久居城下案内人の会

◇◇◇◇ 久居の見どころ ◇◇◇◇


案内コースの他、久居にはたくさんのみどころがあります。 ↓ ↓ ↓

**創作紙芝居**

  <小戸木(こべき)物語>

昔、川島村(鹿島村)と言われていた現在の小戸木橋近くの小戸木の小さな集落のお話し。
小戸木村は一志平野の肥沃な土地に恵まれていました。しかし、雲出川の氾濫で一夜にして荒れ地化してしまうことが度々ありました。
   そこで、高台の巽が丘にへ、更には藤堂藩がやってくると久居の城下町づくりで本村の東へと集団移転の繰り返しとなってしまいました。
   明治の町村合併の際には、元の小戸木へもどるという時代に振り回されながらも小戸木の人々は強く生き残りました。

  <須ヶ瀬町郷土史>

須ヶ瀬町の集落は本流の雲津川、支流の波瀬川、中村川の三つの河川に挟まれた位置にあります。
昔、暴れ川であった雲出川はその流れを幾度も変え、その度に村は大きな被害に遭いました。
 記録資料は、ほとんど残っていませんが、昔から伝わる地名を辿ると須ヶ瀬の歴史を垣間見ることができます。

  <国友さまの飛行機>
昔、鼻がべらぼうに高くて大きい人が久居の城下にいたそうナ。その名は国友さま。
  自分はその顔からして天狗のようだと自慢していたのはいいが、ひょっとしたら、空を飛べるかも知れない。
  そうだ鳥のように羽をつければいいんだと、とんでもないことをおもいついて、これを実行。
  果たして、国友さまは空を飛ぶことが出来たか?
  <西島八兵衛の雲出井(くもずゆ)>
江戸時代のはじめごろ、雲出川の下流一帯に、日照りがつづき、水田は彼、コメの収穫ができないとしがあり、お百姓さんたちは困り果てていた。
これを知った津藩主は土木工事に詳しい西島八兵衛に安定した米作りを命じました。
 八兵衛の考えた方法は?
 それは、雲出川の遠い上流から取水し下流の水田に配水する水路「雲津井」でした。
  <藤堂高通と久居藩>
  寛文九年(1669)本家津藩を支えるとして野辺野の地に藤堂高虎の孫高通が末永くここに居たい、「永久鎮居」ということから「久居」と名付けられ、城下町づくりが行われた。
  藩祖高通は歌人、俳人大名といわれ、多くの俳句をのこし、久居は文化の町として発展し、久居藩から儒学者、医者、商人等多くの偉人を輩出しています。
  <寛政の農民一揆>
  江戸時代の幕末は各藩の財政は苦しい年がつづきます。
    津藩、久居藩も例外ではありませんでした。それは、天候不順で凶作、河川の氾濫、はしかの流行、大火事等が重なり、倹約に努めますが、財政の悪化に深まるばかりでした。
  そこで、とうぜんんおように百姓たちは財政改革のしわ寄せとなるが、これに抵抗する津藩内の百姓が集結し寛政の農民一揆の勃発です。
  このとき津藩はどのように対応したのでしょう。
 <久居焼けと立て直し>
 久居城下のまちは丘陵地の高台に造成されたので一端出火すると商家の水を確保することが難しく、江戸時代には多くの火事が発生した。
 なかでも文政四年(1821)の久居城下の大半を焼け焦がした大火は「久居焼け」といわれ、復興に久居藩の財政は苦しくなってきますが、藩士、農民、町民が一丸となって、これに立ち向かいます。
  <農学博士 上野英三郎水田づくり>
  上野英三郎博士は明治、大正にわたり、日本の農業発展のために尽くした久居出身の農業土木博士です。
  明治以前に開発された水田では欧米の農業に太刀打ちできないと、近代的な耕地整理を学術的な方法で全国にふきゅうしたその功績を博士にかわいがってもらった「はち」のボクが紹介するよ。
 
  <はちこう>
  はちこうは主人の上野英三郎博士に大変かわいがられ、博士がおつとめに出るときは、渋谷の駅まで送り迎えをしていたが、博士がつとめ先で急死してしまた。
  何も知らないはちこうは9年余りも帰らないご主任を今か今かと迎えに行くのです。
  やがて忠犬ぶりは全国に広がり、渋谷駅前に建てられた「はちこう」の銅像は今でも博士を待ち続けているようです。

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