・1945年(昭和20年)滋賀県彦根市に生まれる。
 
終戦の年である。戦後何年といわれるたびに、自分の年を意識する。
昭和20年生まれの人口は極端に少ない。
冗談ではあるが、よく非国民の子とからかわれた。
若い男はみんな戦争に行かされていたからである。

しかし、学年の生徒数が極端に少ないということはメリットが多かった。
おだやかな競争だったからである。
昭和20年生まれは、どことなく、のんびりとしているというか、
ぼんやりしているというか、
とにかく独自のキャラクターが形成されたように思われるのだが・・・


・1964年(昭和39年)彦根工業高等学校機械科卒業

家は豊かではなかったし、学校の勉強もあまり好きではなかったので、
就職するには有利といわれていた、工業高校に入学した。

機械科は2クラスあったのだが、わたしたちのクラスは、
仲はよかったが、みんな勉強はあまりしなかったように思う。

何しろ、クラスの優等生でさえ、ようやくベストテンの後ろにはじめて顔を出すぐらいだった。
クラス会を開くと、当時の担任の先生にそのことをよくぼやかれる。
だがクラスの結束力は卒業してからも堅く、同級生とは今でも付き合いがある。
高校生活で一番の収穫は、多くのよき友にめぐり合えたことだと思う。
5年ごとの同級会なども今までに欠かしたことはない。

高校時代から本は好きだったが、もっぱら貸し本屋から借り出した、
エンターテイメントばかり読んでいた。
今、ざっと思い出してみても、
石坂洋次郎、源氏鶏太、梶山季之、黒岩重吾、今東光など、
時代小説では、山手樹一郎、柴田錬三郎、海音寺潮五郎、山本周五郎など、
読書はもっぱら通俗小説ばかりで娯楽に徹していた。


・1966年(昭和41年)日本電信電話公社(NTT)入社

当時のNTTは、企業が巨大に膨張している真っ最中だった。
庶民が次々と電話を家に引くようになったからである。
交換機もクロスバー交換機と呼ばれる最新式が導入されていた。

わたしは、機械課に配属された。
クロスバー交換機の、点検、保守をするセクションである。
このクロスバー交換機、高度に複雑な機械ではあったが、
まだ、機械は目に見えたし、人間の推理力、勘、経験なども必要とされる、
いわば機械と人間とのかかわりが理想的な一時代だったと思う。

本が好きな割には、まともな本を読んでいないのに、なんとなく気がついた。
だから日本の古典から世界文学全集まで、通勤時間を利用して毎日読んだ。
しかし、本の内容はまったく覚えていない。
トルストイの「戦争と平和」を読んでいて、ボナパルトという名前が何度も出できたが、
これがナポレオンのことだとは最後までわからなかった。
とにかく、教養として読まなければという義務感のような読書であった。

1968年(昭和43年)NTTの専門部に入学。三重県の鈴鹿学園で、
九州から北海道までの仲間と共に学ぶ。
9ヶ月間であったが、全寮制で、授業はもちろんだが、運動会、学園祭、
修学旅行まである、本格的な学園だった。全国に友人ができた。
クラブ活動は英会話クラブに所属した。
わたしと英語とのかかわりの第一歩だった。

NTTの職場で「全電通文化」という雑誌をふと手に取った。
組合が発行していた文芸誌だった。
全国の仲間が、俳句、川柳、短歌、詩、コント、小説などを自由に発表していた。

気が向いて、コントを一作書き上げ、投稿したら採用されて活字になった。
調子に乗って「全電通文化」の懸賞小説に応募したら、初めて書いた小説が入選して、
賞金を5万円もらった。ひょっとしてこの分野に才能があるのかなと、
大きな誤解を積み重ねて「全電通作家集団」にも所属。
その流れが今も続いている。才能はなかったが、
文芸関係の友人と数多く知り合うことができた。

1976年(昭和51年)初めての海外旅行、アメリカの西海岸に行く。
新婚で長女が誕生し、2人目の子供も妻のおなかにいるときだった。
金もないし、海外旅行なんて夢のまた夢の時代だったが、
妻の母親が、費用丸抱えでわたしをアメリカに連れて行ってくれたのである。

人生観が180度変わるぐらいのすばらしい経験だった。
その後、30回近くに及ぶ海外旅行のスタートになったし、
英会話の勉強にも俄然熱が入ってきた。

このとき、妻の母親がわたしに投資したものは、
わたしの妻にもいいプレゼントになったのだろうと思う。
その後の旅は、ほとんど、妻や家族が一緒だったから。


・1984年(昭和59年)慶応義塾大学文学部卒業(通信大学)

文学の勉強を基礎からやり直したくて、通信大学に入学した。
当時は、高度成長の時代で企業にも余裕があった。
夏になると、スクーリングで40日間上京して、
日吉や三田のキャンバスで学んだのであるが、
会社は、その期間の休暇も、給料も出してくれた。

そのような生活がトータルで4年間も続いた。
代々木オリンピック・センターに宿泊しての学生生活。
勉学にも真剣に取り組んだが、本物の学生以上に、
キャンパスでの生活を楽しんでいたと思う。
東京はそんな意味で非常になつかしい場所になった。

卒業論文は、高校時代から親しんだ作家である石坂洋次郎を選んだ。
三田の先輩だったし、大学の図書館には資料がそこそこ揃っていた。
神保町の古書店街にも何度も足を運んだ。
原稿用紙で140枚ぐらいの卒業論文になった。


・2001年(平成13年)滋賀大学経済学部情報管理学科卒業(社会人コース)

50歳を過ぎてから、再び大学に入学する機会に恵まれた。
滋賀大学はわたしの家の近所にあったし、
当時は「システム開発」というプログラムを開発する課に所属していたので、
仕事にも多少の関係はあったのである。

ここでも、4年間、仕事を終えてから夜のキャンパスに通った。
4年間の学費100万円ほどは、会社が負担してくれた。
多分リストラの環境を整えるための施策であったと思われるが、
わたしにとってはラッキーなことであった。

インターネットの環境がまだ充分ではなかった当時、大学のパソコンから自由に、
インターネットが利用できることがうれしかった。


・2006年(平成18年)NTT退職

退職の1年ぐらい前から、退職後の生活について、
かなりの情報を新聞、テレビ、雑誌、随筆などから集めた。

「夫には定年退職があるのに妻にはないの?」という問いかけが心に響いた。
文句も言わなかったが、今までは家事のすべてを妻にまかせきりだった。

定年後も今までのような生活をつづけるのはフェアではないと思い、
週に2日間だけは、朝から晩まで家事の一切を引き受けるということを、
わたしの方から、妻に申し出た。
そうして残りの5日間は、今までどおりわたしの時間を確保することができた。

定年後のゆっくりとした時間の流れ、リズムは、わたしの気質に合っている。
いつまで続くのかよくわからないが(身体があまり丈夫ではない)
自由に旅をしたり、日常の風景を書いたり、英語の勉強も続けて、
音楽を聴いたり、読書をしたり、漫画を読んだり、映画を観たり、
たまには庭に花を植えたり、ボランティア活動をしたり、インターネットを楽しんだり、
行きつけの飲み屋で談笑したり、友と会ったり、
孫の相手をしたり、料理を工夫したりして、
残された日々をのんびり、ダラダラと過ごして行ければなあと思っています。