柿の木
                
つややかに色づいた柿をみるたびに、
少年の頃のノスタルジーがふとよみがえることがある。

今でこそ、わたしが住んでいるところも新興の住宅地のようになってしまったが、
少年の頃は、ずっといなかで田圃や畑がまわり中にあふれていた。
そして、やたらに柿の木が多かったように記憶している。

まわりに家影のない畑、堤防の横のあぜみち、繊維工場の寄宿舎の中庭。
そんなところに植えられている柿の木は、実が熟すようになるとわたしたちの格好の餌食になった。

柿だけではなく、栗とか、いちじくとか、ぐみとか、
どこに、どのようなものが、いつごろ成るか、という情報にわたしたちは驚くほど精通していた。

一番おいしくて大きな柿は繊維工場の中庭の塀に沿って点々と植えられていた柿だった。
だが、この柿を手に入れるにはおおきな問題がひかえていた。
自分達の背の二倍以上はしっかりある塀の上に登りつかなければ柿が取れないということだった。

塀の端の桜の木から飛び移り、不安定な塀の上をそろりそろりと移動して、
目的の柿の木までたどり着けば後は取り放題だったが、
寮看に見つかれば、逃げ場がなくて塀の上でそのまま立ち往生ということになる。

わたしたちは、寮看に見つかるのを心底おそれていた。
寮看は、もう五十才は越えていただろうか、
あたまは丸刈りで、色が黒く、背は低かったが肩幅広く、いかにも軍隊上がりというふうだった。

また、声がやたらに大きくて、「こらっ!」と遠くから怒鳴られただけで、
目の前が恐怖で一瞬真っ暗になり、思わず塀から落ちそうになった。

それにもかかわらず、ときどき出かけて行ったのは、
柿があまりにもおいしかったのと、わたしたちが取らなければ、
その柿の多くはそのまま朽ちるにまかされていたからである。

怖かったのは寮看だけで、寄宿舎に住む女工さん達に見つかるのは平気だった。
それどころかわたしたちとはほのかな心の交流があったのだ。
わたしたちを見つけると近づいてきては「坊や、お姉さんたちにもすこし放ってちょうだい」と、
まるで猿かに合戦のような光景が大きな柿の木のふもとで繰り返された。

また、柿の木のある親戚から正式にもらったり、
その家に取りに入ったりすることも多く、とにかく、秋になれば柿の実だけは豊富にあった。

そのようなわけで、結婚してしばらくは、
妻が柿をスーパマーケットで買ってくるということになんとなく違和感があった。
柿を、りんごやみかんと同じようなくだものとして買うということが信じられなかった。

だが改めて、じっくりとあたりを見渡してみると、
はなやかな女工さんの歓声につつまれていた、
繊維工場も紡績不況で寄宿舎は取り壊され、柿の木もいつしかなくなっていた。

畑の柿の木も住宅になり、堤防の柿の木もコンクリートで固められてしまった。
柿は大好きなのだが、妻と違って、どうしても買って食べるということになじめないわたしは、
五年前に園芸店から一本の柿の木を買ってきて庭に植えた。

枝も葉もなにもない、まるでごぼうのような柿の木だったので、
あまり期待はしていなかったのだが、
これが見事に三年目ぐらいから実をつけるようになった。

実も大きく味も悪くないのだが、これがふしぎな品種で、
枝垂れ桜のように枝がふんわりと下を向くのである。 

これだけならなんていうことはないのだが、
放っておくと幹自体も斜めになり地面に倒れそうになる。
思いあまって、幹を針金でしっかりと縛り、近くのフェンスの支柱にくくりつけ、
幹がまっすぐになるように持ち上げた。

こうして、どうやら針金の助けを借りてまっすぐに立っている柿の木であるが、
最近気がつくと、幹にくくりつけた針金の上をあたらしい樹皮がおおい、
針金はすっかり幹のなかにとけ込んでしまっている。

たくましい営みをかいま見せる癖に、
まだ針金がないとまっすぐはひとりだちできそうもないのである。

秋になり、針金に縛られたまま、実を鈴なりにつけたわが家の柿の木を見るたびに、
たくましいのか、たよりないのか、少年の頃のノスタルジーも手伝って、
ふしぎな感慨がときおりよぎるのである。