平家物語が語らなかった歴史の真実
平家物語はおおむね史実に沿って書かれているが、明らかに婉曲或いは脚色して表現している部分が見受けられる。その成立時期についても様々な説があるが、私は原作は合戦終了後の比較的早い時期に、従軍した人物の体験談や生存者である遺族(主に西国から帰還した女性)からの聞き取りを基に書かれたのではないかと思っている。
そのため、まだ多くの関係者が生きており、ひっそり隠れ暮らしている人々や鎌倉の権力者頼朝にも配慮して、事実をそのまま明らかにすることを憚ったであろう。そこで、作者が本当は何を伝えたかったのか。その文章の微妙な表現の意味するものを検討して、当時の記録(貴族の日記)と照らし合わせて真実に迫ってみたい。
時代の流れ(摂関・院政)
藤原道長が「この世をば 我が世とぞ思う 望月の欠けたることも なしと思えば」と歌に詠み、摂政関白として権勢を誇った時代から約二百年、時代はまだ母系社会の形態を引きずりつつも、政治は外祖父による摂関政治から天皇家による院政へとシフトしていった。院政の間、表舞台での活躍を疎外されていた貴族達は、その地位の復活を模索していた。
当時の政治的背景に鳥羽帝の后である待賢門院璋子と美福門院得子の対立があった。第76代の近衛天皇(母は美福門院)が皇位についたものの、1155年、17歳の若さで病没した。適当な後継者が見つからず、致し方なく中繋ぎの天皇として後白河天皇(母は待賢門院)が即位されることになった。しかし、後白河天皇も皇位について3年後には譲位して(或いはさせられ)、長男二条天皇が帝位に就いたが、彼の後ろ盾は、父の後白河ではなく、猶子となっていた美福門院であり、その娘の八条院、それに二条天皇の母方の一族であった。
亡くなった近衛帝の后多子は二条帝に請われて再度入内するが、色に惑わされて二条帝が入内を強行したという平家の記述とは違い、実は政治的配慮からの二条帝のバックアップが目的だったようだ。「ひたすらに朝政(まつりごと)を勧めもうし御在す」(巻一・二代の后)と、政冶(朝政)のアドバイザーを勤めた様子が伺える。
二条天皇は後白河上皇との間に様々な確執があり、父の後白河が悔し涙にくれる場面も報じられている。朝廷の命令も天皇と上皇の二カ所から出るので下々は混乱した時代で、「まるで薄氷を踏むに似たり」(巻一・二代の后)と表現されている。
当初、清盛は例のアナタコナタして両者の間を行き来していたが、1165年7月28日に23歳の若さで二条天皇が崩御するに及び、後白河へと旗色をはっきりさせた。後白河上皇は院政を続けるため平家を味方に引き込んで、平家の血を受け継いだ高倉帝(母は平滋子)を擁立し、貴族の息のかかった以仁王(後白河三男)を排除した。
同年(1165年)12月16日には、以仁王(15歳)の元服が緊急に行われたが、これは9日後の12月25日に予定されていた憲仁親王(高倉天皇・五歳)の親王宣下に先んじての無断元服である。この時、元服の場を提供した二条天皇の后多子は出家し、多子の兄の徳大寺実定はその後15年間の浪人生活を強いられ、また以仁王の伯父公光(母の兄)は下官させられたまま崩御、その他一族の貴族達は長年政権から遠ざけられることになった。その間も八条女院は以仁王に期待し、彼をバックアップし続けた。
この時代に、中原兼遠も貴族として官職に固執する生活に見切りをつけ、交易や運搬で活路を見出すべく木曽にやってきたのではないだろうか。新たな生活が軌道に乗り出した数年後、義仲を養育することを依頼された。源氏の貴種を匿い養育すれば、将来、都の一族と連携して貴族政治復活に協力できる日がくるかもしれない、と喜んで引き受けたようだ。
木曽の仲三兼遠に取らせたりければ、兼遠之を得て、喜び養う事限り無し
