後醍醐天皇綸旨
色川文書八通の内、二通が後醍醐天皇より賜った綸旨であり、それをここに紹介する。
1 後醍醐天皇綸旨
南山の輩ら凶徒退治の事、軍忠を致すの条神妙、いよいよ忠節を抽んでしむべしてへれば、天気かくの如し、これを悉くせ、以て状す、
三月十四日 左中弁(花押)
本文書は、宿紙に書かれ、確実なる後醍醐天皇の綸旨である。
年時は記されていないが、おそらく延元元年の三月十四日で、綸旨を奉じた蔵人左中弁は、中御門宣明である。あて名は見えないが、色川郷民にあてられたものと解せられ、同天皇が、南山の輩ら凶徒を退治した郷民の軍忠を賞せられ、今後さらに忠節をはげむようにと仰せられたものである。
2 後醍醐天皇綸旨
色河兵衛尉盛氏一族を相催し、紀州に発向し、軍忠を致すべしてへれば、天気かくの如し、これを悉くせ。
十二月廿四日 左中将(花押)
本文書も疑いない確実なる後醍醐天皇綸旨にして、宿紙に書かれている。 これも年時を記さず、またあて名が見えないが、別に存する延元元年七月日色川盛氏軍忠申状と照合するに、延元元年ごろの十二月二十四日、同天皇が、盛氏に、一族を催し立てて紀伊に発向し、軍忠を致すようにと命ぜられたものと考えられる。綸旨の奉者左中将は、冷泉持定である。
(那智勝浦町史抜粋)
助さんと色川文書
テレビの長寿番組で、時代劇を代表する「水戸黄門」。
水戸黄門が、助さん、格さんをつれて全国行脚していますが、助さんは、その当時の学者で、佐々宗淳または助三郎と呼ばれていた。
徳川光圀が、彰考館を設けて大日本史を編纂するに当たって、宗淳は、各地を巡ってその資料の収集に努め、後に彰考館総裁となり、元禄12年(1699年)死去した。
宗淳が熊野に来て、「色川文書」を調べたのは、延宝8年(1680年)申八月と「大野文書」に記している。
宗淳は、光圀に当てた文書に「那智より五里ほど奥に、色川と申す山村これあり、ここに平維盛の子孫がおります。文書など持っていると承っているので、
色川へ行くと申したところ、新宮城代が申すには、ことのほか険しいところで、
なかなか困難であるから色川の庄屋にその文書を持って来るよういたしますといわれ、色川庄屋がこれを持ってきた次第であります」と記し、その後、宗淳は「色川文書」を写して、更に各地を巡り水戸に帰って詳しく報告したところ、
光圀は大変喜ばれて、宗淳を通じて銀子をおくりお礼を申したという。
「色川文書」など歴史文化財は、現在、大野保郷会が管理、保存しており、一般公開はしていないが、11月第3日曜日の虫干しの日に見学することができる。
色川姓のルーツは?
色川の地には、色川姓はないが関東特に茨城県に色川姓が多い。
その人達のルーツは? 諸説あるがその中の一説を記する。
色川の歴史は千年とも言われている。
那智勝浦町史年表に、646年色川郷起こると記している。
色川郷18ヶ村は、その後、順次開拓され集落が形成されたと思われる。
平維盛が色川郷に落ちのびたのは、1184年とされる。
その後、維盛の子孫を含め色川一党は、南北朝時代、南朝に組して北朝と戦い、 戦果を挙げ、色川一党は、後醍醐天皇から綸旨を賜ることとなる。 色川一党の中には、南朝方の北畠氏の伊勢の地に住み着く者も居り、北畠氏が東北征討を命じられ、海路東北に出発するが、色川党の者も加担して出発したと云われる。
海路進撃した北畠氏の船は、途中大暴風に遭い止む無く常陸に不時上陸することとなる。 その中の色川党が、常陸の小田氏に仕え、その後、野に下り、土浦に於いて農業を営んだとある。
その色川党が、関東色川の祖となったと考えられる。 色川党の末裔には、有名人が多く、実業家あり、政治家、学者等が多勢出ている。 その中、特に有名なのは、幕末の学者であり、実業家であった色川三中(みなか)がある。三中の弟御陰(みかげ)も有名な経済学者であり、歌人でもあった。
現在人の中にも、東京経済大学教授の色川大吉先生、弁護士で最高裁判事であった色川幸太郎先生、麻雀放浪記の著者阿佐田哲也こと色川武大氏も色川に祖先を持つ方々である。
色川姓を持つ方が、自分のルーツを知るため色川の地を訪れている。 色川姓のルーツである色川の地に是非お越し頂き、古に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
平成の色川の隠れ宿 不動坂
色川の地は、今から827年前、平家の三位中将 平維盛が隠れ宿が隠れ住んだ由緒あるところです。
維盛は、平清盛の孫にあたり、平重盛の嫡子です。
屋島の戦いから逃れ、熊野に詣でた後、色川に辿り着き、土地の者の協力を得て隠れ住むこととなりました。
その間、土地の娘と婚を交し、2名の男子が誕生しています。その子孫は、今もこの地で暮らしています。
維盛が隠れ住んだ場所は、「藤綱の要害の森」という土地の者でも行くのが大変な奥山にあり、源氏の追手から逃れるためであったと考えます。
不動坂は、色川の玄関口にあたり、追手からはすぐに見つかりますが、那智連峰妙法山の南方斜面に位置し、熊野灘を見下ろす絶景地にあります。
心を癒す場所としては、共通する隠れ宿です。
貴方も、現在の平維盛になってみてはいかがですか。