曲  の  紹  介

タレガ作曲「エンデチャとオレムス」
MIDIデータ M. HatTarsakey

 エンデチャ(挽歌)は断片的ながら、フランシスコ・タレガ(1852−1909)の晩年の心境を告げる美しい作品です。オレムス(われら祈らん)は、繊細な美をそなえた曲で、エンデチャと一対に考えられ、通常、続けて演奏されます。タレガが愛した作曲家のひとりであるローベルト・シューマン(1810−1856)の「20のアルバム・リーフ」のうちの第5曲「幻想的舞曲」の主題により書かれています。演奏時間は2分11秒です。

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タ レ ガ の 生 涯





 1852年11月21日、スペインのレバンテという町の一隅に、ギタリストで作曲家のドン・フランシスコ・タレガ・イ・エィクセアが生まれました。この町は、スペインの東部に位置し、太陽と自然に恵まれ、よく肥えた土地と温順な気候で、ワインの産地としても知られています。また、古くからのキリスト教徒の町で、史跡と伝統には、住民の高潔さと勇気と芸術性が漂っていました。

 タレガの父は、町の監視人をつとめ、母は聖パスカル修道院の尼僧たちの走り使いをして家計を助けていました。幼いタレガは子守女に預けられる日々が続きました。ある日、むずかってなく子供を、少女であった子守女はなだめることができない腹いせに汚水の堀に放り込んでしまいます。このショックと冷えは、赤ん坊であったタレガを生と死の間をさまよわせ、ついに、その両眼は全快することなく、遺伝の要素も加わって、それ以来、ずっと奇病に脅かされることになるのです。

 小さなタレガを、家族も他人も「キケート」とバレンシア風の愛称で呼びました。

 鋭い感受性と細やかな観察眼は、洞察力にも富み、多感な幼年期でした。しかし、家計は一向に乏しく、幼いキケートは学校へ行く時間を割いてまで、家計を助けていました。

 芸術好きな父親の決意で、家計が乏しいにもかかわらず、音楽の基礎教育の手ほどきを受けることができました。やがて、小さなタレガに楽才を認めた父親は、さらにピアノとギターを本格的に習わせるようになります。しかしながら、タレガは、これらの練習時間を割いてまでも、やはり家計を助ける必要があったのです。

 こうして、早くから少年タレガは、周囲から素質が認められました。父親自身が不自由な眼(35歳の時からほとんど眼が見えませんでした。)を持っていたため、幼いタレガが眼の病に悩まされ、生きていく上で妨げにならないよう深い配慮により、音楽の修行は将来に向かって続けられました。

 激しい戦争により19世紀のスペインにおいては、本来の音楽を眠らせてしまい、軽い歌曲などが少しずつ生まれた程度でした。こんな時代がタレガの青春期なのです。1865年のある日、タレガは父親の家を抜け出し、決然とバレンシアへ旅立ちました。

 バレンシアでタレガは様々な人に接することができました。音楽に触れ、演劇に触れ、絵画に触れ、タレガの情熱は、日ごとに豊かな知識を蓄積していきました。教養を積み、芸術性に磨きをかけ、勤勉で謙譲な知性人に成長するのです。

 他人に対しては愛情が深く、寛容である一方、自分自身にはたいへん厳しかったのです。こうした生活の中にも熱狂的な讃美者たちがタレガを取り巻いていましたが、生来の芸術家気質のタレガにとって、長く日常の生活をともにすることが心地よいものではありませんでした。

 そして、再び、父の家に戻ることになるのです。相変わらず不安定な家計を助ける必要があり、カジノでピアニストとして働き、これがすむと門弟を教え、家路につくのでした。それから、夕食時まで自分の練習を続け、またカフェへ行ってピアニストを勤めました。来る夜も来る夜も生活との戦いは続き、残された僅かなの夜の時間に、ギターを手に取り、弦の下のブリッジにハンカチを挟み、音量を弱めながら、疲れるまで練習に励みました。眠気を覚ますために、冷たい水を入れたたらいの中に両足を入れて、ギターを弾き続けました。いつしか、ギタリストとしてしっかりした音楽性を、ピアニストとして表情豊か繊細さを備えるようになっていくのでした。