(巻五・木曽生立)
元来、朝廷も貴族も武力を持たず、政争はバックにつく武士勢力同士の代理戦争の形となる。義仲の父義賢は、近衛天皇が皇太子時代の警護責任者(東宮武官の帯刀先生)であったが、近衛天皇崩御(1155年7月23日)からひと月もたたない8月16日に、甥の義平により討たれた。ここにも政争の影が感じられる。天皇在位の間には、身近に仕えた人物を誅することなど起こり得ない蛮行であろう。その息子義仲を兼遠が保護したのは、近衛天皇の母・美福門院や娘の八条女院、あるいは藤原氏の意向を汲んだのかもしれない。
清盛は建春門院所生の高倉帝を実現させると、娘徳子を后として入内させた、数年後安徳天皇が生まれると高倉帝に譲らせて、孫(安徳)を三歳にして帝位につけた。これにより外祖父として清盛が政治に介入し、武家による摂関政治が行われる恐れがでてきた。
その後、以仁王の平家打倒の令旨に呼応して、各地で源氏が立ちあがった。この時に義仲は何としても先んじて都へ入る必要があったのではないだろうか。以仁王敗死の後、その長男の北陸の宮(母は養父兼遠の一族)を皇位に付けるという大事な役目を担っていたからである。彼が皇位につけば、母方の楊梅流藤原氏は摂政関白の地位も夢ではなくなる。
しかし、院政を続けて権力を維持したい後白河法皇にとって、貴族による摂関政治は受け入れ難く、義仲に対抗して法住寺合戦まで起こし、朝廷に対する反逆者の汚名を着せた。
以上が、様々な資料から私流に解釈した当時の社会状況である。
時代の流れ(院政・武家)
保元の乱、平治の乱で源氏は政治的な対応を誤り、敗退して地方に逼塞し、約20年に及ぶ平家の全盛時代が続いていた。
平家には時忠(妻時子の兄)という強力な政治顧問がいて清盛を補佐していた。彼は宋に留学した経験もあり、広い視野と行動力の持ち主だった。経済面では南宋との貿易を、政治面では異母妹の建春門院の所生である高倉天皇を皇位につける画策に辣腕を振るい、清盛の娘徳子を高倉帝に入内させ、更に徳子所生の安徳天皇(清盛の孫)の実現に成功した。
平家の力を借りて院政の政治基盤を確実なものにしようとしていた法皇は、いつしか平家による外戚政治の罠に陥っていたのである。法皇は、貴族の藤原氏による摂関政治が武家の平氏に取って替わったに過ぎないこと気づくのである。そこで平家を排斥する為に、今度は源氏に頼ろうとした。
ところが、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子頼朝は、流人として伊豆に20年余拘束されている。その身分を解かなくては院宣を出すことはできない。平家物語に書かれているように、法皇は文覚を通じて頼朝と接触を持った可能性はあるが、「流人の身分の頼朝には院宣を受ける資格がない」と平家物語は暗に述べていると説く学者もいる。微妙な表現ながら、正当な都の征服者は義仲であったと平家作者は伝えたかったというのである。
平家物語(原作)は、鎌倉時代に入り頼朝の全盛期に書かれている。言論の自由が保障されている現代では考えられない程、真実を伝える為に表現に細心の注意と工夫を重ねていることに気付かされる。
次に、いくつかのターゲットになる文章を抜粋し、平家物語が本当は何を言いたかったかを解明していきたい。私は、平家物語の原作者の視点は木曽にあったと考えている。しかし、敗者であった関係者に配慮して抑えた表現に終始している。そこで古態の作品に近い四部合戦状平家物語を基に、埋没して伝わらない義仲像と彼が生きた時代に迫ってみたいのである。
作者が何を伝えたかったかを読み解くことで、作品の意図と歴史の真実に近づければ幸いである。後に書かれた平家物語(増補系・約80種ある)には、様々な説話が加わることで義仲を嘲笑した表現もみられる。そのイメージが強いためか、一般には正しい義仲像が伝わっていないのは残念である。
