コンタクトレンズ

トニーはギリシャ系のアメリカ人である。
面長で髭が濃く、剃り跡がいつも青々としている。三十前ぐらいに見えるが、
実際は二十一才である。

わたしが住む滋賀県の彦根市は、近年、御多分にもれず、
市の国際化ということにうわべは熱心に取り組んでいる。
ミシガン州立大学の日本分校を市に誘致したのもその一貫である。

毎年九月の新学期が始まると、四十名近くのアメリカの若者が
日本語や日本の文化を学びに彦根市にやって来る。

近所の教会へ英会話を習いに行っていた関係で、
英会話の練習仲間が五、六人寄り集まり、大学のロビーにポスターを張ろうと言うことになり、
《日本語をコーチしますので代わりに、英語を教えてくれませんか?》
というメッセージを出したところ、その日に四、五件の問い合わせがあり、
恐縮しながら数人断わる羽目になってしまった。

一番最初に電話してきたのが、トニーだった。
こうして、わたしたちは週に一度喫茶店で、
日本語と英語が混じり合った、楽しい会話を続けることになった。

アメリカ人はなまけものだとか、
もうアメリカはだめになったとかいう種類の論議をよく耳にするが、
彦根に来た実際のアメリカの大学生を見ていると、
その種のはなしはとてもばかげた論議のようにように思える。

アメリカの学生もいろいろいるのだろうが、
勉学に取り組む姿勢はほんとうに真摯なものがあり、
教授が学生に提出を求めるレポートなども中身の濃いもので、
学生は教授が求めれば徹夜してでも、必ずそれを仕上る。

このような、学生が次のアメリカを背負って立つのだ。
わたしは大いに期待している。

日本の学生と決定的にちがうのは、
人間としての独立心だと思う。個人を強く主張するが、
責任も必ず自分で取る。その進取の気合いのようなものが見事であり、感嘆させられる。

トニーの家は両親が離婚していて、母子家庭である。
決して金持ちではない。日本に来る費用などもすべて、親に頼らず、
トニー自身が銀行に行き教育ローンを自分で組んで来たのだ。

トニーだけが特別なのではない。特別の金持ち以外はみんなそうなのだそうだ。
だが、そんなトニーもアメリカに帰ってしまって彦根にはいない。
九月に来て、翌年の四月にはもう卒業なのである。

彼から、英会話以外に、いろいろなことを学んだが、
そのなかでいちばん、印象に残った思い出をここで紹介したいと思う。

去年の十一月の事である。私たちは彼とピクニックに行く計画を立てた。
だが、当日の直前になって、毎週トニーを囲んで話し合っている仲間が、
仲間といっても、高校の先生とか、市役所の職員とか、家庭の主婦とか年齢も職業も、
性別でさえバラバラなのであるが、つぎつぎとどうしても都合がつかなくなったのである。

これは延期するしかないと思って、トニーのところに電話すると、
今度はトニーの都合がどうしてもつかず、結局、トニー、ガールフレンドのビッキー、
それにわたしと、わたしの娘の真紀子の四人で出かけることになった。

目的地は、七本槍で有名な古戦場の賎ヶ岳である。
おだやかな秋晴れの、絶好のハイキング日和りになった。
くるまで賎ヶ岳のふもとに着いたとき、どこかで運動会でもやっているのか、
はなやかな行進曲が風に乗ってかすかに鳴り響いていた。

賎ヶ岳はふもとから山頂までロープウェイが一直線に山林を切り開いて渡されている。
そのロープウェイを利用すれば五分余りで、山頂の手前まで一気に行くことが出来るが、
わたしたちは歩いてゆっくりと山頂をめざすことにした。

トニーとわたしが背負っているリックのなかには、おにぎり、
くだもの、缶ビールなど上で食べる食料品がぎっしりと詰まっている。
山道はハイキングにもってこいのおだやかな坂道がゆっくりと蛇行している。

天気は申し分がないし、ときどきおだやかにさっと吹く風が、とてもここちよく、
わたしのこころはうちうきとはずんでいた。
賎ヶ岳の山頂からの眺望は北琵琶湖全体が一望のもとに見渡せ、
竹生島がすぐそばにびっくりするような迫力で迫って来る。
私たちは、山頂でのその景色を楽しみにしながら、山道を歩いた。

