西の城、中の城、東の城、(長野氏城跡)

美里町北長野の長野氏城跡(西の城、中の城、東の城)は、室町時代約300年間にわたりこの地方(現津市の北半分)を支配した長野氏の城跡です。美里町桂畑の長野城址が有名ですが、市立長野小学校の東にある3つの城跡も、長野氏の城として「三國地誌古城図」に記載されており、現在もその古城図に描かれたとおりの形状を保っていることから、桂畑の長野城址とともに国の史跡に指定されています。
西の城、中の城、東の城は、長野小学校の東の山中において、L字形に連続しており、歩きながら3つの城跡(頂上)を巡ることが出来ます。
西の城、中の城、東の城ともに、2段3段の台形状になっており、頂上は平地になっています。
この時代の城には、石垣はありませんが、それぞれ登ってみると、その形状がはっきりとわかります。

西の城は、標高260m、地元では「経塚」と呼ばれていました。
「経塚(きょうづか)」とは、山岳信仰のためにお経(の巻物)を埋めた場所のことです。この場所に、それ(経塚)とわかるもの(石の塚とか)は何もなく、本当にお経が埋められていたかどうかは、わかりません。
西の城から中の城へ、屋根伝いに移動する途中には、見晴台があります。
この場所から、桂畑の長野城址をはっきりと見ることが出来ます。
戦時には、ここと桂畑の長野城との間で、狼煙(のろし)で合図をしたのかも、と想像が膨らみますが、ここ(西中東の城)と桂畑の長野城を同時に使って長野氏が戦った、という記録は、今のところありません。

中の城は、西の城、東の城に比べ、頂上は倍くらい広くなっています。標高220m、地元では「タモノキ山」と呼ばれていました。現在も、頂上の周囲に大きなタモの木が何本もあります。

東の城は、標高200m、地元では「城山(じょうやま)」と呼ばれていました。
伊賀街道(現在の国道163号)のすぐ北側にあります。東の城の頂上からも、桂畑の城址が見えます。

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