 タレガの芸術は同輩達の間を抜きん出た水準に達していました。ピアニストでありギタリストであるタレガは二重の真価を発揮し、名声も広まりました。その頃、高潔な友人カネサが現れ、以前より安定した暮らしができるようになり、この理解ある擁護者の協力により、ギターの名器トレースを手にすることができたのです。

 1871年、タレガは19歳のときに兵役につきました。

 その後、1874年から75年にかけて、マドリード音楽院に学びました。22歳で音楽生活はすでに14年を数えることになります。音楽院の教授たちを前に演奏したとき、多くの教授たちの賞賛を浴びました。この成功は友人や讃美者の間にも広まり、タレガは著名な芸術家たちと慈善演奏会に参加することになりました。アルハンブラ劇場での音楽の一夕は巨匠アリエタの熱烈な祝福を受けました。タレガは、ピアノを音楽修養に欠かせないものとしつつも、彼の感受性と気質に最もふさわしい表現の道具は、ギターであることに確信を持ったのです。




 タレガの道はギターのほかにはありませんでした。1881年パリからイギリスへと演奏旅行が続けられました。

 当時、どんなに優れた芸術家であっても、その活動をマネージメントしてくれる機関はなく、自分で勘定をしながら、リスクを負いながら、リサイタルの開催に時間を割かなければなりませんでした。

 この年、マリア・ホセ・リソと結婚します。

 時間を費やしての演奏会は、よほどの生活の窮乏がこれを要求するか、あるいはギターの真価を擁護するためにだけ開くということを決意しました。タレガは規定のプログラムだけでなく、彼の演奏ならいつまででも聴いていたいという熱狂的な理解者のグループに取り囲まれて、内輪だけのもう一つの演奏会を開き、夜明けまで続けられることが多かったのです。このような選ばれた聴衆との静かなコンサートを開くことに、この上ない喜びを感じていました。




 また、芸術への愛とギターの音楽性への洞察の実りとして、優れた作曲と多様な編曲を残しています。常に新しい問題に取り組もうとする熱意が、ピアノ、バイオリン、チェロあるいは室内楽または交響曲など、バッハからタレガの時代に至るまでの多くの楽曲を、ギターの音色と可能性の範囲内でギター用に書き換えていきました。それらは、あくまでも作品の精神を損なうことなく、ギターで演奏できる作品となるように心を砕いたのです。

 タレガの素朴さ、真面目さ、自己への厳しさは、常に人間らしい心をもって、感じやすい6本の弦の上に、タレガの指により曲が作り出されました。記譜はあくまでその後のことなのです。頭脳で展開してみせる複雑な管弦楽曲を作曲しようとしませんでした。それは、ギターへの愛のあり方の証でだったのです。

 タレガは、楽曲をギターの精神と領域に合わせながら理解していました。言い換えるなら、タレガの曲は、一つの精神性を持ち、先人のギタリストであるフェルナンド・ソルやナポレオン・コストのような大曲こそ残しませんでしたが、抒情の面では、タレガほど深奥に触れた作品は他に類を見られませんでした。

 これらの作曲、編曲をものとするとき、必ず斬新な技法が編み出され、それらの演奏上の特技はすばらしい音色を生み出し、効果を生み、ギターの父といわれるタレガの精神は、現代へも脈々と波打っているのです。

 1887年、バルセロナに定住します。

 1897年秋、パリに渡ります。



 1898年、円熟期にさしかかったとき、膝をリューマチに冒されますが、翌年、コンサートを再開しています。この時、パリの友人へ、手紙と2つの曲が送られています。そのうちの1曲が、「アルハンブラ宮殿の思い出」でした。

 晩年、いつものように和音をかき鳴らすタレガが突然倒れました。血栓病で右半身が動かなくなってしまいます。

 家族や周囲の人々の手厚い看護とタレガの不屈の堅固な意志により快方に向かい、再び演奏旅行ができるようになりました。

 しかし、短い期間はすぐに過ぎ去り、1909年12月15日にバルセロナで静かな眠りにつきました。葬礼に際しては、彼の残した名曲の1つ「アラビア風奇想曲」が、町のブラスバンドにより演奏されました。そして、タレガの遺志により生まれ故郷であるカステリョンに埋葬されました。

 ギターへの愛、そして、貧しい者への愛が、終生、タレガと民衆を、一層近いものにしていました。


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