以仁王に期待する閑院流藤原氏と義仲の蜂起
平家全盛の間も、都ではいくつかの動きが水面下で進行していた。
ひとつは長男重盛と二男宗盛の嫡家を巡る平家内部の派閥争いである。重盛は当然自分が長男として嫡家を継ぐべきと自認していた。しかし、時子は自分の腹を痛めた二男宗盛を嫡子にと、兄の時忠と共に画策していた。重盛に気づかいつつも、妻や義兄に引きずられる清盛の複雑な心境も垣間見られる。確固たる団結を誇った平家内部にも崩壊の兆しが表れていた。
それと並行して、藤原氏の政権奪還工作が進行していた。
後白河法皇の三男の以仁王(第二皇子)を一族に持つ閑院流藤原氏は、有力な皇位継承者を有するが故に、院政を継続したい後白河法皇や平家から警戒され、権力の中枢から久しく遠ざけられていた。
その一族と縁戚関係にある中原兼遠(母方が楊梅流藤原氏)は17歳で信濃の権の守(1142年12月〜1143年6月まで名を追うことができる)として国府松本に赴任している。彼はその任官中、信濃の南に位置し、道路の交差する交通の要である木曽の地理的立地条件に着目したのであろう。一旦都へ戻って官吏を務めた数年後、再び信濃に来て、木曽で交易や運搬に従事していたのではないかと私は推理している。
平安時代後期の衰退の激しい貴族社会において、嫡子は領地を相続できても、その他の兄弟は僧籍に入るか他家の婿養子になる等、人生の選択肢は多くはない。また、限られた官職を競って一喜一憂するのが当時の現実の姿だった。兼遠はその現実に埋没することなく、独自の道を歩むことを選択し、貴族を捨て、名も中原頼季から中原兼遠と改め土着したと思われる。これについては既に「中原兼遠」(「史学義仲」第6号)に記した。
木曽は東国と都の中間点にあるばかりか、北陸や東海、奥羽にも繋がる交通の要に位置する。しかし山峡の地であるため運搬や移動が困難で、当時は組織だった業者もいなかったのではないだろうか。彼はその地域的な将来性に賭け、信州産の良馬や木材を都へ供給すると共に、北陸の沿岸部からは塩などを運んで財をなしたと思うのである。
しかし、兼遠も都にいる一族の再興に無関心ではなかったはずで、運搬や交易商人としての仕事に従事すると同時に、都にいる一族を助けるべく木曽で源氏の貴種である義仲を25年間も養育し、蜂起の時を待っていたと思われる。
平家物語は80数種あると言われているが、原作は治承物語と呼ばれ、仏教の布教の為の唱導文学として生まれたらしい。その治承物語が、後に歴史文学として年代順に再編集されたのが四部合戦状本平家物語だと私は考えており、この本が現存する諸本では平家物語の原本に一番近いのではないかと思っている(定説では延慶本が最古態とされている)。
次に「訓読四部合戦状平家物語」(高山利弘編著)巻五の『木曽生立ち』の章を抜粋した。この中には他本には見られない幾つかの義仲に関する興味深い記述がみられる。
『木曽生立ち』
彼の義仲は、父の義賢、仁平三年の夏の比より、上野国多胡郡に居たりけるが、1.祖父の太郎大夫重隆が養君に成りて、武蔵国比企郡へ通いける間に、当国にも限らず、隣国まで随ひけり。
而るに、久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝の一男に悪源太義平が為に、大蔵の館にて重隆と共に誅されぬ。2.兼遠之を得て、喜び養ふ事限りなし。生成る任に、容儀清気にて、弓箭の道、人に勝れたり。
