波多横山は何処


 
   七栗の湯でおなじみの温泉施設や図書館などのある「とことめの里一志」は、平成9年2月号

  「広報いちし」によると高野の斉藤茂子さんが、万葉集の波多横山の巌を詠んだ

       河上の ゆつ磐村に 草むさず 常にもがもな 常処女にて

  からとことめの里の名称を思いついたとのことである。


   自分が波多横山を意識したのは、菅笠日記を知ったときだった。

  明和の時代に本居宣長一行が大仰を旅したことにワクワクし、「・・・かの吹黄刀自がよめりし波

  多の横山のいわほといふは・・・」と書き示したことに笠着地蔵さんの付近かなと思ったものであ

  る。そして一志町史でその「波多横山」の所在について、諸説いろいろあることも知った。



八太の里説 大仰説 井関説 波瀬説
三国地誌


三重県風土史蹟/大森孤舟


考古学者/鈴木敏雄


万葉の旅/犬養孝


沢瀉久孝

万葉考/加茂真淵


菅原日記/本居宣長


布留屋草紙/古谷久語


谷川士清の高弟/久島政方


東海万葉散歩/服部喜美子


上代文学六号/森本治吉



万葉紀行/土屋文明


万葉三国志考/奥野健治




  ただ諸説あり過ぎて、一志町史においても「未だ一つとして確証を得て決定すべき程のものはない。

  したがってこれは引きつづき今後の考察と研究に待つべきものが多いだろう」と締めくくっている。

  一志町史を数えてみたら13説もあったがその当時はそれ以上の興味はまったく湧かなかった。


   平成29年7月29日三重タイムスの日々想々のコラムに「一志波多横山はどこ?万葉とことめ

  浪漫」として駒田博之氏の寄稿があり、波多横山は大仰の地が最もそれらしいと述べられている。

  ・その一つは、大仰橋から約1Km上流の雲出川の川幅が1300年余りの昔は今の数倍あったこと。

  ・その一つは、地元の人が「横山寺」と呼んでいる誕生寺の裏山で大仰城址でもあるところが横山

  にふさわしい。

  ・その一つは、大仰という地名である。仰ぐとは高貴なものを仰ぎ見ることであり、大がついて横山

  に住み着いた十市皇女を崇拝して地名となった。


  しかし、恐縮ながら地元に住まいする者として少し無理があるようにも感じました。(^^ゞ

  今だかつて「横山寺」は聞いたことがない。

  確かに誕生寺五代目住職は横山智深氏(昭和49年3月寂)でしたが、横山寺にはちょっと飛躍過

  ぎではないだろうか。

  自殺説もある十市皇女が宮中を抜け出し、波多横山(大仰)に移り住み静かな余生を送ったとは考
 
  えにくいが・・・・・そうあって欲しい!とも思うものです。

  何はともあれ、真盛上人ゆかりの誕生寺や大仰城址、中勢鉄道など絶好のキーポイントを持ってい

  る土地柄であり、波多横山も大仰地区と決め津市の観光地として大いに宣伝すべきと地域活性化に

  エールを送ってもらったことは、地元の一人として誠にうれしい限りのことであります。


  そんなことがあり、波多横山の所在地に興味が深まったのも事実です。

  さらに関心を深めることになったのが「万葉集」そのものでした。

  資料をしっかり読んでなかったのも原因だが、万葉集とは作者と詠まれた歌のみが羅列されている
 
  ものとばかり思っていました。

   岩波書店刊行の萬葉集一(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注)を手にし

  たとき、詠まれた場所やその背景など解説文が明記されていることを知りました。

  歌の中に波多横山とは書かれてないのになぜ波多横山で詠まれたと皆が言っているのかと思ってい

  た、まことにお恥ずかしいしだいである。

  これを知ったときは波多の横山とハッキリ書かれているのに、なぜ大仰や井関や波瀬が出てくるの

  かと逆に不思議な思いもした。


   十市皇女参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌、吹黄刀自作歌
   河上乃 湯都盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常処女煮手
   吹黄刀自未詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女阿閇皇女参赴於伊勢神宮。


