1. 本日は「しなやかシニアの会」の催しにようこそお越し下さいました。今回は、ここ、義仲寺ゆかりの木曽義仲(源義仲)についてお話をさせていただきます。

2.皆さんがお持ちの義仲のイメージはどのようなものでしょうか。
 
 木曽から京都へ旅行に来た人が、宿の女将さんに
「木曽義仲について知っていますか」と聞いたら、
「義仲はんどすか。知ってます。京都の人は迷惑したんどすえ。何しろ大将が乱暴者やから 家来も行儀が悪うて。往生した法皇はんが鎌倉の頼朝に頼んで退治して貰わはったんや」と、こんな答えが返ってきたそうです。
 残念ながらこれが一般的な評価だと思います。

3.その頃、都は養和の飢饉という大飢饉の最中でした。
 当時、都では4万人の行き倒れがあったというのです。ただでさえ食料不足のところへ一気に北陸から5万とも6万とも言われる兵士がなだれ込んだのです。当然大混乱が起こったに違いありません。

 都へやって来たのは兵士ばかりではありません。5万の軍隊と共に馬も入ってきたのです。
 8月、ちょうど青田に白い花がつき、これから稲が実るという時、馬達がそれを勝手に食べてしまうのです。農民は、これでやっと飢饉が解消されると次の実りに期待していた時なので、その怒りは大きかったことも否定できません。

「兵士に馬はつきものだ。馬まで取り締まれない」と義仲が嘆いた言葉が残っています。

4.タイトルは「義仲の謎の部分に迫る」といたしました。

鎌倉幕府は「吾妻鏡」という立派な歴史書を作って頼朝の業績を記録しています。

 しかし、義仲は敗軍の将なので、地元では証拠となるものを破棄しているのです。僅かな地方史と伝承が伝わるのみで、確かなことはわかりません。貴族の日記の記述以外に適当な資料がないので、ほとんどを平家物語に頼らざるを得ません。2才から28才で旗挙げするまでの間、木曽に隠れていた期間のことは全くわからないと言ってもいいのです。

それでは、平家物語には義仲の都での様子が何と書かれているかといいますと・・。


5.御所に呼ばれた義仲が、着なれない貴族の着る直衣を着てゆるゆると牛車に乗り込んだ途端、牛飼いがこの時とばかり一気に牛に鞭を入れて暴走させたので、中で義仲はひっくりかえり、長い袖を翻して蝶々のようにバタバタしていたと笑い話にしています。

この牛飼いは、以前平家の統領宗盛に仕えていた者をそのまま雇用していたのです。

現代風に言えば、昔の会社の社長の運転手をしていた男が、会社を乗っ取った新しい社長に乱暴な運転をして、嫌がらせをしたというわけでしょう。

 

6.また、猫間中納言という人物が義仲を訪ねて来ました。取り次いだ郎党に、「猫が人に見参するのか」と言ったので、「いいえ壬生の猫間というところに住んでおられるので猫間中納言とお呼びするのです」と答えます。

「そうか、折角こられたのでお食事を差しあげよ」と義仲が食事の用意を急がせると、「いや結構、今は食事の時間でないので・」と猫間中納言が断っているのに、無理に勧めたというのです。仕方なく猫間さんがちょびちょびと箸をつけると、「猫間殿は、小食で猫降ろしと同じだ。もっと、もっと召し上がれ」と田舎者が、無理強いしたというのです。

 つまり「食いねえ、食いねえ」と言って嫌がられた話です。

 

7.また、鼓が上手で鼓判官と呼ばれている人物が法皇の使いとしてやってきた時のことです。この人物とはもともと仲が悪かったらしく、義仲はこんな嫌がらせを言っています。

「貴方は鼓判官と呼ばれているが、顔を張られたのか、それともぶたれたからか」

鼓判官は怒って帰ってしまいました。彼は後に後白河法皇と義仲の戦いのきっかけを作ったとされています。

こうした義仲の言動をユーモアととるか、田舎者の無知ととるか。

 