成人の後、平家を引き試みんが為に、3.忍びて度々京へ上りたりけれども、平家の運盛りなりければ、仔細に及ばず。4.平家此の事を聞きて、兼遠を召して、「義仲を討ちて進らすべき」由を仰せ付けられたりけれども、5.兼遠領状を白すと雖も、年来の養育の空しからむ事を歎きて、6.我が命の失せんことを顧みず、彼の国の大名に根井太郎・滋野幸親に、此の養君の木曽御曹司を授ける
四部合戦状平家物語は、簡略な表現ながら、登場人物や日時、事件の内容が正確で内容的にも信用度が高いと評価されている。作者が合戦終了から間もない時期に、当時の関係者から直接聞いた話と、自身が戦いに参戦した体験談を基に書いたものと推測している。
この本には他本に見られない『木曽生立ち』の章が設けられており、信濃の情報(人物・地理)に詳しい。但し、二巻と八巻が失われて存在しないので、残念ながらそこに記載されているはずの義仲の都での行動を知ることができない。
次に、上記『木曽生立ち』より個々の表現を検証していきたい。
1.祖父の太郎大夫重隆
義仲の母は,一般に遊女と言われているが、私はこのことに疑問を抱いていた。ところが四部合戦状本は、重隆をはっきり義仲の祖父と明記しているので、義仲の母は秩父重隆の娘ではないだろうか。義仲を重隆の孫と明示しているのは四部合戦状平家物語のみであり、他本には見当たらないので注目したいと思う。他の平家物語には「義仲の父義賢は舅の重隆と共に討たれ」と書かれ、秩父重隆を義仲の祖父としてではなく、父義賢の舅と位置づけている。
義平に協力させられ、一族でもある秩父太郎重隆とその婿の義賢を襲った畠山重能だが、その後は義平の命に逆らって、この母子を匿った。彼にとって重隆は伯父にあたり、従妹関係にある義仲の母を助けたいとの気持ちが働いたのではなかろうか。もし赤の他人であれば、そこまで危険を冒すことはなかったであろう。
2.兼遠之を得て、喜び養ふ事限りなし。
兼遠は「喜び養なった」のであれば、積極的に義仲親子を受け入れ、養育したことが伺える。単に憐れんで母子に情をかけたのみでなく、彼の胸中には将来、都の一族のため源氏の貴種義仲が役に立つ日がくることも思い描いていたのではないだろうか。
3.忍びて度々京へ上りたりけれども
義仲が度々京に上っていたのであれば、兼遠の仕事に随って京と木曽を往復し、同時に都の様子を探っていたとの解釈もできる。このことからも兼遠は運搬・交易事業に従事していた可能性が高いと推測できる。
4.平家此の事を聞きて、兼遠を召して、「義仲を討ちて進らすべき」由仰せつけられたりけれども
兼遠が、平家に呼ばれて義仲の養育について申し開きをしたことは源平盛衰記等で知られている。従来からその時期は平家との合戦の直前か、小競り合いの起こっていた時期、と考えられてきた。しかし、既に義仲が木曽で蜂起した後に兼遠が都に出向けば、人質として捕えられるのは必至である。その場合、木曽側は戦闘行動に多くの支障が生じるはずだ。
私は、兼遠が平家の呼び出しに応じた時期は、合戦3年前、都にいる息子(長男の平判官康頼)が捕らわれた鹿ケ谷の変の勃発時(1177年)ではなかったかと思う。兼遠は息子の罪が少しでも軽くなるために、危険を承知で平家の呼び出しに応じたのであろう。もし、命令を無視したならば、康頼は西光のように命を失うことになったかもしれない。
平判官康頼は、中原兼遠が都で官吏の職についていた頃に、兼遠の長男として生まれたと思われる。康頼の本名は中原康頼。父の名は中原頼季で、信濃の権の守を務めた経歴の持ち主である。その任官した時期は1142年(康治2年)12月と記されている(「新日本古典文学全集・宝物集」岩波書店)。