  十市皇女の伊勢神宮に参り赴きし時に、波多の横山の巌を見て、吹黄刀自の作りし歌

  河上(かわのへ)のゆつ岩群(いわむら)に草生(む)さず常にもがもな常娘子(とこをとめ)に

  て吹黄刀自(ふきのとじ)、未だ詳(つまび)らかならず。但し、紀に曰く、天皇の四年乙亥(い

  つがい)の春二月乙亥の朔(ついたち)の丁亥(ていがい)、十市皇女と阿閇皇女(あへのひめみ

  こ)と伊勢神宮に参り赴ききといふ。


 【現代訳】

  十市皇女が伊勢神宮に参拝したときに、波多の横山の巌を見て、吹黄刀が自作った歌

  川のほとりの神々しい岩の群れに草が生えず清らかなように、何時までも変わることなくあってい

  ただきたいものです。若い乙女のままで。

  吹黄刀自のことはよく分からない。但し、日本書紀には、天武天皇の四年(675)二月の十三日

  に、十市皇女と阿閇皇女とが伊勢神宮に参拝されたとある。


   このような経緯もあり万葉集にある波多横山はホントにどこの風景なのか、と興味が深まりまし

  た。悲劇の女性十市皇女の心を癒した風光明媚な土地は、我がふる里近郊の話には間違いなさそう

  である。北海道でもなければ九州でもない、自転車でもいける所にあるわけでさらに興味が深まり

  ました。

  そんな頃、川合公民館講座に地域力創造セミナー「わかりやすい歴史」で波多横山が目に留まり講

  座を通じて学んだことをここに書き溜めようと思いたった次第である。



風光明媚な大仰の里



 ここに一枚の写真がある。

これは飯田良樹氏所蔵の一部で明治2年のメモがある「参宮道名所図

絵」である。

「これ大仰」と見せられた時、「おっ!笠着き地蔵」と直感した。

大阪方面からの参宮は生駒山から暗峠そして初瀬街道とは飯田氏の解

説。

初瀬街道を下に見る高所から書かれているが、ひょっとして向こうの

山は矢頭山かな?

そんな思いでコピーを頂いた。

間違いなく雲出川を描いたものである。


 
   雲出川になんで帆掛舟? 大仰の里が何で名所図に? 何が名所?

   調べてみると伊勢久居藩史(藤影記)に次のことが書かれている。

   ・高通公の御選定に成った久居八景と言うのがある。

                  @布引の晴嵐
                  A八太の落雁
                  B青龍の晩鐘
                  C雲出の帰帆
                  D松間の秋月
                  E小山の夕照
                  F石橋の夜雨
                  G勢富の暮雪