「わたし、日本にきてハイキングするの初めてです。アメリカではよく行く。
ミシガンこのような山多い。わたし、歩くの大好きです」

ビッキーが高三の娘に最初英語で話しかけたが、
しばらくすると、ビッキーはたとたどしい日本語、
真紀子は思い出すことの出来た英語の単語だけを
ひとことで返事するというパターンになっていた。

それでも大筋ではコミュニケーション出来ているのである。
ビッキーはあざやかな純粋の金髪で、小柄な美人だった。

ロープウェイが出来てから山道を歩く人はほとんどいなくなったのだろうか、
ふもとから少し上に登ると、山道は徐々に細くなり、
すすきのような葉の長い植物が道を覆うように密生してきた。

「わたしの小学生の頃、遠足でよくここに来ました。
そのときはこんなに草は生えていませんでした。すこし残念に思います」

「ふもとに、英語の看板立っていました。むかし、日本のさむらい大勢ここで戦争しました。
当時の雰囲気があってこれもまたいいです」

そのような、たあいもない会話をトニーとかわしていたとき、
突然一番前を歩いていた娘の真紀子が、
「あっ」と短い叫び声を上げ、顔を押さえながらその場にしゃがみこんだ。

「どうしたの?」「なにか、悪いこと起こりましたか?」
と、みんなは驚いて真紀子のそばに駆け寄った。

「コンタクトレンズを落としたみたい」
真紀子が慎重にまばたきを繰り返しながら、元気のない声を上げた。

すすきの弾力にとんだしなやかな葉先が、
真紀子の右目を打ちついでにコンタクトレンズまで飛ばしてしまったらしい。
コンタクトレンズは、家の洗面台の上で失くしたとしても、
なかなか見つけるのが困難なのだ。

ましてや、山道で、それも、
どの方向に飛んだのかよくわからないようなものを見つけるのは不可能に近い。
一瞬、重っ苦しい沈黙が流れた。

わたしは形ばかりそのあたりを見渡し、
これはあきらめなしょうがないね。と言おうとしたとき、トニーが、
「われわれは、とにかく、それを見つける努力をしましょう」
といいながら、山道にしゃがみこんだ。

ビッキーもトニーと同時に「わたしがレンズを見つけられますように」
とひとりごとをいいながら、真剣に捜し始めた。

結局四人が、その場で10分程手分けして捜したが、
当然のこと、見つけることは出来なかった。
「もう諦めましょう」といった真紀子のことばがきっかけになり、
みんなは残念そうにのろのろと立ち上がった。 

再び山頂をめざしたが、いままでのうきうきとした雰囲気が微妙にくいちがってきた。
山頂に着いてからも、眼下のすばらしい琵琶湖の眺望に真紀子はわざとしゃぎまわり、
表面上はみんなもそれに合わせた。
コンタクトレンズのことを口にするものは、だれひとりいなかった。

なんとなくはずまない食事も終わり、しばらく雑談した後、
「帰りはロープウェイにしようか?」
予定にはなかった事だが、その場の雰囲気を考えて、わたしがそういうと、
「わたし、帰りも歩きたい」とトニーがめずらしく反対の意見を言った。

「まだ時間はやい。わたしも、歩く方がここちがいい」
とビッキーもトニーをサポートしたので、結局帰りも同じ道を歩くことになった。

再び真紀子がコンタクトレンズを失くした場所に来たとき、
トニーが「もう一度捜してみましょう」といいだした。

「もう心配しないで、わたしとっくに諦めたからいいの。
それにこんな場所で見つけるなんて不可能に近いわ」
「でも、たとえわずかの可能性でも残っていれば、努力はしてみるべきだよ」

ロープウェイを使用するのを断わったときから、
トニーは、もう一度捜すつもりだったのだろう。
彼はみんなの意見を聞くこともなくGパンが汚れるのに、
その場にベタッと座り込み、捜しはじめた。

四人が捜しはじめてまもなく、トニーが「あった」と一言、
奇跡のような日本語を変なアクセントで口にした。
みんなトニーを振り向くと、トニーの指先に、
真紀子のコンタクトレンズが木漏れ日に反射してぴかぴかと宝石のようにひかっていた。

昨日、トニーから現地生産の日系一流企業に就職が決まったと葉書で知らせてきた。
トニー。いい思い出をほんとうにありがとう。
とにかく、日本とアメリカの架け橋を目指してガンバレ。