兼遠に関する別の記録である「本朝世紀」には、康治2年正月27日大隅の守と赴任期日はほぼ一致するものの、役職は信濃権の守ではなく大隅の守になっている。兼遠の当時年齢(17歳)と身分では、この時期に大隅の守はあり得ないと思う。多分同じ木曽在住の中原兼貞と誤ったのではないだろうか。中原兼貞は保元の乱の勲功で大隅国司に任じられた。その後、都の記録には中原頼季の名は登場しないので、頼季は名を兼遠と改め、木曽に移住したのではないかと推測している。
鹿ケ谷の変で捕らわれた平判官康頼と俊寛、成経の3人は喜界が島に遠島となった。幸いにもその約一年後に、徳子懐妊の恩赦により都に戻ることができた。成経は舅の平教盛(清盛の異母弟)の懇願により許されたが、平判官康頼(中原康頼)も覚明(助けたのは縁ある僧と記述)の機転ある行動により帰京できたのだと思う(卒塔婆流し)。
なお、中原康頼が平性を名乗ることになったのは、10才の時に池殿の頼盛家の養子になったからと、子孫の方から教えて頂いた(寺の記録から)。
5.兼遠領状を白すと雖も
先述したが、義仲が兵を集めていることが平家の耳に入り、兼遠は都の平家から呼び出された。貴族達も平家から呼び出しがあると、何事か、誰かに讒言されたのではなかろうか、と震え上がっているので、多分相当な覚悟で応じたと思われる。兼遠は様々な申し開きをしたものの聞き入れられず、『義仲を拘束して差し出す』との熊野の午王の起請文を書くことで木曽に戻ることを許された事件である。しかし、義仲を差し出すことなど到底できない相談である。
6.我が命の失せんことを顧みず
兼遠が亡くなったのは治承5年6月、義仲の出陣を見送ってひと月後、横田河原の勝利の報を聞いた直後と思われる。死因は病死とも自殺とも言われているが、当時は食事を絶ち、餓死という方法で命を絶つ人がいたのは、系図に干死と書かれていることからも伺える。武士の時代の腹切りとは違う、平安期に多い自殺の方法のようだ。兼遠の死は、起請文に反したことを神に謝したのか、後の義仲の活動に傷がつくことを恐れたのか、それとも単なる病気だったのだろうか。
平判官康頼も、喜界が島から戻って(1179年)からは官職につかず、宝物集と仏教説話を書き、歌人としてもその才能を発揮した。寿永元年(1182年)に成立した月詣和歌集に父の死を悲しむ康頼の歌が掲載されており、兼遠の死亡時期(1181年)とも合致する。
後白河法皇の二男の守覚法親王(以仁王同母兄)は早くに僧籍(仁和寺御室)に入っており、長男二条天皇の亡き後は、三男である以仁王は当然自分が皇位を継ぐ立場にあると期待していたであろう。しかし、指名されたのは10才も年下の高倉天皇(母は建春門院で時子の義妹)だった。
その高倉天皇も早々と譲位させられ、平家の後押しにより三歳の安徳天皇(清盛の孫)が即位した。年下の高倉帝や、まだ3歳の幼児に過ぎない安徳帝に先を越され、もはや以仁王に出番はないと諦めていたちょうどその頃、平家との関係が悪化していた後白河法皇が清盛に幽閉される事件がおこった。今が蜂起の最後のチャンスと考えた以仁王は、全国の源氏に向けて令旨を発し、源平合戦のきっかけを作った。後白河法皇にとっても、源氏を利用して院政を脅かす平家を排除する好機だった。
義仲の入京
都に上った義仲は、比叡山を味方につけることに成功し、平和裏に入京を果たした。無駄な血を流さないことも大事な目的ではあったが、比叡山に数日留まることにより、平家主流派が安徳天皇を連れて西国に逃げて行く時間的余裕を与えたのではないだろうか。彼は平家との直接対決を避け、その後に平家の小松家と連携して都の治安の維持に当たるつもりで、何らかの合意ができていた可能性も考えられる。
しかし、ここで行き違いが起こった。小松家の若い公達は残留を決断できず、迷いながらもずるずると平家本隊の最後尾に随いて西国に退いて行った。彼らが遅れて淀で本隊に合流した時、もう来ないものと諦めていた宗盛がほっとして喜ぶ様が描かれている。
