ちよく開催できると思っていたのである。

かつて天然痘、ペスト、スペイン風邪などのパンデミックに襲われて、
何千万人もの死者を出したことのある人類。
当時は原因も治療法もわからなかったので、神に祈るしかなかった。

現在の時代は、有難いことに病気の原因は特定できている。
過去のパンデミックに比べれは死者の数も圧倒的に少ない。
ワクチンも開発された。

だが、デフォーの小説「ペストの記憶」などを読むと、
当時と現在、状況はほぼ似通っているのに情報量は圧倒的に違う。
世界の毎日の患者数や死者数がリアルタイムでわかる時代なのだ。
人類はコロナと共に、この情報に日々振り回されているような気がする。

「ペストの記憶」の時代にあっては、人々は恐れおののきながらも、
案外のんきに暮らしている部分もある。
諦観というか、運命や不条理をなんとなく受け入れている。

もともと人生は不条理なものだと思う。
特に古希を超えたような老人は、自分ができる範囲である程度気をつけて、
それでも弾に当たれば運命としてそれを受け入れる。
すべてを神というか、大自然にゆだねるような気持ちが
情報過多の現代人には欠けているような気がする。

新聞とラジオしかなかったわたしの子供時代に、
この新型コロナの流行があれば、こんなに大騒ぎにはならずに
たちの悪い風邪がはやっている。かかれば死亡する率もかなら高いらしい。
という噂が1、2年続いて自然に収束したような気がするのだが・・



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