タイムスリップ
SF小説も嫌いではないので、むかしからタイムスリップとか、
タイムマシンということばには慣れ親しんでいる。
本格的なSF小説に出てくるような、タイムマシンが未来においても、
実際にできるとは思えないが、ちいさな過去にタイムスリップするというような体験は、
日常生活においてもすべての人が経験しているのではないかと思う。
それほど大した体験ではないが、母親の一回忌の日のことである。
わたしの母親は去年のちょうど春祭りの日に亡くなっている。
そして、あっという間に一年が経過し、親戚に集まってもらって、
記念の式典をとりおこなった。
祭りの日が命日にあたるというのも、ふしぎなものである。
厳粛な式典のさなかに、家の前をみこしが練り歩き、
「ワッショイ」「ワッショイ」と威勢のいいかけ声が聞こえてくる。
人一倍寂しがり屋だった母親にふさわしい命日のような気もした。
今年、九十歳を越えたGおじさんも来てくれた。
普段、ほとんど会っていなくて、おじさんとわたしが共通に話題にできるのは、
わたしが、子供の頃のはなしだけである。
なつかしいはなしがいっぱい出てきて、わたしの子供時代のことを、
あざやかに、いきいきとした映像として思い出すことができた。
やがておひらきとなり、わたしがGおじさんを自動車に乗せ、家まで送っていった。
くるまが、Gおじさん村に近づくと、にぎやなかおはやしが聞こえてきた。
そういえば、Gおじさんの村もお祭りなのだ。
家の祭りより、おじさんの家の祭りのほうが、ごちそうで、
にぎやかだったので、自転車でひとりよくきたものである。
やがて、家に着いた。仏事のおさがりや、供養の品物を届けるために、
わたしもなつかしいおじさんの家に入った。
おばさんが出てきて、まぁお茶でもと勧められるのを、
振り切るようにして家を出ようとすると、Gおじさんは、ポケットから、
半紙に包んだ小遣いをあわてて取り出すとわたしに握らせようとする。
わたしは一瞬あっけにとられた。
ちらっと、おばさんのほうを見ると、困ったような、はにかんだような、
すこし困惑した表情を浮かべているが、何も言わない。
おじさん、そんなのいいです。と、すこしもみ合いになったが、
途中からふっと、なんともいえないなつかしい感じがした。
このようなことは、むかし何度もあったのである。
「じゃ、おじさん、遠慮なくいただきます。どうもありがとう」
じぶんでも驚くほど、若々しい声が自然に出ていた。
学生帽をもしかぶっていればそれを取り、ペコリと礼儀正しくあいさつをするのが、
ぴったりとするような口調であった。
外に出ると、まつりの大太鼓の音や、おはやしの音が一段とにぎやかに聞こえてくる。
わたしのポケットには、半紙に包まれた小遣いがある。
ひょっとして、その中身は百円札かもしれない。まっすぐに帰るつもりだったが、
なんとなく、うれしくなって、そのまま、ポケットのなかの半紙を握りしめ、
屋台のいっぱい出ている神社に、魅きよせられるように足が向いていた。