宗盛が「三位中将(維盛)は如何に」と問いたまえば、「小松殿の公達は一所も見えたまわず」と申しければ、「佐こそあらんずらめ」とて世に心細げに御涙の落つるを押しのごい・・・・」新中納言知盛「年頃思い儲けたりしことなり。驚くべきに非らず・・・・・・」其の後権亮三位中将維盛・新三位中将資盛・左中将清経以下兄弟五、六人打ち具して・・・・・行幸に追い付き奉る。その勢三百余騎・・・・・」
遅れて合流し、本隊と共に一旦西国へ退いたはずの小松家の若い公達が、都へ戻って来るらしいとの噂が京で飛び交っていたと、複数の貴族の日記(玉葉・吉記)に記されている。「愚管抄」には、実際に資盛は戻って来たが、後白河法皇が帰京を許さなかったと書かれている。
北陸の宮擁立と法住寺合戦
義仲が都に入ったのは7月28日。その2週間後には早くも新しい天皇の擁立に向けて後白河法皇は動き始めていた。高倉天皇の二男は安徳天皇とともに平家が西国に伴ったので、都に残っていた三男と四男が候補に上がっていた。いずれも4、5歳の幼児である。
この時、義仲は北陸の宮(以仁王の長男)の擁立を主張した。
故三条の宮以仁王の御息北陸にあり。義兵の勲功彼の宮の御力にあり。よって立王のことに於いては異議あるべからざるの由存ずる所他
と強硬に申し入れしている。入京から半月目、8月14日のことである。法皇はこの時、義仲入京の真の目的に気がついたはずである。彼の背後には北陸の宮を皇位につけて、摂関政治の再興を願う貴族がいることに。
北陸の宮の母は楊梅流藤原氏の女性である。以仁王の謀反発覚時には、彼を嫡男の讃岐前司重季(乳母夫)が北陸の宮崎に隠している。義仲が都を制し、北陸の宮が皇位につけば、兼遠の母方は外祖父として政治の表舞台へと躍り出て、摂政関白の地位も狙えることになる(「史学義仲」第10号「藤原貴族と木曽義仲」)。
この時、義仲があくまでも北陸の宮擁立にこだわっていたなら、情勢は大きく変わっていたかもしれない。その時期に都で武力を行使できたのは義仲の軍隊以外にいなかったので、強硬策も可能だったはずだ。成人の天皇(北陸の宮)のもと、有能な官僚貴族が彼の周辺にいたので、本来の理想の政治を目指せたかもしれない。
義仲の目的を知った後白河法皇は、次に頼朝と接触し始めた。院政を継続するためには貴族政治を目指す義仲と共同歩調をとることはできないからであろう。しかし頼朝は中々動こうとしなかった。痺れをきらした法皇は、自ら法住寺合戦に突入し義仲を挑発した。
義仲は、北陸の宮擁立を果たせず、都の治安にも苦慮し、自暴自棄になって法皇の挑発に乗ってしまったのではないだろうか。本来戦闘行為をしないはずの朝廷が、無法者を集めて義仲に戦いを挑んだとあれば、頼朝も無視するわけにいかなくなり、しぶしぶ軍隊を差し向けてきた。
平家の滅びを招いた派閥争い
以前から平家内部では、嫡家を巡る派閥争いがくすぶっていたが、清盛が一族を強力に支配していたので平家内部の争いは表面化することなく、水面下でシビアな抗争と取引が行われていたようだ。
平清盛の長男重盛とその息子達は、京の小松谷というところに屋敷を構えていたので、小松殿と呼ばれていた。重盛は教養があり冷静な判断力の持ち主であることは、平家物語だけでなく、貴族の日記等(愚管抄)でも確認できる。武士の頭領としても大変有能で、平家の草創期には父の片腕として清盛を助けてきた。
平清盛はそのイメージとは違って、実は武士としては余り活躍していない。海賊を退治した父の忠盛が、自分の手柄を譲って息子清盛を盛り立て、その父が亡くなった後は、軍事面を長男の重盛に頼っていたようだ。重盛は貴族的な立ち居振る舞いや、冷静な判断力を持ち合わせ、政治面では朝廷との折衝にあたり、また軍事面でも武士の頭領として采配をふるい、平家の興隆に大きく寄与している。清盛にとってはいわば頼れる自慢の息子で、それまでは父と子の関係は大変よかったのである。