8.義仲は28才で木曽の旗揚げ八幡で蜂起し、3年もかかって北陸を勝ち進みながら、やっと都に入ったのが夏の盛りの7月27日でした。しかし年があけて1月21日、粟津の氷の張る沼田で滅んだのですから、木曽の人は、京都人はいけず(意地悪)して故郷の英雄義仲をわずか半年で殺してしまった、と思っているのです。

 

9.平家物語が乱暴狼藉をしたと書いたため、現在でも、口論の度に、「なんだ、木曽の山猿が・・」と言われて悔しい思いをすることが間々あるそうです。

 これも皆、平家物語のせいだというのです。

 

10. そこで私が「木曽の皆さんは、義仲がこの地に流れて来たことで迷惑したのではありませんか。彼が負けたので、その後も隠れ住んだり、苗字を変えたり、不自由な生活を強いられわけですから」と聞くと、皆、口を揃えて「とんでもない、義仲は我々の心の拠りどころ、皆愛しています」と、身内のように親しみを感じているのです。義経に対する判官びいきとは少し違うような気がします。

 今でも木曽の方の苗字は、今井さん、樋口さん、楯さん、金指さん、と殆どが平家物語にでてくる武将の名前と同じです。今も先祖のDNAを受け継いでいるのかと思うほどです。

  

11. 義仲は木曽義仲と呼ばれているので、木曽で生まれたのだと思われる方も多いのではないでしょうか。実はそうではないのです。義仲は、武蔵の国、今の埼玉県嵐山町大蔵という所で生まれました。この町の鎌形八幡の境内には、義仲が産湯を使ったと伝えられる産湯清水が今も残っています。



源氏系図

    
 義仲がまだ2才の幼児の頃、父源義賢は、舅の秩父重隆とともに、武蔵の国の大蔵館で
然の夜襲にあい滅びました。屋敷は火に包まれ、一族は皆殺しになったのです。

襲ったのはまだ15才の甥の義平、源義朝の長男です。父の命令で、目立たぬように少数の兵を連れて都から秘かに東国に行き、その地の豪族で、配下の畠山氏に手伝わせて襲撃しました。

 源為義の長男義朝と二男義賢の兄弟の勢力争いでした。


12. 義仲の父の義賢という人は、武蔵の国へ移住する前は、都で皇太子の東宮御所の警護の長官を務めていて、帯刀先生義賢と呼ばれていました。先生(せんじょう)というのは長官という意味だそうです。彼は皇太子が天皇(近衛)になられたのを機会にその職を辞し、東国へやってきたのです。

 

その後、武蔵の有力豪族である秩父次郎重隆が義賢を娘の婿に迎えました。平安時代末期は、有力者のところへ婿入りして、その娘の父親に盛り立ててもらうのが出世の早道だったようです。今で言う逆玉が一般的な玉の輿にあたります。新天地を求めて都から東国にやって来た義賢にとっても地元に根付くためには有効な縁組みで、一方、舅の秩父次郎重隆は、源氏の貴種である御曹司を迎えたことで、近隣の豪族や源氏一族がこぞって配下となって従ったのですから、自慢の婿殿だったはずです。そうして義賢は着々と地盤を広げていったのでした。       

 

13. 都に居た兄の義朝はそれが気に入りませんでした。東国は源氏の地盤であり、弟に取られては悔しいと。そこで長男の義平に、武蔵の国に出向いて義賢を殺せと命じたのです。

 

 数年前話題になった谷沢栄一さんが書かれた「詠う平家、殺す源氏」というタイトルの本があります。確かに平清盛は一族を束ねていましたが、鎌倉で政権を取った頼朝は義仲や義経、範頼という弟をさんざん利用したあげくに殺してしまいました。歌を詠み優雅な生活を楽しむ貴族化した平家と、同族間の闘争を繰り返す源氏、まさにその題名がそのままズバリというところです。

     木曽館跡(埼玉県嵐山町)


14. 父が殺された時、義仲は2才。当時駒王丸と言った義仲は、母とたまたま大蔵館に近い別の場所にいて難を逃れたのでした。

「義賢には幼い息子がいたはずだ、生かしておけば後々面倒だ。見つけ出して殺せ」と、義平は畠山氏に命じて都へ帰っていきました。母子を拘束するには時間がかかりませんでした。しかし畠山重能は殺すことができなかったのです。

