久居城下案内人の会


◇◇◇◇ 久居の見どころ ◇◇◇◇


案内コースの他、久居にはたくさんのみどころがあります。 ↓ ↓ ↓

久居の神社〜延喜式内社と八幡宮〜



旧久居市内の神社には、(延喜)式内社*が多い。
川併(かわい)神社(元町)、物部(もののべ)神社(新家町)、敏太神社(とした)神社(戸木町)の他、
射山神社(榊原町),稲葉神社(稲葉町)。全国3,132座、伊勢国253座、一志郡13座のうち久居に5座もある。
伊勢国は大和国286座の次に多い。

**(延喜)式内社とは**
平安時代延長5年(927)成立された延喜式の巻9−10神明帳(神社リスト)に登録されている由緒ある神社


  <川併(かわい)神社>
津市久居元町2099 MapFan川併神社
平安時代以前の創祀。戦国時代、荒廃に帰していた
久居城下設置以前、「野辺惣社」として、村域の氏神であった。
寛永2年(1625)本殿が造立され、同7年には山城国宇治郡木幡神社より八王子を勧請して配祀された。
元禄4年(1691)社殿が造立で、久居藩主参列のもと盛大な完成式典が斎行された。
寛永2年(1625)を最古として江戸時代の棟札を25枚伝える。
津市須賀瀬町にも、「川併(かわい)神社」はある。





  <物部(もののべ)神社>
津市新家町563Mapfan物部神社
創立は不詳。寛保元年(1741)雲出川の堤が切れ、家屋浸水 巻物など書籍類も残らず流失した。
以後居住できなくなったため村人は現在の地に移住したので創立当時の確かな記録はない。縁起を記した巻物が出ている。社は所替せず古来の地にある。

宮内の南中央に「やまべかりの宮」と刻された標石が建つ。
旧記には、「山辺行宮、祭神牛頭天王一座素盞嗚尊之荒御魂也。山辺行宮。止由気大神遷幸(とようけびめのかみ)、山田原へ渡過の時、一宿の旅館、是れその地也」とある。
「元伊勢外宮」の巡行地である。
日本書記に、21代雄略天皇の時代(485年)行の宮に奇妙な光あり。邑の長、行く手を見れば光の中に暴形現れ、 「吾は是れ、素盞嗚の荒魂なり。皇太神の旅道守護のために出て副い来ぬ。 此の地に留まって慈恵を分布かん。吾、根の国より帰らんとする時、少しの間滞在した地也。 」 とあり、当地にその宝殿を経営したと記れている。
奈良時代の天平12年(740年)、第45代聖武天皇が伊勢行幸の時、頓宮が置かれた記念碑である。
宮域の東北に「山辺の御井の旧跡」という小塚がある。





<敏太神社(とした)神社>
津市戸木町2436 MapFan敏太神社
奈良時代の創建。紀貫之が古今和歌集の勅撰のとき(905)参拝したと伝えられている。
戦国時代には木造氏の守護神として、江戸時代には久居藩藤堂氏の祈願所として崇敬を集めた。
松阪市美濃田町950-1 にも、敏太神社はある。「みぬた」神社と読む。





<久居八幡宮>
津市久居二ノ町1855MapFan敏太神社久居八幡宮
寛文9年(1669)藤堂高通公により、野辺野の地に久居藤堂藩が立藩され、城下町が作られた
。 その際、寛文10年(1670)領内で崇められていた小戸木村(旧鹿嶋村)の八幡宮を御殿の鬼門の方位に当たる地に移し、久居の地の総守護神、代々藩の祈願所としていた。
社内には、「長開寺(真言宗)」が開基されており、藩主の元服式、厄除け神事、領内の祈祷が行われていた。当時の神仏混合である。 明治維新の廃仏毀釈により、長開寺は廃寺となってしまった。
明治41年、万(よろず)町の「愛宕神社」、西鷹跡町の「久居神社」他21社が久居八幡宮に合祀され、「野辺野神社」と改名された。
令和2年1月1日御鎮座350年を節目に、「久居八幡宮」に戻した。







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