ところが、ある時点から清盛は平家の嫡家を二男の宗盛に譲ろうと考え始めたようだ。しかし重盛は納得できなかった。自分が戦場をかいくぐり、朝廷対策に心を傾けて今日の平家を築き、嫡男として最適であるとの自負を持っていたからである。10才も年下の宗盛にその地位を明け渡すことは、彼にとって屈辱以外の何ものでもなかったはずだ。
もしこれが源氏だったら、同族間の武力闘争に発展した可能性もあった。甥の義平に殺された義仲の父義賢や、後には頼朝に抹殺された義経や範頼達のように。
平家とて一枚岩であったわけではない。しかし平家の頭領である清盛は、異母兄弟の教盛や頼盛、それに息子達にきめ細かい対応を心がけていたので、内部での嫡家争いは当事者以外には表沙汰にはならなかったようだ。父の清盛は、長男の重盛に対して円満に二男の宗盛に平家の嫡家を譲ってもらうことを期待し、随分気を使っている様子が随所に伺える。
貴族の日記にも、清盛はアナタコナタし(愚管抄)各方面に気を遣い、また、すぐに感激するタイプでもあり、家来が例え面白くない冗談を言っても、笑ってやる好人物だと書かれている。ところが、気の毒なことに平家物語では、清盛は散々にこき下ろされて、良いイメージを持たれていない。平家作家は、小松家となんらかの関係があり、重盛の立場で父子の間に存在する不信感を代弁しているようだ。
清盛が次男の宗盛に嫡家を継がせたいと思い始めた時期は、妻時子の異母妹である建春門院(小弁の局)が後白河法皇の寵愛をうけ、高倉天皇を生んだ頃であろう。
時忠と時子兄妹はこのチャンスを逃さず、建春門院の息子を天皇の位につけることに奔走し、娘の徳子をその后として入内させる為に画策している。建春門院も、我が子が天皇になるのであれば、平家の血を受け継ぐ天皇の実現に向けてお互いに協力することに異論はなかったはずだ。
この頃、清盛は新たな野望を抱いていた。徳子に男子が生まれたならば、彼は天皇の外祖父として、かつての藤原貴族が持った摂政関白のような権力を手にすることも可能になる。しかし長男重盛の心境は複雑だったはずだ。徳子が男子を生めば、平家の嫡家は同腹の二男宗盛(母は共に時子)に移る可能性がある。長男重盛(母は高階基章の娘)の本音は何としてもそれを阻止したかったに違いない。
系図に示されているように、重盛の母は高階基章の娘、宗盛や徳子の母は後妻の時子である。当時、時子の兄である平時忠が強力な政治顧問として清盛を補佐していた。「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した時忠が平家の経営に絡んでくることで、重盛は疎外感を持ち、父との間の溝を深めていったであろう。
清盛は娘の徳子に男子が誕生することを祈願し、平家の信奉する厳島神社へ船で月参りをしていた。その切なる願いが叶って男子が誕生すると、3歳になったばかりで皇位につけ、平家政権に向けて着々と歩み始めた。
二男宗盛を平家の嫡男にするのは、当時の妻である時子の願いであったのかもしれないが、母徳子とその息子の安徳天皇を補佐するには、やはり徳子の同母兄の宗盛が平家の頭領である方が後々の後ろ盾としても安心だと考えたのだろう。
清盛と重盛の間のバトル
この間、清盛と長男の重盛の間には、水面下での様々なバトルが展開していたようだ。
重盛の人間像は、一般に誤解されて伝わっているようだ。彼は、父にたいして孝、君にたいして忠を尽くす、忠と孝の狭間で苦しむ人物ととらえられてきた。