 

15. この戦いがあったのが、8月14日お盆の頃、それから4ヶ月の月日が流れ、そろそろ師走に差しかかろうという12月半ばのことです。

その日、大番という都での警護の役目を終えて、隣の永井の庄の豪族、斉藤実盛が自分の領地に戻ってきました。当時は都の警護に地方の武士が借り出され、交代で3年の間、都や朝廷の警護を務めておりました。その3年間の務めを終えて実盛は武蔵の自分の領地に帰る途中で、多分2人は親しかったのだと思いますが、隣接した畠山氏の館に挨拶に寄ったのです。

4ヶ月前に起こった源氏同士の戦いは、都でも話題になって、実盛も知っていたに違いありません。

             
16.私の想像ですが、畠山氏と斉藤氏の会話はこのようなものだったかもしれません

 

 重能が重い口を開きました。

重:「あの事をご存じだと思うが・・・」

実:「ウ〜ン、都でも相当話題になったよ。夜襲をかけ、館に火をかけて一家全滅とは痛

  ましい」

重:「卑怯だと言われても、反論の余地がない」

実:「しかし皆驚いたねぇ、兄が弟を討つ大胆な行動には。しかも、二人の父の為義殿は
  まだ生きておられるというのに」

重:「あの日、義平が突然やって来て、

  『今夜、館を急襲すると言うんだ。目立つといけないので都から連れてきた兵は少な
  い。夜襲を手伝ってほしい』と言うのだ。

  私も悩んだよ。悪源太義平にとっても義賢は叔父であり、私にとっても舅の秩父重隆

  は叔父にあたる。互いに叔父、甥の関係にあるもの同士が戦うのだから。しかし、家

  臣である限り命令には逆らえなかったのだ」

実:「成るほど。しかし、まだ息子の駒王丸とその母親は見つかっていないそうだが・」

重:「その事についてだが、実は、あの親子はすぐに見つかった」

実:「えっ、なんだって」

重:「義平は『自分は長くは居られないので後のことは頼む。息子を見つけだして殺せ』
  と命じて都へ戻って行った。母と子は難なく見付けることができた。しかし・・・」

実:「しかし?」

重:「殺せなかったんだ、あまりに可哀そうで」

実:「今、どこに匿っているのだ」

重:「この屋敷の奥に保護している。しかし2才の幼児なので聞き分けがない、大声で泣
  く、スキをついて表にまで出てくる。もうこれ以上は匿いきれない。しかし、4ヶ月
  も一緒に暮らしていると、余計情が移ってしまってなぁ」

実:「それでは益々亡き者にできないではないか」

重:「そこで頼みだが、貴殿、あの親子を預かってくれないか」

実:「そ、それはできない」

 実盛はビックリしました。当然、そんな危ないことはできないので、断ったに違いありません。

 しかし重能も諦めずに頼んだのです。

重:「貴殿は三年間都へ居たのだから、この件に関与できるはずがなく、貴殿の屋敷に幼
  児がいても、全く疑われることはない。都から新しい妻と2才になった子供を連れ帰
  ったと人は思うに違いない」。

 実盛にとっては全く迷惑な話です。

 

 明日は主人の帰還というので永井の庄では皆が心待ちにしていました。侍女達までが実盛の妻に、
「親方様は明日にはお戻りになるはずです、楽しみですねぇ。都からはどんなお土産があるのでしょう」と言います。

奥:「そうねぇ、何といっても都はこの東国と違って、すべてが雅ですから。素晴らしい錦の反物や髪飾りとか・・、ホ、ホ、ホ」

 そんな話をしていたかもしれません。

 

 次の日。表の方から「親方様のご到着」の声がして表が騒がしくなりました。

 さぁ、お出迎えです。女達はいそいそと玄関に行き、頭を下げて待っていました。

実:「今、帰ったぞ」

妻:「お帰りなさいませ」頭を上げた実盛の妻の顔色がさっと変わりました。

 「後ろにおいでの方はどなたでございますか?」

実:「実はこれには深い訳が・・・」

妻:「深い訳ですって、存じません」と妻はその場を蹴って奥の間に引き籠もってしまいました。

 

