真盛上人と小泉家



■小泉家のその後

  佐藤定憲著「真盛上人傳」が詳しい。

 真盛の母は小倭庄家城の郷侍で、西川主膳の妹子を国司北畠教具の養女として小泉との縁を結んだと記

 述されている。

 北畠家と西川家における小泉家の地位を理解することが出来る内容だ。

 西川家については「北畠家臣録」に「西川平兵衛 一志郡小倭侍(真盛上人母方)」と記述されている。

 北畠氏の家臣については、永禄8年10月「伊勢国司多気御所北畠家臣大概写」、天正2年3月「勢洲

 多気御所」、天正10年「北畠氏家臣帳」、安永2年10月写「伊勢国司一族諸侍寺社記」があり、そ

 の北畠氏家臣帳を見ることができた。

  小倭三ヶ野住 満賀野甚九郎
  小倭住 吉縣太夫
  小倭佐田之城主 堀山弐部太夫
  小倭谷仙住 臼杵与四郎
  小倭住 岡村修理亮

 小倭七党で聞いたことのある苗字が見られたが、小泉や西川の名前を見つけられなかった。

  一志郡石橋村石橋治郎太夫という名もあった。

 天正10年では時代も新しくそのころ小泉家は滅亡していたし、小泉家は第八代孝元天皇を始祖とする

 古来の名族紀氏であり北畠氏に劣るところはない。

 小倭の小豪族ではあるが、もともと北畠家譜代の重臣でも家臣でもなかったのではないだろうか、それ

 なら「北畠氏家臣帳」に載っていなくてもいいわけである。

 真盛上人傳が述べるところの「北畠家臣録」を探して見る必要がある。

 長禄2年(1458)真盛十六歳の年の8月に父藤能が死去する。

 小泉家はその弟能元が継ぎ、その孫勝吉が天正4年(1576)北畠家減亡の三瀬谷で織田軍と戦いそ

 の子吉正と主家に殉じて戦死しました。

 ここに小泉家は藤能以降三代で絶えたと聞いている。

  真盛上人傳ではその後があり、次のことが分かりました。

 真盛には兄と姉がいたようです。そして、嬉野町の常念寺の過去帳から、享保19年(1734)以降

 小泉九郎兵衛・小泉清右ヱ門家の戒名があり、最新の戒名は昭和16年(1941)の小泉清左ヱ門家

 で終わっています。その後の小泉家の消息は不明であるといいます。

 なにはともあれ、小泉家は昭和の代まで続いていたことになります。
                                       合掌



■小倭七党

  この時代の書物には小倭七党と言う言葉がよく出てくる。

 真盛上人の父である小泉藤能もその一人と説明されていることもありまとめてみる。

 「三重一志白山町文化誌」がわかりやすい。

 勢州軍記に「小倭一味事」として記載されているようで、白山神社への奉仕により団結する一味と理解

 するがその七人衆が誰であったかは明確でないと説明されている。

 同書の「勢南兵乱」の章では

 三田・満賀野・新・岡村・福田山・臼杵・吉懸・堀内・楠見・堀山の姓があげられている。

 また、「具教騒動」の章においては

 臼杵・久須味・吉懸・堀内・庄山・岡村・松岡・松田・益田・馬場・重岡・親(新)・満賀野等也

 と記載されており、白山町文化誌では、森長・稲垣・小泉も小倭党に入れるべきとしている。

 そして小倭党として

 三田・満賀野・新・岡村・臼杵・吉懸・堀内・楠見(久須味)・堀山・庄山・松岡・松田・益田・馬場

 ・重岡・森長・稲垣・小泉

 との18姓があげられる。とまとめ、さらに

 馬場は森長をその所在地で呼んだものと思われ、これを除く。

 「伊勢国司諸侍諜」に出ていないものを除き、三ケ野の二家を一家に絞り三田を除く、稲垣から新移住

 の 岡村を除き、さらに居住所不明の堀内とすでに絶家したと思われる小泉を除く。

 その結果

 三ケ野の満賀野、上の村の新、谷杣の臼杵、南出の吉懸、奥佐田の堀山、口佐田の森長、稲垣の稲垣

 以上の七姓を残すことが出来る。

 森長を吉懸の一統であったとすれば、これを除き大仰の小泉を入れてもよいと結んでいる。

 これで城主あるいは村内で有力であった七家を抜き出すことは出来るが、あえて小泉を七党の中に入れ

 てもらわなくてもいいと私は思っている。

 小倭七党は紀氏を先祖とする同族の集まりと思っていたがそうではないらしい。



■伊勢国司北畠家臣団小倭郷七党

  国立国会図書館で興味ある表題の文言に遭遇した。

 臼井文一氏が月刊誌へ投稿された文献らしい、「史談往来/北から南から」という副題がついていた。

 小泉家に係ることが載っているかと取り寄せてみたが、結論から言うとこれまで以上の情報は得られな

 かった。

 小倭七郷に小倭七党という武士集団があり、小倭郷には実に十二村あったという。

 白山文化誌では十一村と違いはある。

 小倭七党は、三田、満賀野(海野)、新、岡村、自杵(自井)、吉懸、堀山、久須美、堀内(舟木)、

 庄山、松岡、松田、益田、馬場、重岡、森長、稲垣、小泉等十八姓氏が見える。

 従って七の数は、いずれも事実と相違する。

 これは、武士集団が多いという意味で、単に大数であったと考えられる。

 と記述されている。

 この「七」の扱いについては、白山町文化誌でも同じような解釈をされている。

 しかし

 小倭七党はいわば仲間意識の強い集団だと思う。

 今日においても同好の志が「○○会」と名前を付けるが、それは志を同じくし仲間意識を高め他との差

 別化もあるわけで、漠然とした名前は付けないと思う。

 十八姓氏があれば小倭十八党にすると思うし小倭党でいいわけである。

 あえて七党といううことに意味があると思う。

 白山町文化誌はその解説の中で七氏に絞り込んでいる。

 やはり、十八姓氏があったとしてもその中で特に固く団結した七姓氏(七氏イコール七郷である)があ

 ったと私は考えたい。

 そして

 小倭七党と言われるのは藤能より少し後の時代と思われるし、小倭七党の団結は氏素性からではなく、

 白山神社信仰からきているようなので、小倭七党と小泉家のかかわりはあえて気にすることはないと自

 分の頭の中を整理した。