久居城下案内人の会


◇◇◇◇ 久居の見どころ ◇◇◇◇


案内コースの他、久居にはたくさんのみどころがあります。 ↓ ↓ ↓

**木造氏の歴史ものがたり**







・正平21年(1366)
初代伊勢国司”北畠顕能(あきよし)”の次男”顕俊(あきとし)”が分家し、北伊勢へのまもりとして、「木造の稲垣」に城を構えた。
”顕俊(あきとし)”の第1子は早死にし、第2子”俊康”が、京都から戻ってきて二代目の家督を継いだ。
”俊康”は、本家伊勢国司2代目”北畠顕泰(あきやす)”の養子として在京出仕し、足利幕府とは 親しかった故に、反幕行動をとる本家伊勢国司3代目”北畠満雅”とは対立関係にあった。

・応永22年(1415)
伊勢で挙兵した”北畠満雅”は、足利幕府攻めの呼びかけに応じなかった事で、北畠一族の”木造俊康”の坂内城を攻め落とし、波瀬城主”坂内雅俊”(俊康の実弟、坂内氏初代)に木造城を攻め落とさせた。
(満雅の弟”顕雅”(あきまさ 大河内氏初代)を大河内城に、玉丸城・多気城・坂内城にも一族を配し、”満雅”自身は阿坂城に入った。)
しかし、”俊康”は、幕府軍の加勢を得て、木造城の”坂内雅俊”を敗走させ、木造城を取り戻した。
・(永享元年(1429)”北畠満雅”は岩田川の戦いにて討ち死にした。)

・文安4年(1447)
3代城主”木造持康”、牧城を築き、弟”康重”は「牧氏」と名乗る

・名桜5年(1496)
6代城主”木造正宗”、川方城を築き、”弟”康親”は「川方氏」と名乗る。それぞれ、本城木造城を守る砦とした。

・享禄3年(1531)
7代城主”木造俊茂”、古城から300m北の湿地帯に3年かけて新城を築いた。(現在新城に、碑が立つ)。堀を二重三重に、南側に侍屋敷を設け寺社を配し、道路を整備した。。

一志郡内の雲出七郷、七栗七郷、野辺、園倉(其倉)、木造、大柳、牧、新家、戸木、石橋、川方の村々を領地とし、その勢力は家中侍600、小人400合わせて1000の大将となった。

・天文9年(1540)
8代城主”木造具康(ともやす)”死去。国司第7代当主”北畠春具(はるとも)”の三男が養子に入り、9代城主”木造具政(ともまさ)”と号した。
(”北畠晴具”の時代は南伊勢、志摩国、伊賀国の南部、大和国の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ一大勢力となり、8代当主”北畠具教(とものり)の代には、北伊勢に進出し、最盛期を迎えた。)

・天文年間(1532-1533)
9代城主”木造具政(ともまさ)”が北側からの備えに、宮山(みややま)城を築いた。
・天文23年(1554)
”具政(ともまさ)”入道となり、戸木(へき)城(戸木御所)に移る。

・永禄12年(1569)
”具政(ともまさ)”本家北畠を背き、織田信長の伊勢侵攻の案内役となり、信長の次男”信雄(のぶかつ)”の配下となる。
兄”北畠具教(とものり)、人質となっていた木造筆頭家臣である”柘植三郎左衛門”の娘9歳を雲出川南岸で殺し、串刺しにして張り付けた。 8月23日信長勢木造城に入る。
8月26日木造城を大河内城に出発。
8月28日より大河内城の戦い、籠城戦となる。
10月3日信長の次男”信雄”に北畠の家督を譲る条件で和睦し、具教、具房親子は城を退去。

・天正10年(1582)
 本能寺の変 織田信長死去。

・天正12年(1584)
5月5日牧城、落城。
5月20日宮山城 ”家所帯刀(いえどこたてわき)”が風早池の西に陣取り、木造方も柘植彦次郎、田中道京、海津六郎左衛門、河原田伝次郎らが応戦したが、落城。
5月28日川方城 ”蒲生氏郷“勢に取り囲まれ籠城、戸木御所からの援軍を得たが、夜討ちあいに落城。
”氏郷”は田丸直晶、小島民部少輔ら、戸木城に対して4か所の付城を築き包囲した。
木造城の勢力も戸木城に集結し、籠城となった。ある時は討って出たりした。

9月15日刈り田の夜合戦
  戸木籠城の将兵500余名が兵糧にする為、敷地内の見永、小川表(現 雲出川流域の嬉野辺り)まで中秋の名月の月明かりの中、刈り田に出向いた。
菅瀬(須賀瀬)で戦いになり、木造勢優勢で進む中、その大将の一人”中川庄蔵”は、菅瀬村の見永の川辺で”蒲生氏郷”と出くわし、斬りあいになった。
氏郷の従兵”田中新平”が割に入り、新平は討ち取ったが、氏郷を逃がしてしまった。菅瀬村の高橋で“またも”氏郷に出くわした。そこに、又も氏郷の馬前に名乗り出た”黒川西”をも討ち取った。
庄村(見永から4km程の地点)で“三度目”氏郷と出会った。だが、氏郷は槍を振り上げると駈け通っていった。
討ち取った田中・黒川の首を持たせた下人が、敵方に捕まってしまったが、翌日無事戻されてきた。
下人が言うには、「昨夜の戦いでは氏郷の兜に鉄砲が三発命中していた。首を取った者は誰かと尋ねられ、中川庄蔵だと答えると、三度まで渡り合った働きを氏郷はじめ感心していた」そうである。
後、庄蔵に”敵ながらあっぱれ”と槍一筋を褒美として贈った。
10月下旬、長期化戦してきたので、遂に一身田専修寺の門跡”堯慧(ぎょうえ)”が間に入り、和睦が成立し、落城となった。

・天正14年(1586)
”織田信雄”は秀吉により配流され、”木造長政”は員弁、岐阜と移り、10代200有余年続いた木造氏は雲出川から消え去った。








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