 その後のことを源平盛衰記には、実盛は館に母子を連れ帰り7日の間匿ったと書かれています。私はこの7日間に一つのヒントがあるような気がします。東国は源氏の本拠地ですから、このまま東国におけば、いつかは見つかって命を失う可能性が大きい。そうだ、木曽の中原兼遠に頼もう、と考えが決まりました。

 

兼遠は養育を引き受け、実盛は自ら木曽に母子を送り届けたと書かれているのですが、木曽と永井の庄では250キロも離れています。実盛は500キロの道程を都から武蔵の国へ帰ってきたばかりです。しかも冬。東山道は今の中仙道とほぼ同じルートと考えられますが、高い山が連なり越えるのは容易ではなく、冬季の旅では凍死者もでる困難な道程なのです。いくら実盛が好人物であっても、2才の幼児をおぶって木曽まで母子を送り届けることはしないと私は考えます。

それならどうしたか?

 

 7日後のことです。実盛の館の前は、ヒヒ〜ンと馬達のいななきが聞こえ、何やら騒がしい様子です。

中:「ごめん下さいませ。親方様の都でのお道具をお届けに上がりました」

実:「おう、中原殿か。待っていましたぞ。大儀でした」

中:「どうぞお荷物をお改め下さい」

実:「いや、それはよい。貴殿に頼めばすべて間違いはない。それより奥へ上がられよ。

   大事な話がある、さあ、さあ」

 

このとき中原兼遠は、三年の大番を務めて領地の永井の庄に帰ってきた斉藤実盛の荷物を、都から運んで武蔵の国まで届けたのではないかと思います。兼遠は運送業者ではなかったかと思うのです。現在の宅急便のように次の日に届きませんから、それが本人の帰還から7日後であったとすれば、・・・。

 義仲とその母は、帰りの車に乗せられたか、馬の背に揺られながら木曽までやって来るのは可能であったと思うのです。              

 

17.木曽は寒く、土地も狭くて米もあまりできなかったのですが、当時は良馬の産地として知られていました。牧という牧場が各地にあり馬の繁殖が盛んに行われていました。今は北海道で飼育されているようですが、多分競走馬だと思うのです。しかしこの当時は馬は交通や運搬の手段であり、移動にも戦いにも使われて数も多かったでしょう。兼遠は運送業の傍ら交易もしていて、馬の売買もしていた可能性もあります。

 

山内一豊の妻が夫のために良い馬を求めた話は皆さんよくご存じと思いますが、武士にとって、良い馬は立派な戦車の役割を果たし、また姿の良い馬でかっこよさも競っていたので、スポーツカー的な役目もあったかもしれません。

 

馬は当時は大変利益の大きい商売だったでしょう。平泉に義経を連れていった金売り吉次と言われる謎の人物も、金とやはり牧のあった東北の馬を都へ連れてきて売買したとされています。

藤原秀衡は各地に情報収集のため山伏を放っていたといわれますが、交易商人からも多くの情報を得ていて、兼遠と義仲の事を知っていたかもしれません。


18. 中原兼遠は、遺児となった義仲を引き取り、秘かに木曽の山中で育てたのです。兼遠には樋口兼光や娘の巴御前、それに粟津が原で義仲と共に死んだ今井兼平などの子供がおりました。年の近い彼等は幼児期から実の兄弟のように育ったと思われます。

つまり兼遠は木曽義仲の養父であると共に、木曽方の勇士樋口兼光、今井兼平達兄弟の実父でもあるのです。



19. それから25年の年月が経ち、平家と源氏の戦いがおこりました。

 木曽の旗揚げ八幡で500騎で蜂起し、横田河原の戦い、倶利伽藍峠、そして篠原の戦いと、北陸を勝ち進みながら、義仲の軍隊は破竹の勢いでに都にせまります。これまで、北陸の戦闘をその地方の武士に任せておいた平家も、義仲の軍が都に近づいて来るにつれ、自ら十万の兵を差し向けて来ました。

 