   久居藩主が景色のいい所を選定した中に、雲出川の帆船が示されている。

   雲出川には昔帆を張って行きかう船があったのである。

   自分も古老から聞いたのだが、ふる里の墓地の南側に松の木がありこの木に船をつなぎ止めた

   のだそうで、大仰が運送の中継点であったそうだ。

   その松は自分も見ており墓地のところまでが川だったのだと思ったものであるが、いつの間に

   か切られて今は無い。

   雲出川は川幅ももっと広く、荷物を運ぶ船が往来していたのである。

   雲出川の上流美杉に奥津という在所があるが、この「津」は雲出川の港を意味しているのかも

   しれない。

   伊勢参宮の盛んな時代に、名所案内の挿絵にも載る景観の良い場所が我がふる里大仰にあった

   のである。

   そして思いははるか彼方に飛びます。

   十市皇女が参宮した7〜8世紀の時代の雲出川はさらに風光明媚で、

     河上の ゆつ岩群に草生さず 常にもがもな常娘子にて

   と、心を癒す歌が思わず出てしまう我がふる里であったのだ.。と、強く感じるこの頃です。

   飛鳥の時代、悲劇の十市皇女の心を癒すほどの景観が、わが大仰の里にあったのだと思ってい

   る。




公民館講座メモ


    川合公民館講座地域力創造セミナー「わかりやすい歴史」は、平成29年5月8日(月)から始

   まった。
 
   さて講座を受講するに当たり、予習として自分の知りえた範囲で自分の思いや疑問点をここで整

   理しておくことにしよう。



   @万葉集に波多の横山と明記されているのだから、波多の風景と見るのが自然と思われる。

   A一志郡史では、八太郷は豊地村八田を中心とした豊地・中郷両村に亘る地域であろうと解説し

   ており、波多が一志町八太か改めて考えてみる。

   B前の@項のこともあり、笠着き地蔵さんの付近と思っていたが考えを改める。

   笠着き地蔵付近や対岸の井生崖は難所であり、さらに谷戸坂という難所もある。広い川を渡るの
 
   も困難である。

   初瀬街道は江戸から明治にかけて発達した街道であり、飛鳥時代は利用されていないと考えるべ

   きだろう、よって十市皇女一行は笠着き地蔵さんの前を通っていなかった。

   C場所を特定していくには、「ゆつ岩群」がポイントになると思う。

   神聖な岩の群れが有るか無いかだろう。

   ところで、神聖な岩の群れて何を示すのだろうか。

   D十市皇女は天武天皇と額田姫王との子である。

   また、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の妻である。

   十市皇女の母違いに高市王子がいて、十市皇女は結婚する前から高市王子と想いを通わせてい

   て、それを知っていた刀自がその恋を願って詠んだのがこの歌との説もある。
 
   なぜそのような歌を波多の地で詠んだのか、それほど物思う景観だったのだろうか。

   十市皇女自身が詠んだ歌ではない。

   刀自:中年以上の婦人を尊敬して呼ぶ語。宮中の台盤所、御厨子所、内侍所などに仕えた下級

   の女官。

   E天武天皇紀四年(676年)二月十三日阿閉皇女(あへのひめみこ)と壬申の乱戦勝のお礼

   参りに伊勢神宮へ十市皇女は飛鳥を旅たつ。

   青山越えで二月十五日伊勢国波多郡へ到着、ここで詠まれた。
 
   母違いであるが、亡き夫(弘文天皇)の子供である壱志姫王が波多の豪族波多氏の所に居たわ

   けであり、再会の場であったのか。

   波多氏は、八太石・井関石を用いて石棺を作っていた、古代の石造部ではなかったかの説があ

   る。

   弘文天皇と耳面刀自との間に壱志姫王と与太王の子供があり、十市皇女との間には葛野王の子

   供がいる。

   豪族波多氏の居住地がポイントではないだろうか。

   Fなぜ波多横山の場所に諸説いろいろ出るのだろうか、景観から?歌が意味することから?地

   名と思われる「波多」は何なの?

   G波多神社もあり波多を現代の地名「八太」と思われがちだが、古代においての八太郷は豊地

   村の八田であると言う説がある。八太は鉢多であったと言う。


平成29年5月8日
   波多横山の巌を見て詠んだという万葉歌、その横山の所在の説を集めたら36説もあるという。
  770年に編纂された万葉集、その波多横山は大正頃までは
     @伊勢国の壱志郡
     A大和国の高市郡
     B伊勢国鈴鹿郡
  程度の説だった。
  昭和になって一志郡内でも大仰説や井関説、波瀬説、家城説などいろんな説を権威ある人が言い始
  めたとのことである。
  いわば、都合のよい良いとこどりをした感もあるとのことだった。
  「波多横山の巌を見て」と解説があるにもかかわらず、諸説が出てきた背景は分かる気がした。
  自分の予習の中で、一志町史から加茂真は大仰説としていたが、万葉考を読むと八太説とのことで
  ある。
  これは大変、この関係が崩れると本居宣長の大仰説も崩れることになる。
  では、なぜ、「菅笠日記」で本居宣長は、あのように大仰の風景を師の説を引用し褒めたたえたの
  だろうか。
  これは何としても「万葉考」をひも解く必要がある。


平成29年5月16日
 「菅笠日記」を読めば読むほど、波多横山が大仰の里に思えてきて仕方なかった。
 現時点での自分の思いを菅笠日記と波多横山(カーソルを当てクリック)としてまとめてみ
 た。

 今日、西田講師から「万葉考」に関係する資料を頂いた。
  ●こは伊勢の松阪の里より初瀬越して大和への行道の、伊勢のうちに今も八太の里あり、その一里
   ばかり彼方に垣内という村に横山あり、そこに大きな巌ども川辺に多し是ならんとおぼゆ