現代の読者には、重盛は保守的でかつ面白みのない類型的な人物と評価されているが、実際の彼は固定観念に縛られない柔軟な考えの持ち主だったのではないだろうか。その行動の裏には冷静で綿密な計画性が伺える。また、清盛との間に入って多くの人のため労をとり、任官した下級貴族にも、祝いの品を届ける細やかな気配りの持ち主だった。
良好だった父と息子の関係にヒビが入り始め、疎外感を感じていた重盛の苦悩は察するに余りあるが、当初は人の良い清盛のほうが、むしろ苦しんだのかもしれない。何とか修復し、円満に宗盛に嫡子を譲ってもらおうと試みた形跡が伺える。しかし根本的な解決には繋がらず、ついに鹿ケ谷事件で重盛の義兄(妻の兄)成親が清盛の命で殺されるに至り、両者の信頼関係は崩壊し、いつしか他人以上の慇懃無礼なやり取りが繰り返されるようになったようだ。
熊野詣から帰った重盛の体調が思わしくなく、日に日に弱っていくのを聞いた父の清盛は小松邸へ使者を寄こした。この件を平家物語は次のように伝えている。
「労わり、日に随いて大事成るを承るに、祈請もなく療治も為られずと、云々。
折節、大国よりめでたき医師渡りて、筑紫の今津に付きたる由をば奉れば、急ぎ召し
て療治候ふべし。又、緒寺・緒社にて祈請有るべし」(巻三医師問答)。
父の使者と聞いた重盛は、烏帽子・直衣に着替えて対面し伝言を聞いた。彼は、「保元平治の乱においても矢にあたらず、剣にもかからなかった。命の終わろうとしている時、療治や灸治に頼ろうとは思わない。さらに外国の医師の治療を受ける意思はない」ことを使者に伝えたのだった。すでに重盛は、清盛の勧める医者の治療を受けても最早回復の見込みはないと判断し、反って情報が漏れることを警戒したかもしれない。
清盛はこの時期突然、福原から都へやって来た。「すわ戦争か」と都の人々は慌てたが、三男知盛の病気の報にわざわざ福原から駆け付けたとわかって、人々は胸を撫で下ろしている。しかし、重盛を直接見舞ったとの記述は見当たらない。むしろ後白河法皇が重盛を見舞いに小松谷を訪ねている。
彼は血を吐いて食べ物を受け付けず、段々弱っていったと書かれているので、胃の病気か、当時死因の半数近くを占めていたという結核か、いずれにしても、死に至るまでにかなりの療養期間があったようだ。
3月に出かけた熊野詣でから戻って7月29日に重盛は亡くなっている。平家物語は、重盛の死を我が事のように嘆いている。ところが四部合戦状本平家物語(巻三)には、他の平家物語とニュアンスの異なる記述がある。重盛が亡くなって周囲の者達は嘆き悲しみ、動揺していたが、父の清盛はそれを戒めなだめ、平気な態度だったと、次のように書かれている。
「凡そ此の大臣失せぬるは、平家の運付きぬるにも非ず・・・一門の衰えとぞ見えける。入道(清盛)邪見たまふ事をも、戒めなだめられしかば穏便にてこそ過ごしつるに「こは如何にすべき」と貴賎上下、是の事を歎くより外は他事無かりけり」(巻三重盛死去)
延慶本や覚一本のように、清盛が多いに嘆き悲しんだと記しているのとの違いが明らかだ。清盛とて息子の死は悲しかったけれど、円満に二男宗盛が嫡男となったことで家督争いも回避でき、内心ホッとしていたのかもしれない。宗盛の関係者が「世は只今大将(宗盛)殿へまいりなんず」と、嫡家が移動したことを喜ぶ様は、どの平家物語にも共通に書かれている。
重盛亡き後に小松家に残されたのは、まだ若い長男維盛以下数人の息子達だった。本来、嫡子は家を継ぐ大事な存在なので、普通は戦闘の最前線には出さないが、その後小松家の長男維盛や次男資盛は、富士川の戦い、義仲との北陸戦等、大きな戦いの大将として最前線に出向かされている。偉大な盾を失って、小松家の若い公達を取り巻く状況も変化していたのである。
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