しかし、倶利伽羅峠の戦いで平家は木曽義仲の軍に大敗を喫し、その後、平家は加賀の国篠原の安宅に陣を敷き、再び木曽義仲を迎え打つことになりました。

この時、昔、木曽義仲を助けた斉藤実盛は平家に属しておりました。

 

 斉藤実盛はもと越前の鯖江の生まれでした。少年の頃のことです、土手を歩いていると酒に酔った役人にしつこくからまれたので、怒ってその男を切り捨てたという事件があったのです。父親は咎めを受けるのを恐れて、すぐに息子を武蔵の国永井の親戚の斉藤家に養子にやりました。つまり、武蔵の永井の別当実盛は、実は今度の戦いのおこなわれる北陸の出身だったのです。

 

 北陸の武将たちは義仲側について一致団結していました。彼は故郷の人を相手に戦わねばなりません。しかし今さら引き下がれない、それならここで立派に戦って果てようと思い、出陣前に平家の統領の平宗盛にこう言ったのです。

「私は今度の戦いには討ち死にを覚悟で出かける積りです。そこでお願いがあります。北陸は私の故郷です。「故郷には錦を飾る」という諺があります。どうか今度の戦いには大将の着る錦の着用をお許し下さい」と。

故郷に残る斉藤家の人々を敵にまわして戦わなければならないが、せめて立派な最後を遂げたい、と思ったのでしょう。

 

20. この篠原の戦いでも、平家は総崩れになってしまいました。ところが兵は我先にと逃げたのに、ただひとり残って戦っている男がいました。大将の格好をしているが、誰も後に続く兵士がいない。

 このころの戦いではまず、「我こそは・・・」と名乗ることから一騎打ちが始まるのですが、木曽方の手塚太郎光盛という武将が、不思議な格好をした武将だと思って名を訪ねると、相手は、「自分は考えることがあって名は名乗らないが、木曽殿はご存じのはずだ。私を討ったら手柄になるだろう、さあ、かかってこい」と、戦いを挑んできます。大抵の武将には郎党が一人はついて助けるのですが、実盛は一人きりです。

 

手塚は相手を討ち取り、首を持って義仲に見せ「この男は、木曽殿は自分のことをご存じのはずだ、と言うのです。関東なまりの言葉を話していました」と報告しました。

 

 義仲はビックリしました。「もしや斉藤実盛ではないか」と思い、実盛をよく知っている樋口兼光を呼んだところ、兼光は「哀れ、実盛に間違いない」と、はらはらと涙を流すのです。

 義仲は「だが実盛ならば、私を助けた当時でさえ白髪まじりの髪だった。もう七十を越えているはずなので白髪頭のはずなのに、髪の毛は黒々としているではないか」と尋ねると、樋口兼光は「実盛は年寄りと侮られることを嫌って、戦に出る時は髪を墨で黒く染めるのです。ためしに水で洗わせてみなさい」と申しました。

 そこで、近くの池で首を洗うとたちまち白髪になり、実盛と確認されました。



首洗い池(石川県加賀市)


 義仲は「この人がいなければ自分は生きていなかっただろう」と恩人の哀れな姿に涙し、実盛のかぶっていた兜を近くの多太神社に納めたのです。1183年の6月のことでした。そして、義仲もわずか7ヶ月後の1184年1月に粟津で戦死、後に義仲寺となるこの地に葬られるのです。


21. 1月前に北陸に行く機会がありました。北陸は義仲軍が3年かけて戦をしながら都に上ったルートであり、歴史上の遺跡や戦跡が各地に残っています。そのせいかもしれませんが、なんとなく北陸人も義仲に親しみを持っている人が多いように感じました。

 

 共に義仲寺に眠る芭蕉は、「奥の細道」で北陸路を義仲の侵攻ルートのちょうど逆のコースで旅していますので、彼の義仲に寄せる思いも北陸人に影響された部分もあるのかもしれません。

 北陸路のひうち城で芭蕉の詠んだ句をご紹介しましょう。

   「送られて おくりて果つは 木曽の秋」


 小松市の多太神社は歴史ある古い神社で、実盛の兜が残されていました。この頃すでにお社があったということは、 800年以上前に建てられた由緒ある神社のはずですが、規模は小さく敷地も狭く、想像していたよりずっとこぢんまりしていました。