 確かに、八太の里は初瀬街道沿いにありとしているが、それから一里先は初瀬街道沿いではないとも
 とれる書き方だ。
 そして「かいとうの村」と明記している。
 八太の里から初瀬街道を外れて一里とすれば、町内の名倉の辺にあるJR井関駅付近も考えられる。
 しかし
 某日、波瀬の里から島田へ抜ける交差点から井関に向け走ってみた。
 何度も通っている道ではあるが、そのような思いで通ると新たに映る。
  確かに岩もある波瀬川、山並みもある・・・・・。
 しかし
 自分が思うには、川幅も狭く山並みも迫りすぎて景観を楽しむ感じではない。
 関ノ宮から島田を通り波多へ行ったと想像もできるが、その交差点からははるかに遠い。
 おやつカンパニー付近から蛇行しており、遠くを眺め見る風情ではない。
 
 さてさて「波多横山」は何処だろう、次の講座が待ち遠しい。
 

平成29年6月12日

 賀茂真淵「万葉考」を中心にその場所を検証した。
 江戸時代は、小一里と大一里があって小一里は6町654mが用いられた、という話は興味があった。
 波多の地名、山と川辺の巌を、古道、いずれのパラメータにおいて3者を満足させる場所は難しい。
 「かいと村」は、八太橋付近の小字名「八田海道」と言うが、大仰にも「垣外」は5か所ほどある。


平成29年7月10日

 3回目は延喜式と和名抄だ。まえまえから和名抄を見たかった。
 和名抄には郷は記載されているが、それを構成する村などの名前は書かれていないと言う、そのことが
 現代に置き換えるとき都合の良い解釈になる原因でもある。
 国郡制が確立できたのは大化2年頃、それから300数年後に書かれた、いわば百科事典である和名抄。
 村の名前が説明されてないと言うが、はっきりした村(里)などなかったと考えた方がいいのではと自
 分は思った。
 郷の境界は非常にファジーなものだったと理解した方が良いと感じた。


平成29年8月21日

 どうも江戸時代は、伊勢国の八太郷と大和国の仲峰山、そして関の三カ所の説しかなかったようである。
 近代以前の万葉研究の最高峰といって過言でない、鹿持雅澄の書いた「萬葉集古儀」がある。
 大和誌にある仲峰山村にとあるは、おぼつかなしとして否定している。
 賀茂真淵の「万葉考」も同じように波多横山の考察をしている。
 三国地誌37巻山川においても大和国や関を否定している。
 なぜ近代になって沢山の説が出てきたのだろうか。


平成29年9月9日
 
 昭和17年に土屋文明は一志を訪れ、波多横山の巌を考証している。
 十市皇女一行は、川口から波瀬・宮古から伊勢に向かったと仮定し、下の世古にある清水橋(しょうず) 付近を波多横山と結論付けしている。


平成29年10月15日

 昭和37年7月萬葉第24号で、澤瀉久孝は一志を探索しており大井小学校の裏山付近を波多横山だとした。
 そして笠着き地蔵前の大岩をみて、思わず「河の上のゆつ岩群に草むさず」と口ずさんだと記した。


平成29年11月12日
 
 昭和10年11月発行の萬葉集評釋にて金子元臣は、波多横山を家城の瀬戸が淵と位置付けた。


平成29年12月10日
 
 森本治吉は「波多の横山の巌研究で」井関の平岩からJR井関駅付近を波多横山と結論付けた。
 「波多横山を見つつ作る歌」であり、雲出川をそれとする説もあるがどうしても横山に近い川でなけれ
 ばならないから波瀬川の外には考えられない、と言い切っている。

 また、江戸中期〜後期の儒者熊坂台州は「西遊紀行」を記し、宝暦11(1761)年10月6日天の岩
 戸穴を見てから櫛田村に泊まる、7日六軒から奈良路をとる。・・・八太村から山に入る。・・・その夜
 は小倭に宿ると記している。
 これも非常に興味深い事である。


諸説色々あるようだが、雲出川を挟んだ大仰の地が間違いなかろうと思っている。