 ここに、芭蕉の句、

     「むざんやな 甲(かぶと)の下のキリギリス」

の石碑がありました。



芭蕉句碑(石川県小松市)

 

隣に松尾神社というのがあり、2つの神社の間に境界線もなく同居状態です。松尾神社と言うからには 松尾芭蕉と関係あるのかと思いましたが、何の関係もなく、ここはお酒の神様だそうで、全国の酒造元からお酒が奉納されていました。

 昔は兜は外にあったのかもしれません。キリギリスが下にいたのですから。

キリギリスは今でいうコオロギのことで、何時の時代にかキリギリスとコオロギが入れ替わったのだそうです。

 

 兜は今は小さな収蔵庫に入れられています。見せて貰うように頼んであったので 待っていると 管理人さんが自転車で駆けつけてシャッターを上げて見せてくれました。

兜には斉藤実盛と名前が中央に彫り込んであり、八百年以上前のものとは思えない程きれいな状態なので、「当時の本物ですか」と聞くと 明治の頃大修理をしたそうです。

 

22. ここで義仲を託された中原兼遠についてもう少し詳しく触れたいと思います。


 平家物語には、信濃権の守中原兼遠として登場します。権の守とは国司の代理で、当の国司は都にいることが多かったので、現地には親戚や弟や息子が出向いたようです。

中原兼遠と言う人は一般にほとんど知られていませんが、地元では義仲を育て上げた人物として今も親しまれています。彼は30数年、木曽で暮らしていますが、何をしていたのか? 実は謎のままです。

 林昌寺というお寺が菩提寺ですが、住職は今井さんで兼平の子孫です。

            


23. 信濃に伝わる伝承や記録から類推すると、兼遠が信濃権の守として赴任していたのは、まだ16、7の若い頃で、期間も1年程と短かったようです。


 16、7と言うことは、彼にとって多分始めて都を離れての地方暮らしだと思うのですが、信濃という土地が彼に与えたインパクトは相当大きく、その時、将来はこの地で生きていきたいとの志を抱いたのだと思います。

その後、彼は都へ帰って数年の間「右少史」という朝廷の書記の役を務めています。数年の都暮らしを経て、再び木曽へ戻って来た兼遠は54才で亡くなるまでこの地で過ごしています。

                

24. 中原家はもともと学者の家系です。父は明経法博士で、漢文や法律が専門の学者の家系でした。この頃になると、貴族はそれぞれの家で役割分担ができていました。法律の家、管弦の家、和歌など歌の家、と。

勧学院という藤原氏の教育機関である学門所はありましたが、専門職となるとそれぞれの家で親が子に教育していたのです。

 

25. その頃の貴族の嫡男以外の男の兄弟の多くは僧侶になったり、あるいはならされたようです。

「僧になったら、衣裳もいらず、食いはぐれる心配もなく、それなりに尊敬される」と言って母が息子を説得している場面があります。

 

寺に入る以外には、婿養子に行く方法もありました。しかし、婿養子の口もそうあるとは思えません。結局、兼遠はそのどちらも選ばず、自分で生活を開拓したのではないかと思っています。

 

26. 当時の貴族としては画期的な選択といえるかもしれませんが、彼は若い日に赴任した信濃の特殊性に着目し、官吏の道を捨てて運送交易業者になったのでは、と私は考えています。

 

 地元では兼遠は木曽の庄司という私的な荘園の管理人をして財をなしたのではないかと伝わっています。しかし35、6年も荘園を管理していたなら何らかの記録が残っていそうなものです。

 それに、木曽は山に囲まれて耕地が狭く、余り米の収穫は期待できません。水は豊富ですが、雪解け水なので夏も大変冷たく稲の生育に適しているとは思えません。今も田植えは他と比べると遅く行われています。温暖な土地である九州では山の急な斜面にも立派な棚田がみられますが、ここには見あたらず、米の収穫量は相当少なかったに違いありません。

            

27. 中原兼遠は、長野の松本から岐阜の落合までの細長い土地を領有していたとの考え方もあります。しかし、実際にこんな細長い土地を管理するのは大変です。

息子達は、今井四郎兼平が長野の松本に住み、中間の伊那との分技点の奈良井に樋口二郎兼光が、そして尾張と京の都の別れ道の落合に落合五郎兼行が住んでいました。息子達の居住地はいずれも街道の分技点なのです

ですから、この長野から岐阜に至る細長い土地を領有していたというよりは、私は東山道(今の中山道)を仕事場とする運送業者ではなかったかと思うのです。

 

 兼遠は権の守を務めた経歴や、元は都の貴族だったことも事実だと思います。貴族も就職難の時代でした。任官の時期になったら、いろいろ運動して一喜一憂する様子が文書に書かれています。多分若い彼にとって、地方赴任が視野を広め価値観さへ変えたのではないかと思います。ここは東国と都のちょうど中間地点に位置します。そこに注目し、木曽で運送業者になったのではないかと私は想像しています。

 

今でいうクロネコヤマトや佐川急便か、それ程大きくなく、あるいは赤帽さんのようなものかもしれませんが、中仙道の都と関東の中間点にあたる交通の要所であり、各地の産物の交易にも便利です。また馬の産地でもあり、大きな利益が見込めます。彼がここで新しい人生を切り開こうと思った可能性が大きいと思うのです。

 

28. 中山道は東海道とほぼ都から東国まで、どちらを通ってもほぼ同じ距離ですが、東海道は道も開けて通行は便利でした。しかし雨で川が増水すると川止めされ、旅行の日程が定まりにくい欠点があったのです。また、山賊が出て品物を略奪される危険もあったのに対して、中山道は予定通りに動けて、山賊の被害も少なかったようです。山賊も、寒くて山が険しいので住みずらく、この近くで仕事をするのを嫌ったのでしょう。

 

ところが、東山道は日本アルプスなど高い山が連なり、道が険しく狭いのが難点です。川に縄を編んで桟道をかけて馬を通すなど大変な場所もあったようです。その分、誰でも簡単に参入できず、この地の運送業は独占企業ではなかったかと思います。

急な坂道が多く、駅には馬も一般道の倍の頭数が常時いたと記録されています。

 

馬の歩く1日の行程ごとに馬舎(えき)という駅がおかれていました。今の道の駅の原点かもしれません。そこに人足もいたので、義仲蜂起の時には、これらの人足達も兵として加わったでしょう。

運送業者は各地の産物を運ぶ商人でもあると同時に、ある程度の武装もしていたでしょう。交易をしつつ、土地の豪族と情報交換もしたはずです。

 

 奥州に義経を連れていった金売り吉次や、もっと手広く、下北半島から九州の硫黄島まで網羅していた裕福な商人もこの時代いたようです。硫黄島には硫黄が産出し、それを宋に売ると火薬の原料として高く取引されたといいます。意外に商人は活躍していたようです。

 後の時代に紀伊国屋文左衛門は紀州のみかんを舟で大量に運んで財を成したといいますが、交易を兼ねた運送業者は、かなり裕福だったと思われます。

 

 しかし、中原家の子孫の方でも、特に年配の方になると「運送業」と言うと、「とんでもない、兼遠公が馬方の親方なんて」と気分を害されるのですが、私は貴族の彼が、荘園から上がる米を貧しい農民から税として取り立てるよりは、額に汗して労働するほうが尊いと思うのです。

 

29. 彼も義仲を引き取った頃は、まだ仕事を始めたばかりで事業規模も小さく、自ら荷物に付き添って各地を行き来していたと思います。その時に斉藤実盛に義仲を託され、連れ帰ったのではないかと想像するのです。

 

平泉の藤原秀衡なども、兼遠が義仲を匿っているのを知って、同じ源氏の御曹司だった九郎義経を都から連れて来るように、吉次に頼んだかもしれません。何しろ兵をあげるには、今でいう広告塔のような人物が必要だったのです。

 運送業者も各地を廻るので、当然多くの情報を持っていたので、豪族達も積極的に接触を持って個人的に親しかったに違いありません。             (続く)


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講演「木曽義仲の生涯」

    〜その謎の部分に迫る〜